日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
離党者の性質・新民党・野党再編(⑧⑩)~伊藤の死と立憲政友会出身者の復党~

離党者の性質・新民党・野党再編(⑧⑩)~伊藤の死と立憲政友会出身者の復党~

立憲政友会の原敬は1909年10月31日付の日記に、伊藤と縁故のある者はわずかに立憲政友会創立時の人々だけだとして、大隈が新聞で述べたようには同党が動揺する事はないと記している(『原敬日記』第3巻362~363頁)。伊藤博文の死去はむしろ又新会に、それとは反対の影響を与えたと考えられる。1903年の桂・伊藤合意の一方の主役であった伊藤の死と、非政友会の大合同が実現しなかった事が、おそらく合わさって、かつて、伊藤の専制と、桂・伊藤合意に反発して立憲政友会を離党した議員のうち、3名(尾崎行雄、小川平吉、山口熊野)が立憲政友会に復党したのだろう。彼らの移動が中央倶楽部、立憲国民党の結成後であり、彼らがそのどちらにも参加せずに又新会に残っていた事を考えると、彼らに小合同を受け入れる気がなかったのは確実だ。3名という、数人の動きに過ぎないと言えば過ぎないのだが、軽視できるものではない。彼らは又新会の源流である同志研究会の結成時からのメンバー全5名のうち、鈴置倉次郎と、すでに8月2日に復党していた富島暢夫を除く3名であるのだ。彼らは個々に復党したようだ(伊藤の死は1909年10月26日、立憲国民党の結成は1910年3月13日、又新会に属していた同志研究会結成時のメンバーの離党は、富島暢夫が1909年8月2日、尾崎行雄が1909年12月22日、小川平吉が1910年3月7日、山口熊野は1910年3月23日である)。小川、尾崎については各位の通りだが、他の3名については分からない)。立憲政友会という大政党にいたような議員達は、議席もそう多くはない、会派にとどまる勢力としてただ存続することには、満足できなかったのだろう。それが分裂後の又新会(残部)となれば、なおさらだ。小合同を一過程と捉えられない事もなかったが、再編が済んだ後では展望も開きにくい。また彼らには、立憲政友会(自由党系)と憲政本党(改進党系)と又新会(新民党)による、反薩長閥連合を目指していた節もある(本章新民党(④)~政党化の是非③新民党(同志研究会系)~参照)。かつて、新民党とし得る同志倶楽部は、自由党(自由党系)と進歩党(改進党系)に合流を求め、これが決まると、自らも合流に参加した(憲政党の結成、中立実業派の山下倶楽部からも少なくない議員が参加し、圧倒的な第1党になった)。このような構想の進展が全く見込めなかった事は、立憲政友会の出身者をあきらめるに至らせたのかも知れない。あるいは有利な立場にある立憲政友会の側からこれを実現させようと、考えさせたのかも知れない。小川平吉については史料が残されている。その一つである、小川の談話を見てみたい。重要なので大部分を引用する(『小川平吉関係文書』40~42頁。1909年4月発行『太陽』第16巻第5号に掲載されたものである)。

新政党組織の根本動機

◎昨年来我々が新政党組織に努力したのは、大政党の必要を認めたからであつて、大同倶楽部が少し大きくなり、進歩党が六十余名より増加して九十名百名となつたと云ふだけでは、何等の意味もないことを思ふ。

◎抑も政党は国論を代表して是れを実地に行ふのが目的であるが、夫れには力ある大政党の出現によつて始めて実行さるゝものと云はねばならぬ。而して責任内閣なるもの力ある大政党が出来れば自然に組織せらるゝに至るのであるが、如何に口頭を以て是れを絶叫し、紙上に於て幾遍論議をなし宣言を発表した処で、責任内閣の樹立などは実現さる可きものでない。畢竟責任内閣は有力なる大政党が出来て、実地に政権を掌握する処から出来る一の現象である。されば単に口頭の問題でなくして、国民を基礎としたる力ある大政党を先づ組織せねばならぬ。是れが抑も我々の新政党組織を主張した根本動機である。

