日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
イタリア 第2次世界大戦後~冷戦期

イタリア 第2次世界大戦後~冷戦期

1943年、イタリアは南部を連合国軍に、北部を同盟国のドイツに占領された。北部ではドイツの傀儡として、イタリア社会共和国の建国をムッソリーニが宣言、共和ファシスト党を結成したが、蜂起が起こり、1945年に処刑された。1944年、反ファシズムの共産党、プロレタリア統一社会党(戦前の社会党系)、行動党(独裁体制末期に反ファシズム運動が政党となったもの)、キリスト教民主主義(人民党の本流を汲む政党で、左右幅広いカトリック系)、自由党、労働民主党(改良社会党系)などが国民開放委員会を結成、南部には、この6党による、労働民主党のボノーミを首相とする挙国的連立内閣が成立するに至った(一時は共和党も参加していた)。これは6党による内閣となり、首相となった行動党のパッリが急進的、左派的な改革を進める中、連立与党は左右への分化を見せ、最も右の与党であった自由党が、連立を離脱するに至った。1945年中にも、首相はキリスト教民主主義のデ・ガスペリに交代した。1946年、君主制を維持するか(国民君主党―南部を基盤とする君主主義者の政党―、自由党、凡人戦線―南部を基盤とする右翼政党―、キリスト教民主主義右派が維持派)、共和制に移行するかを問う国民投票の結果、共和制が採用された。同時に行われた制憲議会選挙の結果は、次の通りであった。キリスト教民主主義207、プロレタリア統一社会党115、共産党104、国民民主連合(自由党や労働民主党の選挙連合)41、凡人戦線30、共和党23、自由国民ブロック(国民君主党を結成する君主主義者の連合)16、行動党7、シチリア独立運動4、共和民主結集(左傾化した行動党を離党したパッリらが結成。総選挙後に共和党に合流)2、サルデーニャ行動党2、農民党1、統一運動(アメリカが他の民主主義国を併合すべきだと主張)1、社会キリスト教党(キリスト教系の左翼で社会党に合流する)1、労働民主党1、共和進歩民主戦線(ヴァッレダオスタ州の行動党、共産党、社会党、共和党の連合)1、計556。キリスト教民主主義が他を大きく引き離す第1党となったものの、過半数にはあと72議席必要で、プロレタリア統一社会党と共産党の合計を12議席下回っていた(共産党はファシズムに抵抗してきたことで支持を広げていた)。左右の勢力はかなり拮抗していたと言える。この結果を受けて成立した第2次デ・ガスペリ内閣はキリスト教民主主義、共産党、プロレタリア統一社会党、共和党の連立となった。分権的な議院内閣制、二院制、比例代表制が採られ、ファシスト党の再建は禁じられた。1947年、共産党との連携に反対する旧労働民主党系がプロレタリア統一社会党を離党し、労働者社会党を結成した。プロレタリア統一社会党は、社会党に改称した。デ・ガスペリ内閣はキリスト教民主主義、共産党、社会党の連立となったが、左翼政党の政権からの排除を求めるアメリカの圧力、貧困層を犠牲にする緊縮財政に対する社会、共産両党の反発を受け、デ・ガスペリは一度内閣総辞職をすることで、社会、共産両党を連立から排除し、労働者社会党、自由党、共和党の支持を得る、キリスト教民主主義単独政権となった。これらの党は閣僚も出すようになった。

