1-03歴史上一度だけの政権交代1.政権交代論

1993年総選挙、細川内閣誕生の問題点

「冷戦崩壊当時の政治の変化~十代の筆者が感じた矛盾~」でも触れた、1993年、自民党が結成以来始めた野党となった政権交代劇についても補足しておきたい。

これをなぜ、有権者が起こした政権交代とし得ないのか。その理由は、総選挙の前も後も自民党が第1党であったこと、野党に転落した自民党が、議席数をむしろ、1議席増やしていたことである。政権交代の原因は、単純化すれば、自民党と、非自民・非共産全党の議席の優劣が逆転し、後者の議席数が多くなったことにある。しかし、この議席数の優劣の逆転は、総選挙によって起こったのではなく、自民党を離党した議員達が新生党、新党さきがけを結成し、野党と組んだから起こったのである。有権者は野党社会党の議席を減らして、同じく野党であった、自民党離党者の議席数を増やしたものの、与野党間の議席の移動をほとんど起こさなかった。政権交代を自ら選択しなかったのである。もちろん日本国民が直接、自民党を分裂させたわけでもない。日本社会党と新生党の議席数を逆転させることすら、していない。ただ第2党の日本社会党を半減させ、1強多弱化をむしろ進めたという面すらあった。

フォローすれば、当時の中選挙区制では、野党の議席数を思うように増やしたり、政党の議席数の順位を変えたりすることは、そう簡単ではなかった。ブームを起こした政党の新人の候補者が当選圏内に入り、かわりに、(自身の責任か、所属政党のせいか、)最も人気がなかった候補者が、圏外に押し出されたのである(総選挙に突入する直前、総選挙直後の世論調査は見ていないが、その前後の調査を見ると、日本新党には抜かれていた可能性はあるものの、それでも社会党の支持率は、自民党、日本新党に次ぐものであった)。ただ、ここで何より重要なのは、できなかったのであろうが、しなかったのであろうが、国民が自ら政権交代を起したのではなかったのだということである。

戦前、政権交代のある政党政治の幕を開けた、非政党内閣から護憲三派内閣への政権交代も、総選挙の結果を受けたものではなかった。

1924年の第15回総選挙の前、政党からの入閣が1名もない清浦奎吾内閣を、政友本党が支持していた。主な野党は憲政会、立憲政友会、革新倶楽部であった。そして総選挙で後者の3党が過半数を大きく上回ったため、内閣が総辞職し、この3党による連立内閣が誕生したのだ。確かに総選挙で憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派が過半数を大きく上回ったことが、この政権交代の要因であった。しかし、護憲三派は総選挙の前から、過半数を大きく上回っていた。総選挙では、実は2議席増えただけであった。これを、有権者の選択がもたらした政権交代とはし難い。有権者ではなく、総選挙の前の政党の動きが状況を決定付けたのだ。有権者は追認しただけである。戦後、自民党が初めて野党に転落した1993年と同様なのである。

1993年の政権交代と違うのは、当時の有権者が、帝国議会開設以来約35年間ずっと、政党内閣を目指す勢力に過半数を与えてきたことだ(薩長閥政府による激しい選挙干渉があった第2回総選挙は例外だが、それでも総選挙後にはそれに近い状態となった)。だから、有権者の声が聞き入れられたとはいえるのだ。それでもやはり、第1党のA党が期待に応えないために、B党を代わりに第1党にしたというような、有権者の選択が政権を代えたという経験を、得ることができなかったことは残念だ。この点で、戦前と戦後の、共に時代を変えた重要な政権交代が似ているのである。