五十歩百歩の争のみ

◎此に於てか我々は小異を捨てゝ大同に就く可きことを主張したに外ならぬ。今日斯く新政党は出来たが、而も立憲国民党、中央倶楽部と云ふが如き小党に分裂したのでは、果たして何等の力が出来たのであるか。進歩党は大同倶楽部と一致することは出来ないと云ふが、何処に英米に於ける政党の如く主義政見の相反したる点があるか。今日我国の政党にあつて、進歩大同は勿論其他の党派に於ても、其主義と云ひ政網と云ひ、孰れも大同小異でないか。孟子に『春秋に義戦なし、彼れ之より善き事は即ち是れあり』とあるが、是れは比較して見て言つた事で、孰れも五十歩百歩であると云つたに外ならぬ。現在の政党に於て甲が乙を笑ふは所謂五十歩を以て百歩を笑ふものと云はねばならぬ。例へば地租一歩減と八厘減とは単に程度の問題であつて、何処に主義政見に於て相背馳せる処があるか。

平凡無意味の新政党

◎責任内閣を樹立し、憲政の円満になる発達を期する為には、少し位の政策の差異は犠牲とするの覚悟がなければならぬ。斯くして始めて大政党の組織も出来るのである、されば何の党派に属する人も、従来の行掛りや歴史的感情を捨て、裸になつて御維新を遣る積りで従事せねばならぬ。若し在来の党派を改造して、より大きくすると云ふならば全然中止するがよい、八十の議員が百になつたとて、其の党の上より見れば利益はあるか知らぬが、是れを政界の全体より見て何等の貢献する処があるであらうか。憲政発達の点より見れば如何にも平凡無意味のものと云はねばならぬ。夫れ故新政党を組織するならば、歴史的感情を排除して大合同をなし、力を作ることが急務であるまいか。斯くてこそ新政党も意味のあるものとなり、政権掌握換言すれば責任内閣の樹立に一歩を進むるものであるが、中合同にして終らんか、政見実行などは思ひもよらぬことで、憲政の美果を収むることは前途尚ほ遼遠であると思ふ。

憫笑すべき杞人の憂

◎以上の意味を以て昨年の春、犬養君にも話したが、当時尚ほ機運が熟せぬと見えて、実現するまでに至らなかつたが、世間には説をなすものあつて、大合同は出来ても醜分子が多数を占めて、夫れ等に利用され圧倒されるであらうと云ふけれども、是れ杞人の憂である。各派の人物性行から見ても決して醜分子に勝を占めらるゝ恐れは全くないと信ずる。万一斯樣な場合が起つて一所に行動することが出来ない時は、其時離れても差支ないでないか。単に前途を悲観して躊躇逡巡する如きは我輩は取らぬ。宗教家、学者ならばこんな危道を踏まないのがよいであらうが、政治家たるものは敵党をも同化して行くと云ふ大度量、意気がなければならぬ。此の度量意気がないならば政治家などと言つて政治界に立たぬのがよいぢやないか。况して醜類といふもさう酷だしいものがある訳でもないでないか、出来ないまでも試むるのが寧ろ政治家の義務、本分であらうと思ふ。

中合同の非なる理由

◎又或る人は今日急に大合同をなさずとも、先づ中合同をなして大合同を為すの端を聞くがよいでないかと論じて居るが、現に各派とも其の立場に迷ふて居ると云ふ状態で、大合同の必要を痛切に感じて居る。然るに此の時に大合同が出来ないならば何れの日に能く大合同を為すを得やうか。剰さえ中合同をなして部分的に小根拠を築いたならば、是等の小党派は益々城壁を固ふし、溝渠を深うして、日を経るに随ふて遂には相反目するに至りはしまいか。斯くて中合同は両者を背駄せしむるの端とはなるであらうが、決して大合同の第一歩をなすものと云ふことは出来ぬであらうと思ふ。夫れ故今日大合同が出来ないならば、寧ろ混沌たる儘に放擲しておいて、更に時機の来るのを待つが宜しい、家を建て城を築くは却つて将来大建築をなすの妨害とはなつても、毫も補助とはならぬ。混沌たる現状にあつてこそ、大合同の機運を促進せしむるに相違ないと思ふ。斯く観察し来れば今回の中合同は大同倶楽部を少し大きくして中央倶楽部と改名し、進歩党を稍々拡大して立憲国民党の名を冠したと云ふ以外、政界を一新するとか責任内閣の理想を実現するに一歩を進めたと云ふ点が、果して何処にあらうか。加之是れが却つて近き将来に於ける大合同の機運を頓挫せしむるものとなるではあるまいか。

