1-03歴史上一度だけの政権交代1.政権交代論

疑似政権交代の背景にある自民党の多様性と中選挙区制

自民党の結成後、政権交代が全くなかった1993年までの38年間、つまり五十五年体制下、国民に一定の満足感を与えたのが、自民党内の主流派、つまり内閣の中心となる勢力が入れ替わる、疑似政権交代であった。それを可能にしたのは、自民党内の多様性であった。

例えば、欧米の多くの国々の新自由主義は、福祉重視の社会民主主義的政権への反発として、そして社会民主主義(的)政党に寄った保守政党の、軌道修正の動きとして、台頭した。しかし日本では、バラマキ政治を謳歌する自民党主流派への、同党非主流派の対抗策として台頭した(非主流派に転落した小沢一郎、総主流派という言葉はあったが、田中派→竹下派支配に反発していたという点で、長く非主流派であった小泉純一郎)。自民党だけで話が完結するのだ。自民党以外の政党が興味を持たれないわけである。

敗戦後間もなく、日本の保守政党は3つに整理された。1つは、板垣退助の自由党の流れを汲む旧立憲政友会の、鳩山系を中心とした日本自由党であった。もう1つは大隈重信の立憲改進党の流れを汲む旧立憲民政党と、旧立憲政友会の中島派を中心とする日本進歩党であった。これが第1、2党で、終戦後間もなくは後者の議席数が圧倒的に多かった。そして最後の1つが、協同組合主義(各分野における協同組合の結成、活用によって、資本主義のマイナス面を克服しようとするもので、資本主義と社会主義の間に位置するものと捉えることもできる)の日本協同党の後継の協同民主党と、ミニ政党や無所属の議員達が結成した国民党という2つの中道政党が合流した、国民協同党である。ただし国民協同党は、正確には中道政党である。日本協同党系は戦前の2大政党を引き継いだ他の2党に比して、小さかった。地盤もしっかりしていなかったため、再編で増やした議席を、総選挙の度に減らしていた。

日本自由党は、軍部に批判的であった議員達を少なからず含んでおり、かつ戦前の優位政党の流れも汲んでいたため、最も優勢であった。そして鳩山一郎総裁が公職追放となり、外交官の吉田茂が継いだことで、官僚出身者中心の党へと変わっていった。日本進歩党の後継の民主党の一部を二度にわたって吸収したこと、与党第1党であることが多かったことで、第2党を大きく引き離した(衆議院の過半数を上回っていたのは4年強に過ぎないが、分裂によってはじめて過半数を割り、その後も第2党との議席差は大きかったのだから、優位政党であったと捉えることも出来ると思う)。自由主義的であり、再軍備には消極的で、日本の体力は経済の成長に重点的に回すことを志向していた。

日本進歩党は、敗戦による打撃を最も受け、日本自由と国民協同党のそれぞれ一部を吸収して民主党となった。経済に対する政府の一定の計画的介入を志向しており、自由主義的であった日本自由党と、社会(民主)主義の日本社会党との、間に位置した。民主党は度重なる分裂を経験し、残留した勢力が国民協同党と合流、国民民主党を結成した。その後、旧立憲民政党の追放解除者等と改進党を、日本自由党に居場所を失った戦前の立憲政友会鳩山系の追放解除者と日本民主党を結成し、中道的な政党から、憲法改正、再軍備を主張する政党になり、その点では最も右に位置する主要政党となった。

6年強(第1次も含めると7年強)に及んだ吉田内閣は国民に飽きられており、汚職問題、傲慢さなど、有権者に忌避される点も少なからず見られるようになった。しかし吉田自由党内閣を倒したのは、野党ではなかった。確かに改進党、左右の、同名の2党に分かれていた日本社会党の力も加わってはいた。しかし事態を替えたのは、自由党の鳩山一郎の一派と岸信介の一派であった。彼らが自由党を離党して改進党と合流したことで初めて、与党自由党の議席数が、野党の合計議席を下回ったのである。吉田自由党総裁の次に総理大臣になったのは、自由党を離党して、改進党と結成した日本民主党の総裁となった鳩山一郎である。その後の総選挙で確かに、日本民主党は衆議院第2党から第1党になった。しかし有権者は第1次鳩山内閣を追認する役割を果たしたに過ぎない。自由党対他党、自由党対、民主党・他の第1次鳩山内閣の成立を助けた勢力という枠組みで見た場合の、議席数の優劣は、総選挙の前と同じであった。そして間もなく、日本民主党が自由党と合流して自由民主党を結成し、共に吉田自由党内閣を倒した社会党と対峙したのだから、各党の理念を考えれば予想できない展開ではなくても、有権者はやはり、排除されていた。

