日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
維新の会は改革ポピュリズムか右翼ポピュリズムか

維新の会は改革ポピュリズムか右翼ポピュリズムか

本節は、以前書いておいたものを、菅直人の維新批判ツイート、その後の動きを見て、書き直したものである。タイトルは変えていない。元々、欧米のどの政党に維新は該当するのだろうかと、五十五年体制と現状の比較も意識しながら、考えていた。その上で決めたタイトルであった。

筆者はポピュリズム全般に批判的ではない。ただしその場合のポピュリズムとは、既存の大政党を合わせても、比較的多くの国民の利害を代表できていない時、それをしようとするものだと捉えている。右派ポピュリズムも左派ポピュリズムも、これに該当する。その中に含まれ得る、悪しきポピュリズムを警戒しなければならないと考えるのだ。

その「悪しきポピュリズム」の、筆者の定義は次の通りだ(オーソドックスなものだと思う)。

①特定の人々(ただし国家権力、国家権力を動かす力がある人物は除く)を敵として設定し、しつこく批判を繰り返す。

②その敵を倒す効果を含む、象徴的な解決策を、単純化して示す。

③敵と認定する勢力、人々に対して、非常に不寛容である。

筆者は、れいわ新選組を左派ポピュリズム政党だと捉えている。しかし、同党が敵と設定するのは権力者だ(政権に関わる事が多い、竹中平蔵もそうだと言えるだろう)。これを批判するのは、野党としては自然だ。

③については、れいわは正反対である。批判に寛容な姿勢を貫いている(仮に内心はそうではないとしても、それを言い出せばきりがない)。

以上から、筆者はれいわを「悪しきポピュリズム」だとは全く思わない。ただ②について、筆者はれいわの政策に関して、そんなにうまく問題を解決できるのかと、思うところがある(両論について勉強を続けている)。しかし少なくとも、れいわ新選組から詐欺師的な面は全く感じない。それだけ真摯な説明を、山本・れいわはしている。むしろれいわ新選組の政策を、開票特番で議論せずに詐欺呼ばわりした橋下徹に、疑念を抱かされる。ツイッターを見ると分かるが、あまりに感情的な人物だ。菅直人は橋下の弁舌の巧みさについて、ヒトラーを想起させるとしたが、筆者はどちらかと言えばこちらについて、想起させられる。

③に関して、維新の会が、自民党よりも左派野党の批判に熱心である点は前から認識していた。加えて、大阪でコロナの被害が深刻である状況等について、批判にあまりに不寛容な様子を見ると、仮に維新が政権を取った場合、日本が悲惨な事になると想像される(人には一生懸命だからこそ、批判に不寛容になる事がある。しかし権力者にはそれが許されない。いや、権力者にそれを許すのは危険だと言うべきだろう)。だから、維新が憲法に緊急事態条項を設ける事に積極的である点もこわい。こういった条文は、独裁化、圧政に利用される危険がある。頭から全否定する必要はなくても、警戒し過ぎだと思われるくらいには、警戒している必要がある。

イタリアのファシスト党も、ドイツのナチスも、左派、左翼政党を攻撃し、左派を都合の悪い存在と捉え、左翼を恐れる保守派(既得権益側)の、消極的な支持を得た。維新も似ているだろう。これらは政権を取ると、敵視していた勢力に限らず、自らへの批判を許さなかった。維新が政権を取ったらそうなりそうだ。最初はソフト路線でいくかも知れないが、国政はうまくいかない事、批判される事の方が多いくらいだ。そうなった時には、今見られている現象が拡大すると思われる。