大合同後分散の恐なし

◎尚ほ一言したきは、徒らに大合同をなして多数を集めて見た処で、所謂鳥合の同勢なれば直ちに分裂することは火を睹るよりも憭かであると云ふものもあるが、各派の人々は既に少党分立より生ずる苦き経験を甞めめて居て、大合同をなさねば何事も為す能はずと云ふ感念は、深く脳裡に印象されて居るから、一度び大合同をなした暁に至つて、再び不利益な道に逆戻りすることは事実想像することも出来ないでないか。併し非常なる事情に遭遇すれば兎に角、斯の如きは度々起るべきことでないと思ふ。且つ此処に一の勢力が出来て、一敵国たるの実質を備へ来らば、其の意見も着々実行されるやうになつて、各党員は益々党の実力を自覚し、是れより出で行くなど云ふ事は自から進んで不利益を招くものであるから、互に忍耐して自党の面目を維持するに勉むることは多言を要しないと思ふ。

寧ろ政友会に走らん

◎我輩は大合同が出来ない以上、到底其の党派に望みを嘱することが出来ないから、今日まで同志として交り来りたる親密なる友の多くが、新党に走つたけれども、憲政に何等貢献する処ないと思はれる故、新政党には行かないが、我輩の今後の態度としては、浪人となつて不相変侃々諤々の議論をなすか、或は政党に入るならば、大政党として比較的結合ある政友会に入りて憲法政治の為めに尽さうと思ふ。

筆者が上で述べた通りの事だと言えよう。確認できるのは、小合同を大合同のステップとは捉えられないと、小川が考えていた事である。小合同が実現した後では、むしろ立憲国民党と中央倶楽部の対立関係が明確化し、大合同へは進めなくなるという事である。また小川が、何より政党内閣の実現、定着を重視していたこともうかがわれる。第1次西園寺政友会内閣ができた時にはおそらく、これと非政友会勢力による、政権交代のある政治を求めたのであろう。しかし現実には、政党ではない山県-桂系と、立憲政友会による、政権交代が定着しつつあった(もちろん選挙による政権交代ではない)。であれば立憲政友会に入って、この政権交代だけでもしっかりと定着させ、政党内閣(議院内閣制)の定着へと進まないと、薩長閥(と自由党系)中心の、単なる談合政治が定着してしまうという事であったのだろう。ただし、単に強い政党(に返り咲いた立憲政友会)に戻りたかっただけだという事も、もちろん考えられる。大合同がうまく実現すれば、桂がその新党を事実上閣内に入れるか、あるいはいずれ政権を渡すかも知れない。けんかをして出て行った以上、簡単に立憲政友会に戻るわけにもいかないことから、小川らはそれを期待していた。しかし大合同が実現せず、立憲政友会離党の原因であった伊藤も死去したため、それなら立憲政友会に戻ろうという事である。このような動機であるとしても、小川がそれを正直に言うはずはない。

小川は、第1次西園寺内閣を責任内閣、つまり政党内閣とは言い難い存在だと考えていたのではないだろうか。そうでなければ上の談話において、何らかの形で同内閣について触れると思うのだ。立憲政友会からの入閣が西園寺総理の他2名にとどまり、第1次桂内閣の路線を継ぐ事など、条件を課せられて政権を譲られたことから、第1次西園寺内閣を政友会内閣と捉えない事は通説であると思う(筆者は政友会内閣としているし、便宜上そう分類される事もあるが)。であればそれは当然責任内閣とも言い難い。だから小川は、議院内閣制を実現させるために立憲政友会に戻ったとも言える。それは分かる。しかし非政友会勢力の大合同が実現しないから立憲政友会に、というのは理解し難い。非政友会勢力の大合同合とは、立憲政友会を優位政党と見て、これに対抗すべく、他の党派が大同団結するというものであるはずだ。そうでなければ合流する必要はない。大合同で誕生した政党を、政権を担う政党に育てるという事もあるにはあっても、だからこそ、理念や政策の大きな差異を程度の問題に押し込めてまで、小川は大合同を実現させようとしたのではないだろうか。【立憲政友会が強すぎるから、対抗するために差異があっても合流し、政党間の政権交代のある政治を目指す】というのと、【日本では薩長閥が強すぎて、まだ議院内閣制(政党内閣の定着)が実現していないから、政党内閣の実現に最も近いところにいる立憲政友会を強くする】というのは同一の衆議院議員、同一の政党人の中では本来両立しない。現状把握が異なるからだ。部外者であれば、現状把握をあいまいなままにして、「立憲政友会は薩長閥と取引きをしてでも政権を獲得し、非政友会勢力はその立憲政友会に対抗すれば良い」と言える。それなら大合同を最善の策、立憲政友会に復党する事を次善の策としても、矛盾はしない。しかしそれでも、当時の薩長閥においては山県-桂系が強く、それに連なる大同倶楽部は非政友会勢力であった。薩長閥に対抗して政権を得られる政党になろうとする立憲政友会に、薩長閥と連なる勢力と合流して対抗するという、矛盾する面はあるのだ(後に政党を結成しようとする桂を、それまでの山県系とは異なる存在だと見るか、薩長閥を問題視せず、その要人と組んで立憲政友会に対抗する場合、矛盾はしない。しかし前者は後の話であるし、後者では話の前提が変わってくる。小川らのそれまでの言動との矛盾はむしろ大きくなり、ここで筆者が彼らを取り上げている事自体が意味をなさなくなる)。

