日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党・実業派の動き(⑩)~又新会の解散、揺れる無所属的議員~

新民党・実業派の動き(⑩)~又新会の解散、揺れる無所属的議員~

又新会残部には存続を唱える議員達がいたが、同派は結局、非政友会再編(2つの小合同の実現)の約9カ月後の1910年12月21日、再編後初の帝国議会(第27議会)開会を迎えることなく、解散した。解散時の議席は18議席であった(本章野党再編実業派の動き新民党(⑩)~戊申倶楽部と又新会の議員の行き先~で見た残留者は石橋、梅原、大竹、加瀬、小泉、関口、花井、堀谷、松元、三輪、才賀、大西、多木、橋本、藤沢、細野、田坂、早速、神藤の19名。うち田坂は再編の前に議員辞職している。解散より前の第26回帝国議会閉会当日も18議席で、上に含めていない山口熊野が同日に離脱、1910年12月20日に、無所属として補欠選挙に当選していた神藤が加わっている)。ここでは、解散までの経緯を見ておく。

1910年10月31日付の読売新聞によれば、又新会の残党17名が、無所属議員と合流しようとして、「中野一派」に対しては早速が、神藤才一ら数名に対しては小泉らが交渉を試みた。そして中野ら5、6名、その他4、5名の入会が内定したのだという。しかし実際には、それは実現しなかった。12月21日付の同紙は、残党18名が会派を維持しようとし、大竹、細野が主唱者となったが、花井が反対した事を報じている。反対の理由は、立憲政友会と立憲国民党が互いにののしり合い、政府に対して戦いを挑む気力がない中、会派を結成しても何にもならないという事であった。花井は、自らは無所属として行動し、団体(会派)に属したい議員は他に移れば良いとも述べたという。また彼は「規則的結合は御免なり」と、改めて述べている。結局、花井、多木以外の16名が出席した会合において、又新会の解散が決まった。上と同じ12月21日付の読売新聞は、無所属となっていた旧戊申倶楽部系の商工派15名が衆議院内に集まり、無所属の一団を結成し、稲茂登、星を幹事として事務局に届け出たことを報じている。しかし衆議院の会派が結成され、同院の事務局に届け出がなされた事を筆者は確認できない。翌22日付の読売新聞は、解散する又新会のうち、独立的(個人の)地盤を持つのは派内の他2,3名に過ぎないとしている。そのうち大竹は立憲国民党結成に参加した坂口仁一郎の先輩であるため(両者とも新潟進歩党に属していた)同党に入らないのだとし、早速、細野らも同様の事情方であるため、彼らが又新会の存続に恋々としているとする。また、又新会残留派のうち、小泉、松本、石橋、藤沢らの立憲国民党入りが約束されているとしている。細野、大竹らが、旧戊申倶楽部系と会派を共にすることを嫌い、控室を得るために会派を結成するかもしれず、その場合は加入する者が多いとも報じている。そして立憲政友会が小川、山口、中央倶楽部が浅野、近江谷ら、それぞれ自党、自派の又新会出身者をつかって、又新会残留派の勧誘に努めているとしている。1議席でも増やそうとする自由党系(立憲政友会)、吏党系(中央倶楽部)の姿勢が印象的だが、後述する通り、改進党系(立憲国民党)も彼らを勧誘していた(大合同派以外の又新会系の議員なら、旧憲政本党非改革派、旧又新会小合同派の議員達も、議席を増やすために合流したかったのだろう)。

薩長閥と立憲政友会を共に敵とすれば、一大勢力を形成することは難しい。つまり小合同派(薩長閥に連なる勢力を排除すべきだと考える勢力)は、選挙権が大幅に拡大されるような変化でもなければ、いやそのような変化があっても、少なくとも衆議院では長期的に劣勢となる宿命を背負っていた。だから憲政本党→立憲国民党非改革派の犬養は、立憲政友会との連携を度々目指したのだが、同意見の議員がどれだけいたかは定かでない。小合同にすら反対であり、より小さな勢力(どころか一度は無所属議員)となった花井らは、もっと厳しい状況にあった。しかし彼らは権力志向ではなかったから、なんとか自分自身が当選し続ける事さえできれば、それを苦にする事はなかったのだろう。

無所属となった議員達の動きはなお、報じられている。12月29日付の読売新聞は、花井と加瀬を除く旧又新会の16名と、旧戊申倶楽部の16名による会派の結成に、又新会からは大竹、細野、早速、橋本が奔走し、商工派(元戊申倶楽部で当時は無所属)では、中野の意を受けた稲茂登が周旋していたことを報じている。

又新会の残留者は、他の党派との合流に消極的であった。しかし政党化の動きとは別のものとなり得る、戊申倶楽部の再編不参加者との合流は可能であったのだ。戊申倶楽部内の官僚派は中央俱楽部に参加していたから、残る戊申倶楽部系と又新会残留派は、比較的近い存在であったと考えられる。だがこの合流も、実現はしていない。

記事によれば、彼らは立憲国民党からも参加者があると述べている(結成後の立憲国民党からは離党者が出ているが、1911年2月以降の事であり、時期がずれるし、この事とは無関係のようだ―立憲国民党離党者について本章野党第1党の分裂1党優位の傾向(⑫)~再編後にも離党者がでる第2党~参照)。また、立憲国民党も又新会残留派を勧誘していた。それを踏まえると、ここで見た動きについて、最も左の極と、中央左の極が、競合していたと見ることができる。ただしそれは対等な主導権争いではなく、最も左の極の存続を巡るものであった。非政友会勢力が右の中央倶楽部と、左の立憲国民党に分かれていたことに目が行くが、立憲国民党の非改革派、旧又新会残留派、さらに旧戊申倶楽部系の再編不参加者という3つの勢力が、なお左側に事実上は存在していたことも重要なことである。又新会や戊申倶楽部というのは、それまでの会派よりも政党に近く(図⑩-C参照)、よって継続性が強くなる可能性があった(戊申倶楽部の再編不参加者は実際には断絶状態となったが)。だからこれらの左派(あくまでも当時の)勢力の整理、淘汰も、非政友会側が立憲政友会に対抗する上で、本当は有効であった。

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