今の時代、批判してくる者や反対派を、逮捕する必要などない。最初は手間でも、「フェアな批判ではない」と、一般人を含めてどんどんさらし者にして、足りなければ訴えていけば良いのだ。ある程度人気があれば、国民は嫌な事からは目を背け、やがて忘れてくれる。批判される事(誹謗中傷もあるだろう)や裁判の負担に疲れ、恐れ、「維新政権」を批判する者は減っていく。それでも批判する者は、少数の変わり者として放っておく。やがて他の国民も彼らをバカにして、自分達を勝者の側に置こうとするだろう。その上で維新は、適宜自虐ネタを披露したりして、屈辱を忘れたい国民に、「なんだ謙虚な人達じゃないか」と思い込ませる。

これは筆者の妄想に過ぎない。なぜなら、そのような事になる前に、日本国民は気付くはずだからだ。しかしそれまで、1強2弱の状況は続く。共産党が現実的になる機会も失われる。自民党1党優位が深刻化する。そう、日本は悪しきポピュリズムと同時に、いや、それ以上に、優位政党にも気を付けなければならないのだ。厳しい二重苦である(野党の未熟さを合わせて三重苦とも言える)。

①と②に関しては、敵は地方自治体の公務員。完ぺきな解決策が、大阪都構想というわけである。これについては、筆者は維新の主張に賛成するところもある。けんか腰になるくらい真剣でなければ、改革などできないという面もあるのだろうと思う。しかし、それにしても極端だと思うし、維新が③に全く該当しないのなら、百歩譲ってとりあえず支持する事も排除しないが、③についてはすでに述べた通りである・・・。

さて、このように維新は、①から③にばっちり当てはまる。維新を批判したくて①~③を挙げたのではないかと、疑われるのが心配になるほどだ。また、筆者だけかも知れないが、維新には軍隊的な(あるいは体育会系の)縦社会のイメージがある(安倍晋三を強く支持する勢力にも、そのようなものを感じる時がある)。この点でも、右派ポピュリズム政党と近い印象を持つ(最近の右派ポピュリズム政党には、リーダーが死去したわけでもないのに、簡単に分裂するものもあるようだが)。

もう一つ気になる点がある。維新の議員の、れいわの重い障がいを持つ議員に対する姿勢だ。コロナ感染防止のため国会を欠席した舩後議員について、音喜多議員(現政調会長)は歳費を返納すべきだとした。馬場幹事長(当時・現共同代表)は、同じく舩後議員に対して、尊厳死の旗振り役になるべきなのに議論を封じていると批判した。ALS患者である舩後議員が、死ぬ権利より生きる権利を守る社会にすべきだとした事を受けてだ。

両者の発言の趣旨を、筆者は理解できないわけではない。国会議員は、一般の国民とは違う使命感を持つべきなのかも知れない。しかし、議員という立場にある人間が、このような発言をする事は、世の中を恐ろしいものにしてしまう危険がある。これをもって維新を優生思想の党だとするのは極端だ。しかしそう言われても仕方のない事だとも思う(言われるたびに、言われなくなるまで裁判に訴えるのかもしれないが)。ついでに挙げれば、元減税日本とは言え、総選挙に維新から立候補する予定であった元愛知県議会議員が、大村愛知県知事リコールの署名集めにおいて大規模な不正を働いた疑いで逮捕されている。このリコール運動には、右翼的な有名人が複数関わっている(疑惑の浮上で逃げたが)。吉村大阪府知事・維新の会副代表も、積極的にエールを送っている(さすがに松井大阪市長・維新の会代表に止められたが)。

維新の会には、新自由主義的な自由主義政党、「第三の道」的な社会民主主義政党という性格もあるとは思う。2021年の総選挙における躍進を見る前から、筆者は新自由主義的改革を志向する政党も必要だと考えており、維新を好意的に見ようと努力してきた。しかし、無理かもしれないと思う事が多い。

これまで筆者が維新に否定的であったのは、野党(反自民ではなく非自民と言った方が良いだろう)の共倒れを懸念していたからだ。それ以外の点では、2020年の夏ごろまでは維新を評価してきた。その後疑念が大きくなったのは、竹中平蔵の、東京都知事を政府の任命制にすべきだという主張を見たからだ(政府とは内閣を指すのだろうか)。竹中は維新の党員ではないが、維新の政治の根幹は竹中路線であるし、竹中は国政にも大阪の自治にも、アドバイザー的な立場で関わってきている。竹中が会長を務める企業は、国や大阪府、大阪市から、業務を請け負っている。だから、この民主性を後退させる主張を見て、維新を支持できないと考えるようになった。