筆者は1党優位には否定的だから、優位政党という存在を好意的に捉えられない。しかし当時の状況としては、政友会内閣をまずは繰り返し出現させる事が重要であったと考える(ここまでは筆者も原敬と同じだ)。その上で、立憲政友会が政党内閣について「普通の政権」であると、主に薩長閥に認めさせた時(薩長閥がそう認めるしかなくなった時)、つまり日本の政治が次のステージに進む時のために、あるいは薩長閥と立憲政友会が談合政治を続け、ひとつの権力集団のようになりそうになった時のために、強い第2党を少しずつでもつくっていく事が重要であったのではないだろうか(原敬はこれを避けようとしたと言える。それはまだ早いという事か、自分が実権を握る政党を万年与党にしたかったのか。もし後者なら愚かだと思うが、確かめる事はできない)。しかし同じ人物が同じ時期に、「強い第2党の形成でも、優位政党の政権の定着でも、どっちでもいいからやりたい」と言うのなら、それはよほど客観的な政治家か、とにかく有利な(地位を得られる)ところに行きたいというだけの政治家だろう。前者とし得るような議員が多いとは考えにくい(この時代にそのような視点に立つのは難しい。当事者である議員、政治家ならなおさらだ)。

憲政本党が立憲国民党になっても、多少議席が増えるだけでは意味がないというのは分かる。しかしそれは重要な一段階にもなり得る。その少しの強化を生かすも殺すも政治家次第であり、そうあせって評価すべき事でもない。そして言わなければならないのは、又新会と大同倶楽部の違いを、やはり「程度の問題」とはできないという事である。それでも合流するという事を、筆者は否定しない(筆者の考えはここでは省略するが、『政権交代論』等で述べている)。それだけ無理な合流をするには、その分だけ、戦略も根気も大義も必要になるという事だ。簡単に立憲政友会に復党するような議員がそれを持っていたとは、どうしても思えない。政党同士が合流する時には、不参加者も出てき得る。それは可能なら避けるべきだが、不参加者があってもコツコツ積み上げていくしかない。大量の不参加者が出るなら、早期の合流を避け、調整、信頼関係の構築を続けるしかない。円満な形なら、それぞれの党派の一部が先行して合流するのも良いだろう。1党優位の傾向がある日本では、選挙だけで議席を増やす、維持するのが難しい時がある。それに、再編後に多少なりとも成果が現れれば、不参加だった者を改めて引き入れることもできるかも知れない。わざわざ合流までしなくても、政党連合のようなものを組めば良いという考えもあるだろう。それは現在なら肯定できる。しかし議員内閣制ではなかった当時は、一つの政党として、少しでも議席を多くして、衆議院での拒否権を明確に手にするなどして(そのためには党議拘束をかけてでも、全員をまとめる必要がある)、薩長閥にその政党の存在を認めさせることが不可避であった。だから合流は必要なのだが、単に立憲政友会ではなく、自分達が政権を担いたいという事ではいけない。それではどうしても急ぎ過ぎてしまう。立憲政友会が非常に低能な、問題のある政党であれば話は別だが、無理に合流した勢力に、立憲政友会を大きく上回る能力があるとも言い難い。やはり立憲政友会を良くするか、非政友会勢力が、無理のない形で再編したり議席を伸ばしていくしかなかったのではないだろうか(薩長閥がどうすべきであったかという話までする事はここでは避ける。薩長閥に問題視されても仕方がないほど、当初の政党は未熟であったし、薩長閥には民主化よりも、国際社会における日本の安全、存続を考える必要があった事も理解できる。しかし政党と十分向き合わなかった事で、状況を悪くした面もあると思う)。

