日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択(⑩)~形になった野党の2分化~

野党の2択(⑩)~形になった野党の2分化~

旧又新会系、旧戊申倶楽部系のうち、中央倶楽部にも立憲国民党にも参加しなった議員達が、合流して会派を結成する可能性はあった。しかしその人数は30名程度(※)であり、非政友会勢力が当時、立憲国民党と中央倶楽部に整理されたという事は言えるだろう。では双方の違いは何であったのだろうか。本来であれば前者が消極財政(低負担。産業振興策には積極的な面も)、後者が積極財政(特に軍事関係)という差異があるはずだが、第2次桂内閣は消極財政政策をとり、税負担の軽減についても一定程度取り組み、また、今後も進める意思を示してはいた。中央倶楽部は山県-桂系の勢力であったから、軍拡等国力強化の主張、選挙区事情等による積極財政的な主張はあっても、2度の拡大(帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部)で、実業派の議員も加わっている。そんな中央倶楽部を、積極財政志向と決めつけるのもやや安易だ(もちろんその傾向はあり、それは重要な特徴ではある)。市部選出議員の比率も、憲政本党→立憲国民党よりも、大同倶楽部→中央倶楽部の方が高かった(憲政本党と大同倶楽部について本章実業派の動き選挙制度の影響野党再編(①)~重要性を増す市部~参照。立憲国民党結成時点で市部選出―北海道区部は除く―は立憲政友会201中23、立憲国民党92中10、50中17、又新会18中7と、又新会、中央倶楽部の比率が高くなっている)。双方の最大の、最も明確な差異とはやはり、政治の民主化に関して保守的か、進歩的かということであったと言える(それすら、桂太郎の変化もあって変わっていくのではあるが、当時まではそうであったと言えるだろう)。

※ 存続していた又新会が18議席(又新会を離れ、どこにも所属しないままでいる議員はいなかった)、旧戊申倶楽部系が9名(中野、稲茂登、西村、岩下、磯部、安東、星、飯田、加藤。下記の3名を合わせれば12名)。その他の無所属が5名(大縄、川真田、松尾、石田、清水)いた(松尾、石田、清水ももともとは戊申倶楽部。うち石田と清水は中央倶楽部の結成に参加するも、それぞれ2日後、6日後に離脱)。

 

 

 

 

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