1948年の総選挙は、次の通り、キリスト教民主主義が過半数を上回る結果となった。キリスト教民主主義305、民主人民戦線(共産党と社会党)183、社会主義統一(労働者社会党と、共産党ではなくキリスト教民主主義との連携を主張して社会党を離党し、1949年に統一社会党を結成する議員達の連合)33、国民ブロック(自由党と凡人戦線―4議席を得たが総選挙後に解散―)19、国民君主党14、共和党9、社会運動(1948年結成。国家ファシスト党、共和ファシスト党の系譜)6、南チロル人民党3、農民党1、サルデーニャ行動党1、計574。1950年、小作農に土地を分配する農地改革に否定的な自由党が連立を離脱した。さらに、労働者社会党と統一社会党が民主社会党を結成、NATO加盟に反対して連立を離脱した(1951年)。このため、デ・ガスペリ内閣はキリスト教民主主義と共和党の2党連立となった(民主社会党と自由党は首相指名投票を棄権する消極的支持―イタリアでは独自候補を立てたり、他の候補に投じたりしないことで、ある内閣の成立に反対まではしないという立場を採ることがよくある―)。1953年の総選挙の結果は次の通り、右翼政党が躍進した選挙であった。キリスト教民主主義263、共産党143、社会党75、国民君主党40、社会運動29、民主社会党19、自由党13、共和党5、南チロル人民党3、計590。与党2党の合計でも過半数を割り、デ・ガスペリ内閣はキリスト教民主主義の単独内閣となって、単独内閣のまま、間もなく2回、首相が交代した。現在から振り返れば、キリスト教民主主義が過半数を超えたのは1948年の総選挙だけであった。カトリック教徒全般を支持基盤としていただけあって、同党は幅が広く、極右政党と協力することを辞さない右派と、社会党と組もうとする左派の対立があった。社会党内にも、キリスト教民主主義などの与党と組もうとする右派と、共産党との連携を重視する左派がいたが、両党はどちらの動きも見せたものの、米ソの関係改善が見られる中、また、分裂もした社会党が共産党より議席が少なくなる中、キリスト教民主主義と社会党は、距離を縮めることになった。そのような中で行われた1958年の総選挙は、次の通りの結果となった。キリスト教民主主義273、共産党140、社会党84、社会運動24、民主社会党22、自由党17、人民君主党14(国民君主党離党者が1954年に結成~1959民主党へ、国民君主党11、共和党・急進党(自由党の最も左に位置したかつての急進党系が1955年に再興するも、その後1976年の総選挙まで議席を獲得できず)6、南チロル人民党3、地域運動(連邦制、反中央集権派)1、ヴァルドスタン連合(フランス系を代表する、ヴァッレ・ダオスタ州の政党)1、計596。キリスト教民主主義と社会党が多少増えはしたが、大きな変化はなかったと言える。政権は、キリスト教民主主義、民主社会党、自由党の連立となった。