なお、大合同後にまとまりを維持できるかという点について、小川は、小さな勢力で苦労している議員達が集まるのだから、再び小さな勢力に分裂することはないと見ている。これについては、そのような面もあるが、そうならない事も十分あり得るという事をその後の歴史が示している。小党、小会派に属していた議員には、それが苦にならない、少なくとも大きな勢力の中でがまんしたり埋没したりするよりは良いと考える者が少なからずいる。ここでは触れないが、憲政会からの、革新倶楽部参加者、憲政会後継の立憲民政党からの、国民同盟参加者の離党も良い例である。これらを問題にならない程度の分裂とするのなら、それは小川の主張がより正しいという事になるが。

補足すると、小川と近い時期に同じく又新会から立憲政友会に移った尾崎行雄(上で述べた3人のうちの1人)は元々改進党系だ。彼は憲政本党を離党して立憲政友会に入った時点で、非政友会の限界を悟っていたとも考えられる。であれば大合同がよほどうまくいかない限り、立憲政友会に戻ろうとするのは自然な事であったと言える。尾崎は立憲政友会に移った理由として、「強ひて理屈をつければ、貴族院の勢力に對抗するため、衆議院の勢力を強大ならしめる必要を感じ、これがために、政黨勢力を大ならしめんとする方途に出たとでも、言ふことができよう」としている(『尾崎咢堂全集編纂委員会編『尾崎咢堂全集』第11巻458頁)。また1909年7月3日付の読売新聞によれば、立憲政友会を大きくして衆議院を一党にまとめて、非立憲主義者を屈服させる事を立憲政友会に希望していおり、同党がそれを容れるならば去就、つまり復党を決めるということ述べている。そして記事は、尾崎が「新政黨組織を全然見限」ていると、占めている。これを信じるなら小川平吉に近い考え(薩長閥に対抗する事を最も重視する立場)であったということになる。

1909年9月8日に戊申倶楽部から立憲政友会に移った戸水寛人は、選挙区の金沢市民に向けた告白書を掲載している(立憲政友会への移動を理解して欲しいという趣旨。『立憲政友會史』第参巻181~186頁)。戸川は立憲政友会、自由党系の出身ではないが、小川と比較するのも面白いので、その概要について記しておきたい。戸水はまず、「公人的抱負の實行と時勢に迫られ」たためだとしている。そして2大政党が必要だとして、しかしその機運が高まらなかったとする。そして、それをなし得る人物が非政友会の勢力にいないとしている。また非政友会の議員達の動きが、立憲政友会への嫉妬、不均衡への憤りによるものに過ぎないという事を述べている。内閣が西園寺政友会内閣から桂内閣に代わった事で、合流の動きが停滞した事も認めている(本章野党再編野党の2択(⑥)~野党が左右に裂かれる1強2弱~で確認した事である)。また、桂総理ら(「在朝政治家」としている)にその意図が仮にあったとしても、時機を逸したともしている。これは見方によってはそうだろうと思う。立憲政友会から離党者が続出した時こそ、薩長閥にとってチャンスであったからだ。相対的に有利になった非政友会勢力をまとめることについてだけではない。場合によっては、弱っている立憲政友会(薩長閥との協力、妥協に批判的な議員は多くが離党していた)を含めた、薩長閥寄りの勢力をつくる再編も、不可能ではなかったと思う。しかし戸水の動き自体には、そして告白書のその先の記述にも首をかしげざるを得ない。機を逃したのならば「多少の抱負と宿願」を実現させるため、立憲政友会に入ったのだというのだが、その「豊富と宿願」は結局、北陸の発展であるようだ(告白書の記述が結局そこに着地している)。戸水は、立憲政友会が「積極主義なると比較的節度あること」も同党に入った理由としている。対外強硬派の戸水の姿勢は、立憲政友会とは大きな差異があったはずだ。それを北陸への、あえて言えば利益誘導を求めて立憲政友会入りしたという事だ。戸水の本意というよりも、選挙区民に理解を求めるためなのかも知れないが、かなり露骨な表現になっている。小川との共通点を探せば、さらなる再編が起こる、起こせると、期待していない点だ(小川と戸水のどちらかが、それを理由に立憲政友会入りへの批判をかわそうとしているのでなければ)。ただしここでも戸水の表現は、より露骨である。戊申倶楽部を結成したのは、政界の変動を待って動くためだとして、独立した少数会派として存続する事を否定している。

