日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1党優位の傾向(⑩)~さらに膨らむ優位政党政友会の議席~

1党優位の傾向(⑩)~さらに膨らむ優位政党政友会の議席~

第10回総選挙における立憲政友会の獲得議席は187議席であった(定数は379。190議席で過半数となる)。それが第26回帝国議会開会時には200となっていた。その2日前、尾崎行雄は又新会を離れ、立憲政友会に復党していた。これは単発の動きというよりも、又新会の源流の同志研究会を結成した立憲政友会離党者全体の、復党に近い動きであった(本章離党者の性質新民党野党再編(⑧⑩)~伊藤の死と立憲政友会出身者の復党~参照)。そして立憲政友会の200議席は、同議会の会期終了日には204に、第28回帝国議会開会時(1911年12月27日)には、209に増えていた。その一因には、非政友会勢力再編の際、いずれの党派にも加わらなかった議員達の、入復党もある。大同倶楽部と戊申倶楽部が解散した1910年3月2日から1911年8月26日までに立憲政友会入りした議員は、以下の通りである(これ以降、衆議院議員の任期満了まで、同党入りした衆議院議員はいない。またこの期間より前にも、再編問題に少なからず影響を受けた入復党者がいると思われる―例えば本章離党者の性質新民党野党再編(⑧⑩)~伊藤の死と立憲政友会出身者の復党~で見た小川平吉―)。うち、以前立憲政友会の衆議院議員であった者には  を付した。

戊申倶楽部系:渡部千冬、高橋政右衛門(中央倶楽部結成前に戊申俱楽部から移動)、清水市太郎、星一

又新会系:小川平吉山口熊野

無所属系:大縄久雄(元猶興会)、川真田徳三郎(一時大同倶楽部)

憲政本党:石郷岡文吉、市田兵七、竹内清明

以上の11名だが、憲政本党出身の3名は、立憲国民党の結成に参加してから、その1年4カ月後(1911年7月10日)に立憲政友会に移動しているおり、当時の報道、原敬の日記等から、再編の動きとは関係ないことが分かっている(少しは影響があったのかも知れないが)。

非優位政党(非政友会勢力)の再編により、逆に優位政党の議席が増える。皮肉な事だが、これは今日でも見られる現象である。それでも、第1、2党の間の議席数の差が大きく縮まれば良いのだが、それが難しいのもまた、今も昔も同様である。この当時、立憲国民党の議席数はまだ立憲政友会よりはるかに少なかったが(209対87)、その上、結成されたばかりの同党(結成時92)からは、すでに6名の離党者が出ていた(本章野党第1党の分裂1党優位の傾向(⑫)~再編後にも離党者がでる第2党~参照)。同党で揉め事があるとすぐに、「離党者が出そうだ」、「その人物は立憲政友会に移ろうとしている」というような事が報じられる状況であった(党内対立は確かにあったから、過剰な報道とまでは言えないのかも知れないが)。一方の立憲政友会は、非政友会勢力の再編(小合同)より前に、すでに190という過半数のラインに達していた。その後も少しずつとは言え、そのラインを離れて上へ行く。たしかに郡部の選挙区は定数が多く、立憲政友会の新旧の議員、候補者は、数が多くなれば共倒れの危険性が高まる。しかし当時はまだまだ(それとも「今以上に」と言ったほうが良いか?)個人で選ぶ面も大きかった。立憲政友会の所属議員、引退した議員を含む関係者が増えるということは、基本的には多少なりとも票が増える事を意味する(立憲政友会に移って来る議員が、以前得た非政友会の票を、一緒に持って来てくれるという事は、当然あり得た)。立憲政友会はもともと他党を大きく引き離す議席を得続けるだけの力を持っていたし、そんな優位政党だからこそ、関係したいと思う国民も多くいた。桂内閣期の総選挙となれば、政友会内閣期の総選挙よりは不利になるとしても、そのような状況(桂内閣期における衆議院の解散、または衆議院議員の任期満了)を生ませないだけの力も、立憲政友会はすでに持っているに近かった。これは簡単には揺るがないものであった。