その後、キリスト教民主主義の単独政権、民主社会党との連立、単独政権を経て1962年、キリスト教民主主義、共和党、民主社会党の連立内閣が成立し、社会党がこれを支持した。単独政権の頃などに、キリスト教民主主義右派が志向した、右翼政党(国民君主党、社会運動)との協力も見られたが、共産党との協力が内部から批判を招いた社会党の、政権に近づこうとする傾向が強まったのであった。1963年の総選挙の結果は次の通りである。キリスト教民主主義260、共産党166、社会党87、自由党39、民主社会党33、社会運動27、君主主義統一民主党(国民君主党と人民君主党が1959年に合流)8、共和党6、南チロル人民党3、ヴァルドスタン連合1、計630。定数の伸び以上の伸長を、自由党が果たした。その後キリスト教民主主義単独内閣を得て、1963年中に、キリスト教民主主義、社会党、共和党、民主社会党の連立内閣が成立した。つまり、政権の基盤が左に広がったのである。さらに、社会党と民主社会党が合流し、統一社会党を結成した。この内閣が迎えた1968年の総選挙の結果は次の通り、政権に参加した社会党系の一人負けであった。キリスト教民主主義266、共産党177、統一社会党91、自由党31、社会運動24、プロレタリア統一社会党(キリスト教民主主義との連携、民主社会党との合流に反対した社会党離党者が1964年に結成)23、共和党9、君主主義統一民主党6、南チロル人民党3、計630。過半数を維持はしたものの、中道左派政権としては敗北だと言える結果となったことから、キリスト教民主主義が出していた首相が交代、とりあえず同党の単独少数政権となり、年末にキリスト教民主主義、統一社会党、共和党の連立政権に戻ったものの、また単独政権に、そしてまた同じ3党の連立(統一社会党の分裂後は4党の連立)、さらにまた単独政権へと変化し(多くの場合首相の交代を伴うものであったが、首相は全てキリスト教民主主義)、1972年の総選挙を迎えた。この間、1969年に統一社会党は元の2党(社会党と民主社会党)に分裂した。また戦前と同様に、極左の運動、それに対抗する極右の運動が激しくなった。キリスト教民主主義が反対する中、共産党、社会党、急進党、自由党の賛成で、離婚を認める法案が成立した(連立の枠組みには影響がなかった)。総選挙の結果は、キリスト教民主主義266、共産党179、社会党61、社会運動(君主主義統一民主党と組んで選挙を戦い、総選挙後に同党を吸収)56、民主社会党29、自由党20、共和党15、南チロル人民党3、ヴォッレ・ダオスタ州におけるキリスト教民主主義、ヴァルドスタン連合、ヴァルドスタンラリー(ヴァルドスタン連合の保守系の離党者が結成)、民主社会党の選挙連合1、計630。議席を失ったプロレタリア統一社会党は分裂し、多数派は民主社会党系と再度離れた社会党に復党、他はプロレタリア統一党を結成した(プロレタリア統一党は1984年に共産党の合流)。キリスト教民主主義、民主社会党、自由党の連立、キリスト教民主主義、社会党、民主社会党、共和党の連立、キリスト教民主主義、社会党、民主社会党の連立、キリスト教民主主義、共和党の連立、そしてキリスト教民主主義単独政権へと、時に首相の交代を伴いつつ変化しながら、1976年の総選挙を迎えた。その結果は次の通りで、躍進する共産党がキリスト教民主主義との差を縮めた。キリスト教民主主義262、共産党228、社会党57、社会運動35、民主社会党15、共和党14、プロレタリア民主主義(1975年にプロレタリア統一党等が結成した連合。1978年に政党化)6、自由党5、急進党4、南チロル人民党3、ヴォッレ・ダオスタ州における共産党、社会党、プロレタリア統一党の選挙連合1、計630。当時は、政権の基盤を安定させて汚職事件による動揺をおさえようとしたキリスト教民主主義と、アメリカの警戒を解かなければ政権を得られない(得ても転覆させられる)と考え、欧州統合路線やNATOを支持する姿勢を見せた共産党が接近し、総選挙後に、共産党が下院議長のポストを得た。しかし連立を組むには至らず、社会党、民主社会党、共和党、そして共産党の支持を得る、キリスト教民主主義の単独政権が成立した(このような政権は、自由党にとっては支持し難いものであった)。第1次石油危機の影響を受けて経済状況が悪化する中、共産党は連立入りを目指し、緊縮財政、治安対策の強化を支持した。しかし、連立入りを志向する共産党は、それに消極的であったキリスト教民主主義との溝を広げ、内閣支持を取りやめた。