とはいっても、保守政党が自民党に、共産党以外の革新性等が日本社会党に統一されたのは、合理的な動きではあった。中道的な政党は、当時の日本人の支持を得られなかったのだし、有権者の志向が全く反映されなかった再編であったとまではいえない。

五十五年体制成立前の話はこのくらいにしておくとしても、述べておきたいのは、日本自由党の系譜、日本進歩党の系譜、日本協同党の系譜と、それらに吸収されていた終戦直後の、無所属を含む小勢力の大部分が、自民党になったということである。これでは自民党が圧倒的に有利になることは目に見えていた。産業構造が変化していくと共に、数が増えていく労働者層を支持基盤とする日本社会党が政権を奪取するという見方もあった。それを阻んだのは中選挙区制と、中選挙区制も一因とする社会党の未熟さであった。

中選挙区制は1924年、護憲三派内閣によって、男子普通選挙制度と共に導入された。学術的にいえば1人区以外は大選挙区なので、大選挙区単記制である。各選挙区の定数、つまり当選する候補者数が3から5と多く(1954年2月から1993年6月に1つの1人区、1986年7月以後に4つの2人区と1つの6人区が存在―存在していた期間は実際に総選挙が行われた月からとして―)、有権者は候補者1名の名しか記せないから、与党3党(護憲三派)が候補者調整をせずにそれぞれ1名擁立しても、全員の当選が可能となる制度であった。その3党、そして野党第1党の政友本党は1955年には何党になっていたのかといえば、皆自民党になったのだと言える。これでは、中選挙区制は比例性が高いと言っても、野党(非自民)は勝ち目がほとんどない。別々の政党の候補者→議員として、それぞれ別々に地盤を固めていた議員達が集まった(つまり票割がある程度できている状態の大政党として出発した)自民党に対して、社会大衆党~日本社会党はほとんど地盤ゼロからの出発であり、まだまだ弱い段階で、票割をうまく行って複数の候補を当選させなければならなかったのだから、極端に不利であった(社会民主主義政党に票を投じ得るような工場労働者が多く、スタートダッシュに期待できる選挙区は別として)。政党に投じる比例代表制ならば、票割は必要なく、例えば自民党の3分の2の票を得れば、議席数もそれに近くなり、第1党となるための土台を築くことが出来る。「社会党」とは書きづらいという人が多くなるほど、非現実的な政党からも脱皮しやすくなる。

補足をしていくと、護憲三派と呼ばれたのは憲政会、立憲政友会(真っ二つに割れて優位政党の地位を失っていた)、革新倶楽部である。大雑把にいえば憲政会は立憲民政党になり、戦後は日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党→日本民主党になった。立憲政友会は戦後、日本自由党→民主自由党→自由党になった。革新倶楽部は立憲政友会に合流した。しかしこれでは終わらない。野党第1党であった政友本党(真っ二つに分裂した立憲政友会の、もう一方)も立憲政友会に戻る議員達と、憲政会と合流する議員達に分かれた。つまり野党第1党も、自民党の一部となったのだ。戦前に強固な地盤を築き、衆議院のほとんどの議席を占めてきた、非社会主義、非社会民主主義の勢力は全て、自民党に結集したのだ。力をつけ、かつ左右に分かれていた日本社会党が再統一されることに対抗して結成されたのが自民党であったとはいっても、自社両党の力の差は歴然としていた。