話がそれるが、立憲政友会が大分裂するまでは、憲政会は立憲政友会と渡り合うことが出来ない状況にあった。なんと、立憲政友会が残留派と政友本党に真っ二つに割れたことで、第2党であった憲政会は、第3党になってしまったのだ(第15回総選挙前:政友本党149議席、立憲政友会129議席、憲政会103議席)。これが第15回総選挙によって、憲政会146、政友本党112、立憲政友会101議席となった。憲政会を第1党に押し上げた選挙結果は評価できるが、立憲政友会の大分裂がなければ、憲政会が第1党になることはなかったであろう。同党の離党者も含めた、分裂前後の立憲政友会の動きが異なった者であれば(ありはそもそも立憲政友会が分裂していなければ)、その後の状況は大きく変わっていたはずだ。

政権交代後も、状況を決定付けていたのは、立憲政友会とその離党者達であった。立憲政友会にも、その離党者達による政友本党にも、憲政会を下に見て、憲政会が第1党で政権の中心にあるという状況を予想せず、不満を持つ者が多くいた。そんな2党が再統一を果たせば、それが以前のような優位政党になり、憲政会が非優位の万年野党に戻る危険性があった。護憲三派対政友本党という対立構造は、いつでも憲政会対立憲政友会・政友本党というものに「戻り」得たのだといえる。実際に再統一は模索されていた(これが失敗して、2大政党化への道が開かれた)。有権者の動きが注目されてはいても、その手は政治には届いていなかったのである。

1993年に戻る。総選挙の結果、自民党は過半数には届かなかったものの、1議席増え、圧倒的な第1党の地位を維持した。常識的に言えば、自民党中心の連立内閣が誕生するはずである。しかし有権者はそれを望んでいなかった。

確かに、自民党対野党(共産党は別)の、政権を巡る総選挙であると広く認知されていたから、野党から総理大臣を出すべきであったともいえる(本当は、野党が総理大臣候補を明確にして総選挙を戦うべきであった)。しかし、その場合は野党第1党の日本社会党が総理大臣を出すのが筋である。ところが、同党は総選挙で半減していた。そんなことは関係ないのだが、党首が総選挙の責任を負って辞任することになると、さすがに、その後任の党首を総理大臣にするというのも違う気がする。

この点ですでに、有権者が下した判断がどのようなものであるのか、分からなくなってくる。前述したように、これは有権者が悪いというより、有権者が状況を変えるような環境に恵まれていなかったことに起因している。

日本社会党が抱えていた問題は、議席の半減だけではなかった。そうなった要因である、同党の、非現実的な性格であった。自衛隊の存在すら求めない政党から、自衛隊の長でもある総理大臣を出して良いのか、という問題だ。同党に与党経験のある議員がいなかったという問題もあった(1993年より前、社会党が与党であったのは1947~1948年だけである)。まずは比較的重要性の低い大臣を出して勉強するという方法も、確かに無碍に否定はしにくいものであった。

しかし、それならば、議席を増やして野党第2党となった新生党が、与党経験も豊富であるし、総理大臣を出すのが順序なのだが、総理大臣を出したのは、議席0から躍進したとはいえ、わずか衆議院35議席、参議院4議席の日本新党であった(国政については細川代表以外が新人議員であった)。日本新党は総選挙の前、社会党に次ぐ支持率3位を誇り、総選挙後には、それは自民党に次ぐ2位となった。しかし、世論調査と議席数のかい離という、上で述べたことと同様の問題があったとしても、支持率だけで総理大臣を決めるのは、やはり選挙結果の無視になる(日本新党が候補者をそろえられなかったとしても、ルールはルールである。どうしてもというのなら、憲法を改正し国民投票制にするしかないが、筆者はその考えは採らない)。

日本新党の細川護熙が総理大臣となった最大の理由は、その人気以上に、新党さきがけと組んで、中立的な立場を示したことにある。自民、非自民のどちらと組むかを明確にしなかったことにより、キャスティングボートを握ったのだ。