こうして1979年に総選挙が行われた。この時には政権は、キリスト教民主主義、共和党、民主社会党の連立政権となっていた。選挙の結果は次の通り、共産党が議席を減らし、急進党が増やした。キリスト教民主主義262、共産党201、社会党62、社会運動30、民主社会党20、急進党18、共和党16、自由党9、プロレタリア統一党6、南チロル人民党4、トリエステのためのリスト(トリエステ県の地域政党で社会党と連携していたが、1994年からはフォルツァイタリアと連携し2006年に合流)1、ヴァルドスタン連合1、計630。それでも共産党は、引き続き下院議長のポストを得た。政権は、キリスト教民主主義、共和党、民主社会党の連立、次にキリスト教民主主義、自由党、民主社会党の連立、そしてキリスト教民主主義、社会党、共和党の連立となり、これに民主社会党が加わった。しかし、キリスト教民主主義と社会党の主導権争いが起こった。キリスト教民主主義のほうが議席数はずっと多かったが、勢力を縮小させてはいても、社会党にはキャスティング・ボートを握っているという面があり、1978年には大統領のポストを得ていた(君主制が廃止された際に設けられた大統領は、1955年までは自由党が、1964年から1971年までは民主社会党が出していた。1985年にはキリスト教民主主義に戻る。イタリアの大統領は、両院議員と各州代表によって選出される、儀礼的な存在だという面があるものの、法案の再議を求めることができ、首相の任免権、議会の解散権を持っていて、多数派がうまく形成されない場合などに影響力が強まる)。このため、汚職事件、過激な極右団体との関係によってキリスト教民主主義が苦境に立たされると、クラクシの下で現実的な路線を採り、中間層に支持を広げた。共産党は、社会党と組んでキリスト教民主主義に対抗しようとしたが、断念せざるを得ず、第2党ながら、万年野党の色を強めざるを得なかった。1981年には、疑惑のなかった共和党が首相を出す、キリスト教民主主義、社会党、民主社会党、共和党、自由党の5党連立政権が成立した。しかし、第1党のキリスト教民主主義の閣僚とキャスティングボートを握っていたと言える社会党の閣僚の対立(通貨も下落している経済危機の中、給与を凍結するなど労働者に厳しい政策を進めようとするキリスト教民主主義の国庫相と、大企業と富裕層への増税を優先するべきだとする社会党の財務相の対立)で内閣は倒れ、共和党は連立を離脱、キリスト教民主主義が首相を出す、キリスト教民主主義、社会党、民主社会党、自由党の連立内閣となった。

1983年の総選挙の結果は次の通りとなり、第1、2党が議席をやや減らす一方で、議席を増やした社会党が首相を出す、社会党、キリスト教民主主義、民主社会党、共和党、自由党の5党連立政権が成立した。キリスト教民主主義225、共産党198、社会党73、社会運動42、共和党29、民主社会党の23、自由党16、急進党11、プロレタリア民主主義7、南チロル人民党3、ヴェネタ同盟(1979年結成のヴェネツィアの地域政党)1、サルデーニャ行動党1、アオスタバレー(ヴァッレ・ダオスタ州におけるヴァルドスタン連合等の連合)1、計630。クラクシ首相は賃金の物価スライド制の変更(上昇を抑える財政再建策・インフレ対策)などの改革、積極的な外交を、メディアを駆使しながら展開し、支持を集めた。コンセンサス重視から、リーダーシップ重視、社会民主主義政党の右傾化という大きな変化であった。キリスト教民主主義では、左右対立の中、左派のデ・ミータが力をつけていた。社会党の力の源泉は、左右両極(共産党と社会運動)の排除が必然となる中で、キャスティングボートを握っていたことにあった(第3党であり、当時の5党連立の最も左であったためだ―最も右には自由党があったが、議席数が少なかった―)。デ・ミータは、社会党以上の議席を持つ共産党とも組む構えを見せることで、その社会党の影響力を弱め、1987年3月に、首相のポストを社会党からキリスト教民主主義に戻す合意を実現さた。こうして、キリスト教民主主義単独内閣の下で行われた1987年の総選挙は、次の通りの結果となった。キリスト教民主主義234、共産党177、社会党94、社会運動35、共和党21、民主社会党17、急進党13、緑のリスト(1986年結成の環境政党、反原発であり、脱原発がが議論となっていたことから躍進)13、自由党11、プロレタリア民主主義8、南チロル人民党3、サルデーニャ行動党2、ロンバルディア同盟(1984年に結成されたロンバルディア州の地域政党)1、アオスタバレー1、計630。社会党はクラクシに対する評価によってさらに議席を伸ばしたが、さらに議席を減らした共産党には遠く及ばず、キリスト教民主主義が議席を伸ばしたため、首相を出すキリスト教民主主義、そして社会党、民主社会党、共和党、自由党の連立内閣が成立した。しかし不満を抱く社会党が内閣を倒し、同じ5党によるデ・ミータ内閣が成立した。デ・ミータはリーダーシップを発揮して改革を進めようとしたが、反発するキリスト教民主主義内の反デ・ミータ勢力と社会党のクラクシが組んで、内閣を倒した。

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