1-03歴史上一度だけの政権交代1.政権交代論

自民党内の疑似政権交代の限界

中選挙区制の下、野党が不振を脱せずに「万年野党」となり、疑似政権交代と呼ばれる現象を見せた自民党が「万年与党」となったことについて述べた。

だが疑似政権交代は、1つの政党の内部における、あくまでも疑似的な政権交代である。自民党の支持者が、「どの派閥の政策が自分と近いだろうか」などと考えて投票をしたことは、あまりなかったであろう。さすがに自民党結成当初は、派閥間に政策等の差異も見られたが、「派閥=合流前の旧党派」ではなくなっていき、曖昧になったのである。とは言っても、自民党結成前の保守政党が政策本位で票を得ていのか、疑わしいところもある(保守系と革新系の差異が大きかったから、社会主義的な革新系以外ならば良いという人々もいた)。各派閥の地盤は主に、人間的なつながりによって形成されるものであり、どのような層、分野に強いかという議員間の差異はあっても、それが派閥ごとの特色を明確に形成していたわけではなく、自らの選挙区における地盤強化の方法に、大差はなかった。

そのような状況で、1つの政党の中での政権交代などというものが有効に機能し続けるはずは無い。自民党が結成されてから5年後、1960年にさかのぼって、それを確認したい。

激しい対立の中、日米安保条約改正が実現すると、岸内閣は総辞職をし、旧自由党系の非公職追放者のグループ、具体的には鳩山から日本自由党を継いだ吉田茂が育てた官僚出身者が中心の政権が続いた。池田、佐藤両内閣である。

佐藤は自らの後継に、岸派であった、やはり官僚出身の福田を考えていたが、佐藤派の所属で、建築業出身の田中角栄が謀反を起こして、後継の座を得た。佐藤と同じ派閥の人間が後継の内閣を組織したといえると同時に、官僚派から党人派に政権が交代したともいえる(なお、田中は日本社会党との連立に否定的であったため、日本進歩党の系譜―民主党―から日本自由党の系譜に移っていた)。

この変化は当時インパクトが大きかったが、同じ派閥(旧自由党系の)の政権が続いたと見る方が、本来は自然である。疑似的な政権交代というのなら、本来の政権交代と同じく、別の勢力に政権が移動したという面も重視せざるを得ないからだ。そうであれば田中角栄内閣は、首相が官僚出身者から民間出身者になったというだけで、疑似政権交代とは言い難いということになる。どの政党にも出身が異なる議員はいるし、有力者同士が対立することもある。それらの間を総理大臣の肩書が移動することを政権交代としていたらきりがない。同じ枠組みであっても、首相が代われば全て疑似政権交代と呼ぶということになりかねない。

さて、田中角栄内閣の次は三木武夫内閣であった。首相が自由党出身者から国民協同党出身者に代わったのだから、疑似政権交代といえる。ここでは述べないが、政策にも大きな変化が見られ、自民党内の反発を招いた。

次は福田赳夫内閣である。日本民主党出身者に政権が移った。その次は大平内閣である。自由党出身者に政権が移った。政策的にも一定の変化はある、疑似政権交代が繰り返されたのだ。

しかしここまでであった。1978年12月、自民党結成から23年で疑似政権交代の時代は終わった。なぜかといえば、田中角栄の派閥が政権を生み、その命運をほとんど自らの手中に収めるようになったからである。大平内閣は大平派と田中派の連合を核とするものであり、両者は対等に近かった。しかし次の鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣、宇野内閣、海部内閣、宮沢内閣は全て、田中派→竹下派の影響下にあった。新自由主義的な路線に舵を切った中曽根内閣には独自色が見られるが、その自民党における支持基盤は、前の鈴木内閣と変わらないのである。

正確に言えば、田中派は1987年にほぼ消滅し、これを離脱した議員達による竹下派が、竹下内閣~宮沢内閣を影響下に置いていた。しかし田中派を離脱して竹下派を結成したのは、田中派の大部分の議員達であり、従って田中が納得しなかっただけで、田中派が竹下派になったのだといえる。単なる代替わりであり、疑似政権交代ではない。

1993年に竹下派が真っ二つに割れると、さすがにその影響力は弱まったが、その一方である羽田・小沢派は自民党を脱して、宮沢内閣の次の細川内閣、羽田内閣という非自民党政権の中心となったし、もう一方であった小渕派も、勢力を回復していった。自社さ連立の時代(1994~1998年)、自民党は社会党→社民党との連立を維持しようとする勢力(自社さ派)と、保守政党同士といえる新進党との、大連立を模索する勢力(保・保派)に割れていった。主要派閥のほとんどが前者と後者に割れるという現象も起こった。そのような状況下、ほとんどの議員を前者にまとめていた小渕派は、いつの間にか第1派閥の地位を回復し、保・保派だけでなく、他の自社さ派の勢力をも抑え込むことに成功したのである。