その後、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、連合参議院(会派)による連立内閣は、内部対立を起こした。小沢一郎を中心とする新生党・公明党と、武村正義・村山富市を中心とする日本社会党左派・新党さきがけの対立が激しくなっていったのである。それは、武村官房長間・新党さきがけ代表と、小沢新生党代表幹事による、細川総理の争奪戦のようなものであった。そこに、当時は新自由主義で、連立与党の最右派であった小沢(新生党)と、連立与党の最左派であった日本社会党左派の対立が重なっていた(村山日本社会党委員長は元々は右派であったが、主に左派に担がれていた)。

結局、日本社会党と新党さきがけは連立を離れ、第1,2党と対立する少数与党内閣となった羽田内閣(新生党、公明党、民社党、日本新党、社会民主連合、自由党、改革の会―会派―の連立内閣。自由党と改革の会は、自民党の新たなる離党者達が結成したもの)は倒れた。

そして、結果の読めない首班指名投票が行われた。事実上の候補者となっていたのは、自民党の海部俊樹元総理大臣と、村山社会党委員長であった。この両候補は、そう違和感のある顔ぶれではない。それまで続いてきた自社両党の対決だ・・・、と言いたいところだが、もちろんそうではなかった。自民党の海部と書いたが、海部は自民党離党、首班指名の候補者となることを表明していた。彼を担いだのは、羽田内閣の与党であった。そして村山を担いだのは、日本社会党の左派と新党さきがけ、そして自民党であった。かなりややこしい展開である。村山の方が有利であったように見えるが、当時自民党と社会党は共に野党、そこから海部に投じる議員が現れると見られていた。特に日本社会党の右派からは、海部に投じる議員が多く表れると見られていた。

結果は村山の勝利となり、自社さ連立内閣が誕生した。有権者の手など届くはずのないところで、総理大臣が3度変わり、変則的な内閣が3代続いたのである(細川内閣、羽田内閣は第1党が連立与党に入っていないという点で、この両内閣と村山内閣が、与党第1党が総理大臣を出していないという点で、変則的であった)。そして迎えた1996年の総選挙では、自民党が過半数には届かないまでも議席を増やし、羽田内閣当時の与党と海部に投じて自民党を離党した議員達によって結成された新進党は議席を減らした。選挙制度は、今の小選挙区比例代表並立制に変わっていたが、やっと出番を得た国民(有権者)は、自民党の政権奪還への反発を示さず、曖昧な結果を出したのである。とはいっても、その前の選挙でも、有権者は自民党を第1党にしていたのだから、起こるのも変なのだが。

1993年の総選挙に続いて、1996年の総選挙でも議席を半減させたのは、社会民主党であった。これには説明が必要である。自民党と連立を組んだ日本社会党と新党さきがけは、政権の中心となって泥をかぶった面もあるが、非自民の陣営にあったのが自民党と連立を組んだこと、特に社会党は理念を棄て、180度近い転換をしたことで、人気を落とした。そして新進党が結成されて初めての、1995年の参院選では、2人区を自民党と新進党が分け合い、比例区では新進党の獲得議席が自民党を上回った。社さ両党は完全に埋没したのである。このため両党には合流の構想が持ち上がり、日本社会党は総理大臣のポストを捨て(自社さ政権のまま自民党の橋本龍太郎総裁が総理に)、合流のためにもとりあえず、社会民主党と改称して、社会主義政党から社会民主主義政党に脱皮していることを示そうとした。しかし合流を実現させられずにいる間に、両党の中堅と若手が民主党を結成、村山や武村を排除したため、社さ両党も存続することとなった。結果、1993年の総選挙で半減した社会民主党は、民主党の結成により半減、1996年の総選挙でさらに半減し、最盛期の10分の1を下回る15議席となった。新党さきがけは2議席となった。与党なのか野党なのか、曖昧な姿勢を採りながらも、新進党と反自民票を奪い合った民主党は、結成時の52議席にとどまった。

それでも1997年の暮れに新進党が細分化するような分裂をしたことから、民主党は第2党となり、旧新進党系の議員達を吸収し、どんどん拡大していったのである。

有権者は無視されたというより、排除されたに等しかった。