左派をバカにし、自民党に利用される改革派

以前述べたように(「高支持率の小泉内閣と、その限界」参照)、筆者が悲観的にだが、多少関心を持っているのが自社さ連立(自社大連立)が繰り返されることがあるのか、ということである。小選挙区が中心の日本では、第1党が多くの議席を得られるので、大連立(第1、2党の連立)が起こる可能性は小さいはずだ。しかし1強多弱でもあるから、他の民主主義国(偽りのものは除いて)と比べれば、弱いといえる野党第1党も、本人たちが望むかどうかは別としても、自民党のパートナー候補の一つとは、なり得てしまう面がある。

自社さ連立の成立は、小選挙区を中心とする選挙制度の法案が成立した後だが、まだそれによる選挙が、行われる前であった。今と状況は違うが、その成立の経緯を確認しておきたい。

万年与党の自民党と万年野党の社会党は対立しながらも、両党の国会対策委員会や、他の要人のつながりによって、互いに歩み寄るような調整をすることがあった。例えば対外的な都合などで変更し得ないものについては、野党が反対であるならば、乱闘などの「見せ場」がつくられた。自民党は過半数を超え、社会党は、憲法改正の発議を阻止できる3分の1を超え(野党が多党化してからは、他の野党と合わせて)、それで満足していた。自民党はアメリカの、社会党は社会主義国の、それぞれ代弁者という面を持っていた。

ところが社会主義国の崩壊で冷戦が終わり、それらの一党独裁政権の、恐ろしく悲惨な実態も広く知られるようになったことで、日本の社会主義勢力は大打撃を受けた(欧米においては、主要な左派政党は社会民主主義政党への脱皮を果たしていたので、その影響は深刻なものとはならず、むしろ1990年台後半は、社会主義政党の政権が増えた)。そんな中、日本では、自民党の優位派閥(竹下派)の後継者争いに敗れた議員達(羽田・小沢派)が新生党を、他の改革派議員の一部(小沢らと違い新自由主義的な路線に否定的で、小沢らほどには自衛隊の海外派遣に積極的でなかったと見られる議員達)が新党さきがけを結成した。両党結成の直前、羽田・小沢派が野党の内閣不信任決議案に賛成したため、衆議院が解散された(それを受けて両党は結成された)。

総選挙の結果、新党群が議席を伸ばし、社会党が半減した。自民党の議席は変わらなかったが、分裂によって過半数を割っていたことから、非自民連立政権が誕生した。この1993年の総選挙は、政権交代を起こした選挙とされることが多い。しかし国民(有権者)が政権交代を起こしたとは、全く言えない。自民党は総選挙前から過半数を割っていた。それは小沢らの離党によるものだから、政権交代は小沢らが起こしたものだということになる。いや、「選挙で自民党を過半数にしなかったのだから、国民が政権交代をさせたのだ。」と言う人がいる。しかしそれは違う。自民党は過半数に届かなかったとは言え、引き続き圧倒的な第1党であった。議会制民主主義であれば普通、国民は自民党を選んだとするべきだ。

たしかに、政党の連合で見る場合もある。しかし当時、日本には明確な政党連合は存在しなかった。それでも総選挙を、自民党と、社会党・公明党・新生党・民社党・社民連の戦いであったと見ることはできる。しかし日本新党と新党さきがけは、どちら側とも言えない。立場を明確にしていなかったのだ。総選挙直後も、自民党との連立を否定してはいなかった。総選挙をこの3つの勢力の戦いと見れば、最多の議席を得たのは自民党ということになる。甘く見ても、選挙による政権交代とは言えない。政局による政権交代とするしかない。

さて、このような分裂、変化が起こったのは、野党が政治改革を求め、自民党がそれに積極的に取り組まなかったためだ。実際には(左派が)改革に熱心であるとは言えず、自民党よりもずっと地盤が弱かった社会党は、新党群を前に存在がかすみ、議席を半減させた(第2党の地位はかろうじて維持)。そもそも社会党は、1989~1990年を除けば長期的な凋落傾向にあった。

しかし非自民・非共産連立政権ができてみると、自民党からさらなる離党者が出るということはあったが、連立政権(非自民)側の内紛が、それ以上に深刻なものとなった。

政治改革の中心となった小選挙区比例代表並立制については、小選挙区の導入について、議席を減らすことを恐れる社会党の反発があった。その他にも、輸入を認めていなかったコメの、一定量の輸入(アメリカが強く求めていた)、そして消費税の引き上げ(国民福祉税に改めるということであった)など、社会党は新生党主導の政策に反対した。参議院での社会党の一部の造反によって、選挙制度の改正は、野党自民党の支持を得ることが必要となった。これにより、むしろ小選挙区制の比重が増して、さらには全国で一つであった比例区までもが、11ブロックに分割された。大政党、特に地方に強い、自民党有利の度を増したのだ。自民党が長く野党であれば、それでも自民党が不利になるはずであった(社会党も、党の姿勢、存在の維持にこだわるなら不利となり、新党群・公明党・民社党の連合が有利になるはずであった)が、そうはならなかった。