こうして小渕派は政権の中心に返り咲き、自ら総理大臣を出した橋本内閣(自社さ連立→社さ閣外協力→社さ連立離脱)と小渕内閣(単独内閣→自自連立→自自公連立)、その次の森内閣(自公保連立→自公連立)を影響下に置いた。田中派の時代が戻ったのである。

こうして見ると、1972年成立の田中角栄内閣以降、わずか、かつ比較的短期間の例外を除いて、田中派の系譜(田中派→竹下派→小渕派→橋本派、または羽田・小沢派→新生党)が中心の、あるいは影響下に収める内閣が続いている。しかも田中角栄の前の総理大臣の佐藤栄作は、田中派の前身の佐藤派の領袖である。これも入れると、1964年から、いくつかの内閣を除いて、ということになる。

優位政党の自民党の中に1つの優位派閥ができて、それが政治を動かすという時代が、例外はあるものの長く続いたのである。自民党全体、または田中派の系譜を盲目的に支持するのでない人々、地元への利益誘導等を特別求めていない人々にストレスがたまるのも、そのような人々が多く住む都市部でストレスがたまるのも当然である。

竹下派の流れを汲む小渕派、橋本派の実力者が政権を動かしていた自民党では、小渕総理の脳梗塞発症(後に死去)を受けた森内閣成立の過程が、密室政治であるという批判が起こった。また森個人の総理大臣の資質も問題視されるようになった。要は、橋本派の要人(衆議院の野中拡務、参議院の青木幹雄)を中心とした一部の有力者たちが、担ぎやすい議員を担ぎ、自民党、政府を動かしていたことが、反発を招いたのである。

不人気の森では2001年の参院選が戦えないという声が自民党内に広がる中、森の総理、総裁辞任が決まった。こうして行われた自民党の総裁選に、橋本派の要人たちは、自派の橋本元総理を出馬させた。小泉純一郎も出馬したが、彼はすでに二度も総裁選で敗退しており、国民的な人気は小泉が上でも、当初は橋本が有利だと見られていた。

ところが総裁選が始まって見ると、小泉ブームが起こった。小泉の郵政民営化の主張は、改革に熱心な姿勢の表れだと見なされたし、「自民党をぶっ壊す」という分かりやすく感じられるフレーズ(実は小泉の改革に反対するならば、という前提がある)、前述の竹下派誕生(田中を裏切り田中派の多くを以て独立)の経緯から、その流れを汲む橋本派を嫌う、田中角栄の長女田中真紀子という人気議員の応援を得たことで、小泉の人気が沸騰したのである。選挙に勝てる総裁候補は、危機感を持っていた自民党員にも魅力的なものに映り、小泉は総裁選を制して、総理大臣となった。それから現在まで、自民党では森派→町村派→細野派という、福田派の系譜の天下が続いている(小泉自身は無派閥となっていた)。

以上だが、疑似的な政権交代ですら、五十五年体制の後半(の大平内閣)から現在まで、ほとんど起こっていないことが分かる。明確にそうだといえるのは、やはり田中派の系譜(橋本派)から福田派の系譜(森派)に主導権が移った、1回だけである。五十五年体制の前半にすでに野党が多党化する一方、自民党では反主流派という党内野党が無くなる、総主流派体制が定着していった。派閥間の、不毛な権力闘争を避けるという意味では良いことだが、要は皆が優位派閥に逆らわなくなっていったということである。これでは疑似政権交代など起こり難いし、起こったように見えても、まやかしである可能性が高い。派閥同士が切磋琢磨することは、政治の質を上げる上では重要である場合もある。小選挙区制となって、特に福田派の系譜以外の派閥の影響力が低下する中、それがなされていた時代を懐かしむ人もいる。

政治家としての心構え、集票のテクニックなど、派閥の教育には確かに実績があった。しかし、政策を研究する機能がなかったとは言わないが、選挙に当選すること、重要なポストをより多く獲得するための教育、活動が最優先であった。それでは疑似政権交代のための、有意義な土台づくりにはならない。だから疑似政権交代は、政策を背景としない権力闘争にならざるをえなかった。

1960年にさかのぼって見て来たが、政策に変化が見られ、権力の主体も変わる疑似政権交代など、実際にはあまりなかったわけだ。中曽根内閣の新自由主義についても上に見た通りだし、そもそもイギリスの保守党でさえ、福祉重視から、競争重視の新自由主義へと、変化を見せた。同じ政党の政策が、経済情勢等の変化を受けて変わることは当然ある。そのような変化は、体勢を立て直す時間には恵まれる、野党時代に起こることが多いのだが(与党の時に変化するのは、よほど合理的な理由が無い限り、有権者への裏切りになる。民主党政権も良い例だ)、それは政権交代とは別物である。このことを考える時、小泉内閣の成立は、興味深い例ではある。