日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・2大民党制(⑥⑦)~吏党系の拡大に対する改進党系の警戒~

1列の関係・2大民党制(⑥⑦)~吏党系の拡大に対する改進党系の警戒~

1905年12月14日付の大石正巳の日記には、「官僚政府と憲政の死生を決す可き最後の戰場は近ずきたり」とある(『大石正巳日記』40~41頁)。当時大石が、薩長閥と民党の対立に、まだ明確に浸っていたことが分かる。憲政本党の要人であった大石正巳の、この当時の日記には、大同倶楽部結成の動きに対する強い警戒心が表れている。まずは、同派結成前の12月11日付を見る。そこには次のようにある(大石正『大石正巳日記』33~34頁)。

御用議員を買収操縦して一時の多數を議院に制せんとするの悪弊を絶つに非ざれば憲政の發達を期すべからず、重大の國策を行ふべからず。兩黨を合同せしめて多數を下院に制するは輿論を後援に採るの實を得るものなり。確固たる内閣の基礎を立つるの方法成り。第一著に協商熟議を凝らすべき点は即ち兩黨首領の間にあり。

次に12日。次のようにある(同37頁)。

少数黨合同に對しては自黨の自衛上彼等の選挙區に向て攻撃を加へ、政友會と協商して彼等を議會に撲滅するの手段を執らざるべからず。

14日には、次のようにある(同40~41頁)。

小数黨の聯合運動も亦將に開始せられんとす。其勢力は敢て恐るゝに足らずと雖も、隠謀離間を廻らし官僚政府の手足となりて、國民的正黨を傷害し、憲政の發達を妨害するの憂ひなきに非ず。政黨兩黨は一致して之を征伐し、以て一面には憲政を擁護し、他の一面には自黨の根底を固めざるべからず。

大石は、立憲政友会と憲政本党で、大同倶楽部(となる勢力)を抑え込もうという考えであった(12月11日の記述に、貴族院は疎外されるから反抗するのだという見方、このため1、2名を入閣させるということも記している)。それならば以前と変わらない。しかしそう甘いものではないことを分かっていたからこそ、大石は吏党系等の合流に注目していたのだろう。つまり警戒していたのだろう。内部不統一の憲政本党がまた割れて、第3会派に転落した場合、影響力の低下は、次に大同倶楽部も割れるのでない限り(その可能性はあったわけだが)、さらに深刻なものとなり得た。もちろん双方が割れた場合、衆議院における立憲政友会の力はますます強まり、それは憲政本党にとっても、喜ばしいことではなかった。もっとも、頼りにしていた立憲政友会と、合流できないどころか、切り捨てられたわけだから、現実はより厳しいとも言えた。上の大石の日記、本章の1列の関係(⑤)などで見た原の日記を合わせて見ると、立憲政友会に対する憲政本党の「片思い」が不憫に思われてくる。大同倶楽部が誕生したとは言っても、立憲政友会が政権を得て、その大同倶楽部の協力を得られることになったのだから、立憲政友会が憲政本党の協力を得る必要はなくなった。皮肉なことである。なにしろ、立憲政友会と大同倶楽部を足せば、過半数を優に上回る(薩長閥・吏党系と自由党系が協力するのは、ほとんど第2次山県内閣以来であった)。孤立した第2党の憲政本党にとっては、立憲政友会に対抗するという選択肢は、半ば採らざるを得ないものであったが、それは勝機のないものでもあった(新民党という味方がいたとしても、勢力の小ささを見れば、状況を変えるものではなかった)。憲政本党は本来、帝国党→大同倶楽部と戦うことよりも、立憲政友会と戦うよりも、自らを強化する必要があった。党内が、薩長閥に対抗しようとする勢力と、寄ろうとする勢力に分化しつつあったからこそ、それが必要であったのだが、それは成果を追うことを一度放棄するくらいでなければ、できないことであった。吏党系はそれ以上に不利であったということもできるのだが、当時は吏党系にとって、初めての(少なくとも中央交渉部以来の)拡大のチャンスであり、まずは前傾姿勢をとることができた。

なお、桂(山県-桂系)と原(立憲政友会)との取引きについて、憲政本党では、反主流派とは違い、主流派は警戒していなかったようだ。大石などが、かつて憲政党で痛い目を見たはずの、両党の合流にまで進もうとしていた背景には、立憲政友会(自由党系)を自らに引き付けておかなければならないような構造があったのだということは、十分に言えると筆者は考える。警戒していないように見えるのは、それしか道がなかったからだということである。自由党系(立憲政友会)は憲政本党とは異なり、薩長閥と改進党系を天秤にかけることで影響力を強めていたのだから、それを失う2大政党の合流はそもそも、基本的には選択肢になかった。憲政本党と組むことは、同党と選挙協力をする(大選挙区制であっても互いに候補者を絞る)、つまり議席数の拡大をかなり犠牲にするということでもあった(議席の少ない吏党系と組んでも、その心配も候補者が競合する心配も、あまりない。吏党系が拡大して大同倶楽部になっても、その中には中立実業派出身者など、再選を目指さない者も多いと期待することもできたであろう)。そうであればますます、どちらと組んだ方が政権を得やすいのか、ということが重要になる(議席の拡大を犠牲にして、ライバルの憲政本党と組んでも、それで政権を薩長閥から奪えるのであれば、当時はとりあえずはがまんできたであろう)。普通に考えれば薩長閥だが、薩長閥を選んでも、利用されて終わる、あるいは形だけ政権を得ても、実際は薩長閥の下につくことになる、というのは避けたい。もしその心配があまりないのであれば、答は決まる。

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