日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
帝政期

帝政期

1871年に成立したドイツ帝国は、宰相(以下首相とする)が皇帝に任命される、議院内閣制を採らない立憲君主制であり、各領邦の代表である上院と、男子普通選挙制の下院による二院制であった。皇帝はプロイセン国王との兼任であった。建国前に近代化が進んでいたこと(ただし英米仏と比べ封建的な面などが強く残り、自由主義の浸透が遅れたため、これらの国より逆に先に、社会―民主―主義政党が発展した)、複数の領邦、都市から形成された国家であったことから、社会の多様性が強く、主要政党と呼べるものの数は比較的多かった。諸政党はそれぞれ、異なる地域や層を支持基盤としていた。そして政党が政権を担うことが基本的にはあり得なかったため、諸政党がその支持層、地域を代表する利益団体のようなものにとどまっていた面がある。単独で下院の過半数を上回るような政党もなかった。建国当時の主な政党は次の通りであった。

・保守党:ビスマルクによるドイツの統一・近代化に批判的であった保守派が結成。プロイセンの保守派を中心とした保守派の集合体であったが、1876年に、改めて明確な政党として結成される(その時にはビスマルク支持派となっていた)。東エルベ地方のユンカー(地主貴族)、大地主を主な支持基盤とし、農業の利害を代弁した。

・自由保守党:1866年、保守派から分かれたビスマルク支持勢力が結成。1891年より、全国的には帝国党を名乗る(プロイセンでは自由保守党と名乗り続けた)。ユンカー、大地主、官僚等が支持基盤であった。

・国民自由党:ビスマルク支持の自由主義右派。資本家階級を支持基盤とし、大工業の利害を代弁した。同党には本来自由主義でありながら、(支持層の商売上)ドイツ帝国内の統一性の強化を求める上で、非自由主義的な傾向を受け入れるという面があった(自由主義には、ナショナリズムと自由主義を合わせた国民自由主義というものがあった。自民族中心の国家として独立する、統一する、自民族が多く住み、併合すべきだと考える地域の併合を目指すというナショナリズムであれば、自由主義とは両立し得る)。

・進歩党:政府に批判的であった自由主義左派。中小の商工業者、知識層などの中間層を支持基盤とした。

・人民党:プロイセンを中心とした進歩党とは別の、西南ドイツの自由主義左派の政党。

・中央党:ドイツ帝国で少数派であったカトリックの利害を代表する政党。政治の世俗化(教会の政治からの排除)に反対し、教会の自立性を守る事を志向した。同時に、帝国全体では多数派であったプロテスタントへの警戒、そのプロテスタントが主流で、ドイツ帝国の中心であったプロイセンに対する警戒から、中央集権化を進める政策に反対した。

・社会主義労働者党:社会民主主義的な全ドイツ労働者協会と、社会主義の社会民主労働者党が合流して1875年に結成される。1890年に社会民主党に改称する。

他に、併合した地域等を代表し、同化政策に反対し自治を求めた政党も、少ない議席を得ていた。建国当初は、大雑把にいえば定数の3分の1前後の議席を得る国民自由党が、他党を引き離す第1党であった。各政党の支持基盤は偏ってはいたが、その中でも重なる部分はあった(特に、カトリック教徒全般を支持基盤とする中央党と、他の政党)。

次に、各首相の帝国議会対策や選挙結果を見る(ビスマルクについては便宜的に複数に分けた)。なお、選挙結果については木谷勤、望田幸男編『ドイツ近代史』(60頁)等を参照した。Wikipedia(英語版)とは違いがある(1971年と74年の総選挙の結果は社会民主労働者党が1、10、全ドイツ労働者協会が7、3となっている。またこの両選挙について、帝国自由党という政党が見られる)。

 

・ビスマルクA

1871年総選挙の結果は次の通りであった。国民自由党125、中央党63、保守党57、進歩党46、帝国党37、自由派30、社会主義労働者党2、全ドイツ労働者協会1・0、人民党1、ポーランド党13、ヴェルフ党(ドイツに併合されたハノーファー王国の再建を目指した)7、デンマーク党1、計382。ローマ教皇が近代化、世俗化に否定的であった事からも、ビスマルクは保守党、帝国党、国民自由党を基盤に(3党で過半数を大きく上回る)、カトリック教会を抑える諸法案を成立させた(この対立は文化闘争と呼ばれる)。1874年総選挙の結果は、次の通りとなった。国民自由党155、中央党91、進歩党49、帝国党33、保守党22、社会主義労働者党9、全ドイツ労働者協会7・3、自由派3、人民党1、エルザス゠ロートリンゲン党(ドイツに新たに併合された地域の政党)15、ポーランド党14、ヴェルフ党4,デンマーク党1、計397(エルザス゠ロートリンゲン併合で15増)。1877年の総選挙の結果は、次の通りとなった。国民自由党128、中央党93、保守党40、帝国党38、進歩党35、自由派13、社会主義労働者党12、人民党4、エルザス゠ロートリンゲン党15、ポーランド党14、ヴェルフ党4、デンマーク党1、計397。