小川も戸水も2大政党制をよしとしているが、主義、政策が異なるから2つの大政党に分かれるというようなことを、少なくとも記述の中では前提としていないように見える。1党優位について筆者は、特に現在までほぼずっとそうであると言えることについて、問題だと思う。帝国議会開設からわずか20年ほどしか経っていなかった当時、そして政党内閣が定着していなかった当時、理念や政策の違い、支持基盤の違いに基づく政党制が全くと言って良いほど築かれようとしていなかったのは、まだ社会がそこまで発展していなかったからだと言える。深刻な民族問題や宗教問題を抱えていなかった大日本帝国という国では、理念や政策の差異に基づく政党制の方が、短期的にはバランスが悪くなっても、有意義な議論がなされ、政党政治がうまく定着したのではないかとも思えるが、まだそこまで到達していなかったのなら仕方がない。であればまずは立憲政友会の政権が普通の存在となっていく過程で、それに対抗する政党の像ができてくれば良いとも思える。ただ、立憲政友会がそれを実現させるために、利益誘導最重視、与党でいられるためなら何でも良いというような、非合理的な政党になると、まともな対立軸は浮上しにくくなる。当時はそうなる危険がかなりあったと思われるが、時代的には、農村部と都市部の利害の衝突が見られはじめていたから、少数派でスタートする事を受け入れるなら、都市部、(中小の)商工業者を支持基盤とする、立憲政友会のライバル(の卵)に存在意義はあった。ここで本章の初めの方で見た商工党の問題(本章実業派の動き(④)~政党化の是非①実業派~参照)を突きつけられるのである。小川や戸水は、商工党を結成するような出自の議員ではなかったから、この話とは無関係に近く、従って立憲政友会入りするのが自然な議員であったと言える(筆者は好きになれないが。なお、このような入復党によって立憲政友会が強くなり過ぎる事の弊害は、ここでは考えない)。

戸水についてはここまでにして、少しさかのぼるが、立憲政友会には1909年3月15日に、井上角五郎が復党していた(伊藤の死、非政友会勢力の小合同の前である)。その理由は、井上が自由党系と捉える大同倶楽部(筆者は吏党系と捉える。自由党系とはとても捉えられない)と、憲政本党との合流に反対であった事、かつて井上を除名した立憲政友会が、井上の主張を実行している事であった(井上は第1次桂内閣と通じているとして除名された)。井上は主義、政綱が異なる大同倶楽部と進歩党(憲政本党)の合流に否定的で(3税廃止で賛否が分かれた事を例に挙げている)、人的にも主張の上でも異なる憲政本党よりも、かつて所属し、主張も近い立憲政友会に合流したという内容の事も述べている(以上『井上角五郎先生伝』272~274頁。井上が公表した「復黨の趣旨」が掲載されている)。井上が変節したのではなく、立憲政友会が井上と同じになったという理屈は、確かに成り立つ。

最後に、ここで見た小川、戸水、井上は優位政党に入復党している。彼らについて考える時、冷戦後に一度野党になった自民党が政権に戻った後、同党に入復党する者が続出した事を思い出す。最近ではさらに、野党に戻った民主党→民進党系を離れ、自民党に入復党する者が続出した事も思い出される。彼らの中には、非自民の再編、その結果できた政党の限界を認め、であれば自民党で政策を実現させたいとする者がいる。状況は異なっていても、ここで見た人物達と似ているとも言える。ただ、自由民主党はすでに万年与党であり、これから政友会内閣を定着させる必要があった立憲政友会とは異なる。だから筆者は、第2党から、そのライバルの第1党(優位政党)に移った冷戦後の議員達は、(より)悪質だと思っている(新生党や日本新党は合流して新進党になるまでは第2党ではなかったが、連立を組んで政権を担っていたという点で、衆議院の第1勢力であったと言える。この連立政権が終わった後については、実際に新進党を結成するし、広い意味で第2党的なものだと捉えても良いと考える)。考えの違いが大きくなったとして所属先を変えるのはまだ良いとしても、それなら議員を続けずに、他者にその思いを託すべきだと考える。そうでないと選挙の意味、非優位政党の議員を育てる意味がなくなってしまう。

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