この事を、もう一つの事象と合わせてみると、事の深刻さがより明確になる。立憲政友会がこの当時、補欠選挙で苦戦しているのだ。

補欠選挙では非政友会が優勢なのに、実際には立憲政友会の議席が入復党者で増えるというのでは、民意との乖離が大きすぎるという事になる。ここで、その補欠選挙での立憲政友会の不振を確認しておく。非政友会勢力の再編があったのは1910年の3月。その1910年の1月から、第11回総選挙前までの補欠選挙は、16議席分だ。そのうち当選者は、立憲政友会6、立憲国民党6、中央俱楽部1、又新会1、無所属2である(立憲国民党の1人は無所属で当選し、まもなく加盟した議員)。元々はどの政党の議席だったかと言えば、立憲政友会8、立憲国民党5、無所属3(又新会出身者2,戊申俱楽部出身者1)だ。小さな変動だし、補選が行われたそれぞれの事情もあるだろうが、立憲政友会の選挙における強さを考えると、同党の不振だと言える。立憲政友会の議員の不祥事に起因する補選が行われ、同党が議席を失ったのは大阪市のみである(補選に無所属で当選した議員が間もなく立憲国民党入り)。この中に、象徴的な補欠選挙がある。神戸市と東京市だ。神戸市選挙区の補選は、立憲国民党の議員の死去を受けたものだが、立憲政友会は元老松方正義(薩摩閥)の三男である、実業家を擁立して敗けた(勝者は立憲国民党の対外強硬派の候補)。原敬は日記に、「富者と貧者との爭は貧者の勝利となるものと先づ以て斷定し得べき今日の情況なるが」と、危機感を伴った記述をしている(7月12日付-『原敬日記』第4巻75頁-。労働者が増えると左派政党が強くなるという予想と、似た面がある。日本でも自民党ができてしばらくは、社会党が政権を獲得するという予想があった)。もう一つは東京市選挙区だ。もともとは改進党系だとは言え、立憲政友会に移っていた鳩山和夫(鳩山由紀夫元総理の曽祖父)の補欠選挙を、やはり立憲国民党の対外強硬派であった、古島一雄が制した。双方とも市部の例で、後者には市政の争点(市民の不満)が影響している。以上については宮地正人「国民主義的対外硬派論」27~29(1709~1711)頁参照。上で触れた大阪市の例も含め、立憲政友会が市部において、郡部と比べれば勝ちにくくなっているという事は、あったのだろうと思われる。保守系の政党が都市では農村部よりも弱いという事も、過去から現在まで、よく見られる現象である(都市では住民の考えがより進歩的であり、また労働者も多い事から、やがて社民系の政党が強くなる)。

なお、この当時行われた府県会議員選挙について1911年9月30日付の東京朝日新聞は、いくつもの選挙区の例を挙げ、立憲国民党の好成績と評価している。同党が立憲政友会以上の議席を得たわけでは全くないし、同党が特に都市部で健闘したわけでもないが、立憲政友会1強と見られる状況下の事としては、目を引く。当時は次の総選挙で、立憲国民党が少し議席を伸ばすという見方があったようである。少しでは意味がないようにも感じるが、自由党系以外が政党とは言えない勢力と合流して議席を増やしても、それは次の選挙で失われる(その分別に無所属議員が当選する)のが常であった。この当時は中立ではなく新民党のカラーがしっかりとあった議員達との合流であったからかも知れないが、その分が失われずにむしろ増えるなら、劣位にあった政党としては好調だと評価できよう(第11章でみるが、立憲国民党の議席は実際に少し増える)。

自由党系(立憲政友会)は自由主義政党であるとは言えても、確実な(つまり薩長閥と対決しない事による)政権獲得と、そのためでもある地盤の強化を最優先とする、何でもありの勢力と化していた。それでも改進党系がそれより進歩的であったから、(やや)保守的な政党と捉える事はできる。そんな立憲政友会にも、普通選挙の実現に積極的な議員、薩長閥に反抗的な議員がいるなど、左右の幅はあった。なぜ今そんな事を確認するかと言うと、同志研究会系の議員が復党した事により、彼らが左派となる事で、立憲政友会がより明確に幅のある政党になる可能性があったからだ。実際にどうなったのか、それはNOと言えるが、同志研究会系の復党者の歩みは、次章以降でも見ていく事になる。「NO」と言うべき結果となった要因は、やはり優位政党に所属する事が議員たちにとって有利であったり、自尊心を満たす事であったからだと思う。意識的にか無意識的にか、このような理由で大政党に入復党する議員が、苦境に陥ろうとも以前の主張を貫こう、実現させようとするのは難しい。

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