 

ビスマルクB

ビスマルクは社会主義者を弾圧する法案を通そうとしたが、国民自由党が反対するだけでなく、保守系2党の合計を大きく下回る賛成しか得られなかった。このためビスマルクは下院を解散した。こうして行われた1878年の総選挙の結果は、次の通りとなった。国民自由党99、中央党94、保守党59、帝国党57、進歩党26、自由派10、社会主義労働者党9、人民党3、エルザス゠ロートリンゲン党15、ポーランド党14、ヴェルフ党10、デンマーク党1、計397(国民自由党と、中央党が共に、定数の約4分の1)。自らの議席の大幅な減少、保守系2党の議席増を見た国民自由党が賛成に回り、法案は成立した(同党左派が有効期限を定めさせたが、繰り返し延長される事となる)。

 

ビスマルクC

1879年、関税とタバコ税が引き上げられた。ドイツ帝国の税収は、関税や帝国の間接税に限られ、不足分が各領邦等の分担金で賄われていた。ビスマルクは帝国としての自立性・財政基盤を強めようと、これらの引き上げを策していた(タバコについては専売化を目指していた)。しかし総選挙前には国民自由党の協力を得られずに挫折していた。国民自由党はビスマルクに切り崩される危険の中で、党員の入閣を含む、議会(政党)の権限の強化につながるような事を条件にし、この点でもビスマルクと折り合いがつかなくなっていた。そこでビスマルクは、中央党を味方にした。1878年にローマ教皇が代替わりをしていた事が、ビスマルクとカトリック教会の関係改善を可能とした。中央党と保守党、帝国党、そして国民自由党右派が、自由貿易方保護貿易への転換を志向していた事から、ビスマルクは保守党、帝国党、中央党を基盤とし(3党で過半数)、国民自由党を揺さぶったのであった。ただし中央党は、関税とたばこ税の一部を各領邦等に分配する事、つまり帝国の自立性強化を抑える事を条件とした。議会、政党の直接的な地位向上を受け入れなかったビスマルクが、これについては受け入れたというのは印象的な事である(「議会、政党」としたが、国民自由党という一つの政党が強くなる事を警戒したという面もあるだろう。自由党系が下院で優位に立ち、藩閥政府と対等に交渉できる勢力になった日本と比較する上でも、重要な点だ)。保守的なカトリック勢力との対決を終わらせたビスマルクを支持し続けることにも不満を持っていた、国民自由党左派の自由貿易論者(そもそも右派と異なる、野党的な投票行動を採る事が比較的多かった)は1880年に国民自由党を離党、自由連主義合を結成した。この分裂によって、国民自由党残部の右傾化が進んだ。同党の分裂によって、保守党、帝国党、国民自由党の3党だけでは過半数には届かなくなっていた。1881年の総選挙は次の通りの結果となり、さらに、保守党、帝国党、中央党の3党でもわずかに、過半数を下回る状況となった。中央党100、進歩党60、保守党50、国民自由党47、自由主義連合46、帝国党28、社会主義労働者党12、ポーランド党18、エルザス゠ロートリンゲン党15、人民党9、ヴェルフ党10、デンマーク党2、計397。

 