大阪都構想の住民投票は再度否決されたわけだが、それでも大阪府知事に権力をなるべく多く集めて、その府知事を内閣の任命制にするという、隠れたビジョンがあるのだと想像する。想像に過ぎないが、現実となればもう遅い。それでうまくいっているように見せて、結局は他の都道府県知事(道州制にして州知事?)も任命制にするのだろう(東京都が重要なのは分かるが、副首都とするなら大阪都知事と、いや、そもそも他の知事だって選び方を変える必要もない。各地の状況、特性に詳しい官僚を使い、全て内閣が仕切った方が速い、効率的だという事になると思う。地方分権とは正反対の路線だが、権力とは拡大を模索するものだから、維新の路線もそうなると思う)。これはもう自治の死、戦前の日本である。「日本人にはまだ欧米のような地方自治は無理だ」と考えられていた、明治期~第2次大戦期の日本は、結局、【国-地方-(政府の介入、影響を受ける)中間団体や家族】という縦のラインで、戦争に協力する体制が敷かれるに至った。あの時は仕方がなかったのかも知れないが、いまそれをやるのか、という問題である。これにさらにIT化、スーパーシティが合わされば、一夜にして監視社会への移行が完了し得る。

維新が示す、象徴的な解決策(例えば大阪都構想)は、改革好きが多い、主に都市部の有権者に受ける。また、日本人は必ずしも都市部に限らず、「これだけはやりたい」という政治家を好むようだ(気持ちは分かるが)。

維新については今のところ、改革ポピュリズム政党だと筆者は捉えている。しかしポピュリズム政党は多くの場合、右派ポピュリズムか左派ポピュリズムに分類される。新自由主義が極端になり、政府など不要とする考えまであるリバタリアニズムも、ポピュリズムとは違うだろう。国家がないとやっていけない人々を見捨てる事になりかねないからだ。ただしポピュリズムと結び付くことはあり得る。その場合のポピュリズムとは、上を(と言っても、本当の富裕層、指導者層ではない)引きずり下ろす事はあっても、平等志向の左派ポピュリズムとは違う。

維新の会を右派(場合によっては右翼)ポピュリズム政党と見る人もいる。海外でそう伝えられることがあるようだ。国会の最右翼であったたちあがれ日本系と合流していた時の、かつての維新の会なら、そういう見方があるのは当然だ。だが今でもそう言われるのはなぜか。以下が思い浮かぶ。

・大阪府民の郷土愛を利用していると同時に、国政進出に熱心であることから、愛国心を利用する可能性が高いし、その兆候がすでに見られる。

・ネトウヨ(筆者は独善的な者に対して、あえてこの言葉を用いている)と捉えられる人物、組織の動画等に出演したり、言動に同意したり、似た発言をする議員がいる。

・日本会議のメンバーがある程度いる。

・組織を最優先にする、かなりの縦社会に見えるところがある(これが右翼的というより、これが政党と結び付くと、右翼・国家主義との親和性が高まる面がある)。

・自民党の最右派と言うこともできる安倍元総理らを、維新は野党を自称しながら、かなり支持している(もともと、安倍を党首に迎えようとしていたが、安倍が総裁選で当選したため、断念したという話も聞く)。

・大阪で実権を握ってからの橋下徹が、かなり強権的であった。具体的には公務員の思想に対する弾圧があった(『続・政権交代論』「敵を設定するやり方」参照)。他に、たとえ公務員の規律を重視しての事だとしても、公立学校教職員の国歌斉唱を義務付ける条例を制定し、口元のチェックまでさせた事-公務員として、特に民主主義の国なら、国家、自治体の決定に従うのは当然の事であって、それは内面まで統制するものではない。しかし第2次大戦、戦時の問題と関わっているので、慎重に見なければならない面もある-)。