さて、合流前の各政党の流れを汲む自民党の派閥は、戦前、戦争直後からの地盤をかなり維持しつつ、全国の中選挙区の、3から5であった定数に見合う数に再編された(具体的にいえば自由党系の池田派、佐藤派、自由党を離党して日本民主党を結成した勢力である岸派、河野派、日本民主党を結成した改進党の三木派の5つの派閥の系譜である)。

それらには投じたくないと考える有権者も、もちろん少なからずいた。もしも1名だけが当選する小選挙区制であれば、いくつもの政党にルーツを持つ自民党であっても、候補者を1人に絞らなければならない。それは困難な作業となり、混乱も生じたかもしれない。しかし、全選挙区で1位の候補しか当選しないのだから、自民党は圧倒的に有利となっていただろう。実際の五十五年体制よりも、さらに自民党が圧倒的な議席数を誇ったか、日本社会党が現実的な中道左派政党になるか、他に現実的な野党が誕生するか、はたまた自民党が大きくに割れていたであろうか。もちろん知ることはできない。

ついでに、もしも比例代表制(基本的には政党に投票し、各政党の得票の比率に近い議席配分になる)であったらどうなっていたのだろうか。1つの政党が単独で過半数を上回るような大勝をしにくい制度であるから、1党優位の度合いが少なくとも今よりも小さい、多党制になっていたと考えられる。中道的な勢力が、自民党結成・社会党再統一より以前に、安定した勢力として現れたかも知れない。制度上、議会における多数派形成には、しばしば手間取ることになっていたであろう。

結論は出ないが、多少なりとも違う景色を日本人は見たはずだ。では、現実において、中選挙区制はどのように作用したと考えられるのだろうか。

自民、社会両党が結成されて初めて迎えた第28回総選挙(1958年5月)では、他に有力な政党は存在しなかった。政党内ですら候補者調整をあまりせずに(自民党では少なくない選挙区で定数を超える候補を公認した)、自民党の各派閥と社会党の左右の2派が戦い、その一部が落選した。定数が3、4の選挙区では強い地盤を持つ自民党の2、3の派閥の候補と、社会党の候補2人のうち、1人が当選したという選挙区が多かった。5人区では社会党の候補が2人当選したところもあったが、自民党は過半数の3名を当選させていた。社会党の場合は、候補者調整が不十分であったというよりも、2人を、つまり自民党と対等になるために最低限必要な当選者を出すことができなかったのだ。

小選挙区制であれば、社会党の候補に入れることは、自民党候補の落選を助ける行為となるが、小選挙区制では、社会党のもう1人の候補を落とす結果に、十分になり得た(そうならないためには、社会党への多くの投票が望めること、さらに、それを2人の候補にうまく振り分けるような、事前の調整が必要であった)。

選挙結果は自民党が3議席減の287、追加公認を含めると8議席増の298、日本社会党が8議席増の166、追加公認を含めると9議席増の167議席となった。これが五十五年体制下の野党第1党の、真のスタートであった。這い上がるには多くの選挙区でもう1人を当選させなければならない。社会党は、反自民として競合する、民主社会党(右側)と共産党(左側)に挟まれていた(民主社会党の結成は第28回総選挙の後)。当時、共産党は激化と弾圧(公職追放)の影響でボロボロだったが、1955年7月に武力闘争方針を棄て、党勢を回復していく過程に入っていた。民主社会党は、1960年に日本社会党の右派の一部が離党して結成した政党であったが、初めて迎えた、同年の第29回総選挙では議席を大きく減らした。1970年に略称であった民社党に改称した。

共産党と民社党が、党勢の回復、拡大に必死であることは間違いがなかった。小政党であった両党には空白区が多く、表割を気にせず、なるべく多くの選挙区でまずは1名を当選させて、議席の増加を狙うことが可能であった。もちろんそれが許されそうにない風土の選挙区もあったし、容易なことであったとまでは言えない。しかし、民社党を結成した議員達の離党によって地盤が多少なりとも縮小する中、そして自民党(の各派閥の議員の多く)が強い地盤を誇る中、野党であるために利益誘導が難しい中で、2人目、場合によっては3人目を、前の回より多く当選させなければならない社会党の方が、困難は大きかったと考えられる。