ビスマルクD

1884年、進歩党が自由主義連合と合流して自由思想家党を結成した。同党は第1党となり、国民自由党の分裂によって頭一つ出る形となっていた中央党と、共に定数の4分の1という水準で並んだ。しかし同年の総選挙でその規模を維持する事ができなかった。その総選挙の結果は次の通りであった。1887年、軍事予算を成立させられなかったビスマルクは下院を解散した(保守党、帝国党、国民自由党は賛成であったが、それでは過半数に届かず、中央党が7年間の予算を3年分しか認めなかった)。総選挙の結果は次の通りとなった。国民自由党99、中央党98、保守党80、帝国党41、自由思想家党32、社会主義労働者党11、エルザス゠ロートリンゲン党15、ポーランド党13、ヴェルフ党4、デンマーク党1、他3(反ユダヤ主義の右翼1を含む)、計397(人民党は0)。中央党だけでなく、保守党、国民自由党も定数の約4分の1程度となって、3党が並び立つ状況となった。この状況も、自由思想家党の不振も、ビスマルクには好都合であった。しかし1888年に皇帝が死去、新皇帝は非常に自由主義的であったが、間もなく病死した。その後継者は権威主義的であった。両者とも、ビスマルクとは考えが合わない人物であった。1890年、社会主義者鎮圧法の延長法案が保守党、中央党、自由思想家党、社会主義労働者党等の反対で否決され、ビスマルクは議会を解散した。総選挙の結果は次の通りとなった。中央党106、保守党73、自由思想家党66、国民自由党42、社会主義労働者党35、帝国党20、人民党10、改革党(反ユダヤ主義の右翼政党)3、ポーランド党16、エルザス゠ロートリンゲン党10、ヴェルフ党11、デンマーク党1、他4(反ユダヤ主義の右翼2を含む)、計397。過半数の支持基盤を形成できず、皇帝との溝も広がっていたビスマルクは、辞任するに至った。社会主義労働者党は、不利な条件下で議席を伸ばし続けていた。不利な状況というのは、弾圧はもちろん、選挙制度もそうであった。男子普通選挙とは言っても小選挙区制であった。大政党に有利な小選挙区制であっても、労働者の多く住む工業地帯でなら議席を得やすい。しかし当時の制度は、過半数の票を獲得する候補がいない場合に決勝戦が行われる、2回投票制であった。これでは1回目の投票で別々の党に投票していた、社会(民主)主義を警戒する有権者が、2回目の投票で団結する事になる。さらに当時のドイツでは、都市部への人口移動により、1票の格差が拡大していた(それが意図的に放置されていた)。社会民主労働者党が議席を得にくい農村部に、議席配分が偏る傾向があったのである。しかし同党は1990年の総選挙における得票率で、中央党を上回って第1党になった。

 

カプリヴィ(1890~1894)

労働者・子どもを守る法制整備等進歩的な政策を実現させたが、自由貿易政策に反発して農業家同盟が結成された。これは保守党と重なる勢力であった。プロイセンにおける宗教に寛大な学校法案には思想家党が反発。それを撤回すると今度はカトリックの中央党が反発し、多数派形成が困難な状況となった。両党が陸軍拡張に反対すると、カプリヴィは下院を解散した。しかし自由思想家党では、兵役の短縮を含んでいたことから、一部が中央党と政府の妥協案には賛成した。同党は造反者の処遇を巡って分裂し、処分に賛成の多数派(旧進歩党系)が自由思想家人民党を、反対の少数派(旧自由主義連合系)が自由思想家連合を結成した。1893年の総選挙の結果は次の通りとなり、陸軍拡張を支持した国民自由党が伸びた。中央党96、保守党72、国民自由党53、社会民主党44、帝国党28、自由思想家人民党24、自由思想家連合13、改革党14、人民党11、社会党(反ユダヤ主義の右翼政党)2、バイエルン農業同盟2、ポーランド党19、エルザス゠ロートリンゲン党9、ヴェルフ党7,デンマーク党1、他2(他の自由派1、農業系1)、計397。しかし進歩的なカプリヴィは皇帝と考えが合わず、罷免された。

 

ホーエンローエ(1894~1900)

社会主義者対策としての転覆法案について、中央党の賛成を確実にする目的で、教会に対する誹謗への罰則が加えられたことで国民自由党が反発、法案は否決された。艦隊法は、一部の建艦を延期する事で中央党が賛成に回り、同党と保守党、帝国党、国民自由党、自由思想家連合等の賛成で成立した。軍拡が工業に有利であったこともあり、保守派は農業を有利にする穀物関税の引き上げの引き上げを求めた。1898年の総選挙の結果は次の通りとなった。中央党102、社会民主党56、保守党56、国民自由党48、自由思想家人民党29、帝国党22、自由思想家連合12、社会改革党(改革党と社会党が合流)10、人民党8、農業同盟(保護関税を求めて結成)6、バイエルン農民同盟4、キリスト教社会党(反ユダヤ主義の右翼政党)1、ポーランド党14、エルザス゠ロートリンゲン党11、ヴェルフ党9、デンマーク党1、リトアニア党1、他7(上記以外の自由派4、反ユダヤ主義系2、農業系1)、計397。反ユダヤ主義系増加の背景には、1890年代前半の不況があった。

 

 

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