一方でしかし橋下は、大阪市長時代にヘイトスピーチ規制条例を成立させている。ヘイトスピーチは外国人、異なる民族、言語の人々を攻撃する、右翼的なものである場合が多いから、この点では少なくとも、「橋下維新」を右翼的だとは言えない(右翼内の内ゲバだとはさすがに捉え難い)。また橋下は、著書(『沖縄問題、解決策はこれだ!』)において、沖縄に独立する覚悟を持つべきだとしている。あくまでも沖縄の主張を通すため、というスタンスであるが、中国の沖縄に対する野心すら、利用する事を勧めている。これは右翼とは対極的だ。しかし維新の会はと言うと、橋本の悪しきポピュリズムとは軌を一にしており、さらにこのような、橋下の右翼的でない面については、ほとんど継承していないように見える。

以上だ。維新の会に警戒しなければならない面があるのは確かだろう。改革を前面に押し出しているが、右翼ポピュリズム的な性格もあり、改革が最終的には、反論を許さないトップダウンという点でも「合理的」なものになる恐れがあると思う。しかしそれはまだ維新の一面であり、勢いをもって拡大しているからこそ、危うい人物だけでなく、維新を良い方向に持っていける、それをする勇気がある人物も、参加しているのではないだろうか。改められる余地は十分あると考える。そのためには国民が維新に甘くならない事が重要だ。

一方で、左派野党とその支持者が維新を認めず、維新とその支持者が左派野党を認めないという状況、特に、維新が(あるいは立憲が)政権を取るくらいなら、自民党が勝った方がましだという考えは、当然理解できるものだとしても(維新の危うさは今述べた通りだし、双方にはそれだけの差異はある)、それが自民党だけを利するという事に変わりはない。

筆者は今回(2021年)の総選挙の結果と、その後の政党支持率等を見て、「立憲と維新が共倒れにならず、むしろ維新が政権を取る事もあり得るかも知れない」と思った。

その時自分がどうするか、それは迷う。今まで通り民主党系を支持して、それが政権交代の妨げになるのなら、その時には、態度を変えないといけないとも考えている。1党優位こそ、何より改めなければならないと思うからだ。その後には、まだ様々な可能性も広がっていると考える。

しかし維新の現状をここまで見て来て、維新が政権を取ることはあり得ない(必ず一定数の国民が拒否する。議員レベルでも、反小沢連合であった自社さ連立のような、反維新連合ができる可能性がある。それは同時に、既得権益を守る政権にもなりかねないが)。また、維新が政権を取るのは危険すぎる事だと思うようになった。

そのように思えばこそ、2弱(立憲と維新)はやはり2弱であり、双方の支持者をある程度統合しないと、1党優位を変えられない、政権交代なき政治を変えられないという事が問題になる。

一つの道を考える。それは立憲が、維新の支持者の一部を統合する事だ。かつて民主党が維新の党と合流したようにだ。それはしかし社民系の政党を土台に、その欠点を修正する形での再編でなければならない(立憲ではこれが、比較的うまくいっていると思う)。民主党系が新自由主義になれば、社民系のほとんどない政党システムになってしまい、格差、貧困への手当てが不十分、あるいはいびつなものとなるからだ。やっと芯ができた民主党系が、またあいまいになるのも良くない(自民党があいまいな政党だから、どうしてもそのような力は働くが、だからこそ)。結局民進党の結成を繰り返すと考えると、それはさすがにバカバカしいし(ただし民進党の分裂は旧維新系以上に、旧民主系の問題だと言える)、それだけでも社民系の色は薄まり過ぎてしまうかも知れない。しかし今のところ、他の道は思い浮かばない。引き続き考えていきたいと思う。

 

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