新党さきがけと新生党の不仲もあり、連立内閣内部は結局、新生党側と、社さ2党とに分化した。

汚職疑惑もあった細川総理が辞職すると、次の総理には、新生党の羽田孜が就くことになった。社会党も同意したが、それでも新生党は、基本姿勢について譲歩することを社会党に求めた。これは当然の事なのだが、問題なのは、小沢路線が新自由主義的であり、かつての自民党以上に(「かつて」としておいたのは、変化の時期にも自民党はあいまいであったため)、自衛隊の海外派遣に積極的であったことだ。文言では適当に折り合えても、互いに不信感があったのである。だから小沢は、社会党(の左派)を切り捨てることができるようにするために、自民党を切り崩そうとした。こうして与党内の溝が深まる中、社会党を外して、新生党や日本新党、民社党による統一会派が結成されたことに反発した社会党が、さきがけに続いて連立を離脱した(閣外協力と捉えることもできるが、そうであっても恒久的なものだとは言い難かった)。小沢はとりあえずは、社会党の影響力を低下させる事、社会党を威嚇する事を狙ったのものかもしれないが、社会党の多くに強い反感を持たれた。

この頃、小沢新生党に接近する細川日本新党代表に反発し、日本新党を離党、後に新党さきがけ入りしたのが、枝野や前原である。

この非自民連立の内紛を見て(実際にはそれを見越して以前から)、与党への返り咲きに執念を燃やす自民党が手を伸ばした。そして社会党が総理大臣を出す、自社さ連立内閣が成立した。社会党の右派は、非自民連立に未練を持っていたが、左派はむしろ自民党の方がましだという様子であった(与党であっても軽視される非自民連立政権の時期よりも、野党でありながら、自民党に一目置かれる五十五年体制の方が、彼らにとっては良いものであったのだろう)。自民党は当初は腰が低く、少し前まで自民党の中心にいた新生党の、自民党時代の責任、非自民連立における強引さについて懐疑的になっていた国民もいたため、自社さ政権は一定の支持を得た。しかし、自民党が総理のポストを取り戻し(註)、1996年の総選挙で過半数に迫る一方、選挙や分裂で社さ両党が議席を大きく減らすと、結局、おごる自民党の1党優位にもどった。

註:支持率の低下、社会党の展望が開けない事に苦しんだ村山社会党委員長が、困難な問題―省略するが住専問題―の回避、社さ新党実現に向けた活動のため、橋本自民党総裁に禅譲した。

 

1998年の参院選では自民党が大敗したが、新党群や公明党、民社党が合流してできた第2党の新進党もすでに、7つの政党、会派に割れていた。敵のいなくなった自民党は、参院での過半数割れを、中小政党を政権に「入れてあげる」ことで楽々としのいだ。

非自民連立政権から自社さ連立に変わった背景には、落ち目の左派を改革派の保守がばかにしたことがあった。これは非常に重要なことである。村山自社さ連立内閣を見ても分かるように、社会党をもう少し立てていれば、左派の抵抗はかなり弱められたはずだ。時代を動かすためには、そのような手腕も必要なのだ。新生党の主張が仮に(当時)100%正しかったのだとしても、それを高圧的に押し付けたことで結局、改革に本心では抵抗する、巨大な自社大連立政権ができてしまった。今も似てはいないだろうか。維新の会は左派野党を批判するだけでなく、馬鹿にした態度をとっている。

それにはもちろん仕方がない面もある。左派政党の国防政策は非現実的だし、保守政党への反発ゆえだとしても、改革に消極的なところが確かにある(ただし、小泉内閣成立後まもなくまで、民主党は改革に積極的な政党であったし、その後も、無駄遣いを減らすという点では積極的であった)。大事なのはその背景を理解し、左派政党に敬意を持ちつつ、長い間の逆境も含め、彼らを理解しようとすることだ。ましてや民主党系は、イコールかつての社会党、ましてやその左派ではない。どちらか一方が100%正しいなどということはない。理解しなければすれ違うだけだ。それでもいいと思う人が多いようだが、そうとばかりは言えない点がある。

優位政党の自民党では、1派閥優位だとは言っても。時に主導権争いが深刻なものとなる。それを制すれば総理大臣(のグループ)になれるのだから当然だ。であれば、自民党の一部が維新の会と組もうとすれば、他の一部が左派野党と組もうとしても、不思議ではない。それによって自民党が2つに裂かれ、本格的な再編が始まるなら良いのだが、そんなことはない。自民党は他党を持ち上げてみせることはあっても、とにかく利用しつくすだけである。残るのはやはり、振り回された他党の、共倒れである。社さ両党も、その多くが離党して結成した民主党も、新生党等が結成した新進党も、1996年の総選挙で共倒れのような状況になった(当時は、弱っていた自民党に、非自民が勝つチャンスであったはずが、相手にもならなかったということである)。これが繰り返されることを、筆者は恐れる。

自民党が自社さ派と保保派に分裂するという見方すらあった(筆者も少し期待していた)が、結局社会党→社民党も、新進党→自由党も利用され、民主党が腹をくくって完全に野党化しなければ、自民党(自社さ派とその軍門に下った保保派)が好きな方を、しかもその時々に、好きに選べるような状況に、危うくなるところであった。

それを回避したのが民主党であったわけだが、それでも中道左派は、与党の公明党(一部を除き新進党内にあった)と野党の民主党に分かれた。

 

自民党の分派という繰り返し、それを脱する道とは→