このことは、今の参議院の3人区~6人区を見れば分かる。これらの選挙区は大都市ばかりであり、単純に比較はできないのだが、自民党でさえ、共倒れに泣いたことがあり、候補者を絞るようになった。

社会党が2人目、3人目を当選させるにはどうしたら良いか。左翼的な議員が2人、3人いても共倒れする可能性が高い選挙区が圧倒的に多かった(そうでなければそもそも、革新(左派~左翼)の当選者数が自民党の当選者数と、もっと拮抗していたはずだ)。ならば保守から中道の、自民党の基盤を崩すしかない。2人目、3人目の候補は左派色を多少なりとも弱める必要があり、彼らが当選することで、日本社会党の性格はもっと中道に寄った、あるいは中道左派の、現実的なものになった・・・ ということにはならなかった。

民社党を結成した議員達(右派の西尾派と、右派の河上派の一部)が離党した社会党では、有力な候補者がそれだけ減っていた。体力が下がったのである。再統一の時に左派社会党の議員の方が多かった上に、さらに右派の多くの議員達が出ていった影響で、社会党所属議員の多くが、かなり左の主張(社会主義的、そして何より非現実的なまでに平和主義的な主張)をして当選しているという状態になった。

1つの選挙区において3~5人の候補者が当選する制度では、選挙区内の少数派である左寄りの有権者の票だけでも、左翼的な議員を1名は当選させることが可能であった。左派社会党の躍進などが示すように、左翼的な政党には当時、一定の需要があった。左翼的な主張をしていれば自分達だけは当選する、そんな社会党の現職議員達は、中道に寄って左寄りの票の一部を手放して(ここには共産党の手が伸びることになる)、自民党の候補者達の一部や、民社党と競合するようなリスクを犯そうとはしなかった。競合することで新たな票を得て当選しようとする候補が、社会党内に現れることにも、当然否定的であった(もちろん信念もあったのだろう)。

なお、左寄りの候補は共産党と競合する面があるが、社共両党の力の差は大きく(社会党の力は労働組合によるところが非常に大きかったが)、状況が大きく変わらない限り、つまり社会党が左翼的な有権者に幻滅されない限り、共産党は脅威ではなかった。民社党に右から浸食される危険も小さかった、理想主義的な社会主義・平和主義政党と、比較的現実的な社会民主主義政党として、住み分けができているという面があったからだ。つまり、民社党は社会党にとって党勢拡大(右への拡大)の邪魔にはなっても、議席を守る上での障害ではなかった(本来は、第2党が党勢拡大をあきらめることはおかしなことである。さらに、後に社会党の人気が下がる中で、結局は、公明党等の中道政党に票を削られた)。

こうして、議員達の信念だけでなく、保身のためにも、党勢拡大は犠牲となった。党勢拡大のために現実的になる、つまり中道に寄るということはあまりなかった。政権を取ることに積極的でなかった社会党にも問題はあったが、同党の停滞と中選挙区制は大いに関係があるのだ。

話が少しそれるが、得票率が高くなくても当選し得る(選挙区の定数が多ければ多いほどそうである)中選挙区制は、落としたい候補をうまく落とせない制度でもあった。上の例で言えば、唯一の左翼的な候補は、左翼的な有権者の支持を得るから、他の人々が落としたいと思っても落とせない。自民党の汚職候補は、その候補によって利益を得た有権者が一定数入れば落選しない。5人区であれば自民党3人と社会党1人、そして第3党以下1人、あるいは都市部であれば自民2、社会1、公明1、民社1などという結果になるように、汚職議員3、左翼議員1、改革派議員1、見方を変えれば地元利益派2、職能団体利益派1、労働組合利益派1、その他1などという結果にも、多々なるのである(職能団体が立てる候補者は基本的には参議院の比例区で立候補するが)。極端に単純化したが、多様な議員が当選し得る制度の下で、国にとって本当に必要な当選者は少なかったのではないだろうか、ということである。今の制度が政治家を小粒にしているという指摘には同意するが、過去に戻れば良いというわけにはいかない。なにより、五十五年体制下のような経済成長が難しい中では、そもそも戻れないのである。無理に戻ろうとすれば、今よりも悪くなる可能性が高い。

話を戻す。まずは繰り返しとなるが、社会党の人気は下がり(その理由については、改めて述べる)、民社党に続いて公明党、やがて新自由クラブ、社会民主連合が結成され、多党化が進んだ。野党が自民党の票を奪うこともあったが、全体的に見れば野党の多党化とは、1強多弱化であった。

そうであっても、非自民の各党が非自民票をうまく分け合えば、1党優位の傾向を抑えることはできたはずだ(自民党の得票自体は過半数を割っていたし、減る傾向にあった)。しかし、野党共闘は何度も試みられながら、実を結ぶことがなかった。その背景には、民社、公明両党等が共産党との共闘を認めず、日本社会党の内部で、共産党を含めた共闘を唱える左派と、民社、公明両党等との協力を優先させたい右派が対立したこと、そして国政選挙が、1つの選挙区で1名の候補しか当選することが出来ない小選挙区制ではなかったことが挙げられる。(1人区、つまり小選挙区が少なからず存在した参議院では、自民党に逆風が吹いていた1989年の通常選挙において、ようやく共産党以外の主要な野党の選挙協力が実現して、成功もしたが、1992年には実現しなかった)。

共産党と中道政党の距離は、中道政党と自民党の距離より大きかった。自民党が、憲法改正などの主張を控え(両院で3分の2の議席を得るということがなかったため、どのみち実現しようがなかった)、社会民主主義的な政策も取り入れるようになっていったからだ。同党は日本自由党系の経済最優先の姿勢に立ち返り、利益誘導を求める有権者、戦後の成長に満足し、安定を望む有権者の支持を得ていた。

このような状況下、元々振るわないケースが多かった中道政党の限界からも、野党が大成するのは難しかった。しかも、社共共闘、社会党右派・中道諸党共闘、自民党という3つのブロックができても、各勢力が当選者を出せる選挙制度であったから、野党の完全な統一は、あるいは共産党との共闘にこだわる議員を説得して、非自民・非共産のブロックを完成させることは、困難であった。そして実際には、1つの選挙区に有力な自民党の議員が複数いたから、分立する野党が自民党に勝つことも難しかった・・・。

こうして野党の陣営は、共闘へ向けた協議と決裂を繰り返したのであった。衆議院が小選挙区中心の選挙制度である現在も似た状況であるから、原因は中選挙制度だけではないのだろうが、1つの選挙区で何人もの候補が当選する(実際には自民党の候補が複数当選するのだが)中選挙区制が、政党間の協力の必要性を小さくし、各党の対抗意識を固定化させる働きをしたことは間違いないだろう(何としてでも政権を取りたいという思いがあれば変わっていたはずだが)。なお、現在も衆議院は完全な小選挙区制ではなく、比例代表制との並立制であり、参議院には五十五年体制下も今も全国区→比例区、大選挙区があるから、そのあたりも、状況が似ている一因にはなっているだろう(また改めて考えてみたい)。

一方、「万年与党」となった自民党では、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介といった、旧日本民主党系を総理大臣とする内閣が続いた。その後、池田勇人、佐藤栄作という旧自由党系を総理大臣とする内閣が続いた。その次に総理大臣となった田中角栄は民主党(進歩党の系譜)から自由党の系譜に移った人物であった。その後の三木武夫(国民協同党出身)と福田(岸系)は旧日本民主党系、その次の大平正芳、鈴木善行(日本社会党出身)は旧自由党系、次の中曽根康弘は旧日本民主党系というように、疑似政権交代を続けた。

特に右寄りの岸内閣から経済重視で穏健な池田内閣への交代、利益誘導型から新自由主義型へと一定の変化を見せた中曽根内閣への交代では、内閣の基本姿勢や重要政策に大きな変化が見られた。疑似政権交代は、自民党内の権力闘争の一環として国民の興味を引いたが、それだけではなく、様々な考えを持ちながら、他に投票先を見いだせない、見出そうとしない有権者を、ある程度満足させていたのであった。