日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振・新民党(⑧)~塩専売と左右両極~

(準)与党の不振・新民党(⑧)~塩専売と左右両極~

1907年2月13日付の萬朝報は、大同倶楽部において、塩専売を廃止し、代わりの財源を調査し、議会に提出すべきだとする建議案を、代議士会の議を経て、議会に提出する運びであることを報じている。これは、大同倶楽部の野党化を示す出来事のようにも見えるが、そうではなかった。大同倶楽部の南條吉左衛門が塩専売廃止の建議案を提出したことに対して、猶興会の島田三郎は、「法律案ニ就イテ行政官ニ哀訴歎願スルノ惡例ヲ遺ス建議案ニ同意スルコトハ出來マセヌ」としている(『帝國議會衆議院委員會議録』明治篇四一321頁。同じ猶興会の早速整爾も、立法権、法律を議する権利を持ちながら、法律案を否決して建議案を可決するということは、議院の体面に関するとし、実際には塩専売廃止の誠心がないと批判した(『帝国議会衆議院議事速記録』22第23回帝国議会288頁)。それは当然のことであった。大同倶楽部は法案には賛成し、しかし本当は反対だから、塩の政府専売をなんとかやめて欲しいと、ただ行政府にお願いしただけなのだから。これは立法府としての議会の権限を、自ら捨てようとするような、行為であった。この猶興会による批判はまさしく、最も左の極であった猶興会(新民党)と、最も右の極であった大同倶楽部(吏党系)の、差異を際立たせるものであった(猶興会は郡役所廃止建議案を提出しているが、法案に賛成した上で要望を出したものであって、このケースとは異なる)。積極財政志向を維持していた大同倶楽部は、塩の政府専売を廃止した場合の、代わりの財源を提示するべきであった。そうでなければ、政党というより利益集団に近い。この点こそ、大同倶楽部が政党化されなかったことと一致する(前身と言える帝国党は政党であった)。薩長閥の意に沿う場合を除いて、野党的主張をしにくい吏党系の弱点と、姿勢を明確にすることに消極的な中立実業派の弱点が、大同倶楽部で合わさったのだと言えるからだ。

立憲政友会は、建議案に賛成することを決めていた(1907年3月17日付東京朝日新聞)。第1次西園寺内閣成立当初からの、立憲政友会・大同倶楽部対、憲政本党・猶興会という構図になっているのだ。ただし立憲政友会も、大同俱楽部と同じ姿勢をとったとは言っても、同党は一方で行政を担っていた(つまり建議案に賛成することは、野党のそれに乗っかることになるという問題はあるが、自党の執行部へ要望を上げるのと似ている)。立憲政友会・大同倶楽部の陣営では、上で述べた弱点を持っていた大同倶楽部は、議席数の大きな開きを別としてもなお、不利な存在であった。選挙区の支持者の意を汲もうとしても、政権の一応は後ろ盾であり、自らが政権を担っても同じ政策を採ることも考えられる薩長閥の手前、できないということがあり得、自ら(薩長閥-大同倶楽部)と対立する政権の法案であっても、反対しにくいのだ。現実的な政権準備政党のような姿勢だと言うこともできるが、大同倶楽部は政党でもなければ、政権を担う勢力でもなかった。

結局、廃止法案は否決、建議案は可決となった(個々の議員の採決における賛否は分からない)。なお、塩専売法の廃止に関しては、猶興会の島田三郎が、安くで輸入できる塩を、国内で保護することに異論を唱えている(『帝國議會衆議院委員會議録』明治篇四一313頁)。市部の議員として消費者の立場に立った発言だといえる。もちろん、自由貿易を重視する姿勢でもある。大同倶楽部の浅羽靖も、塩専売では塩の良質化は出来なかったことを認めており、自らが本来自由競争を志向していたことを、さりげなく織り交ぜつつ、対立する会派に属していた島田に同調している(同314頁)。それにしても、新民党(猶興会)は、郡制廃止問題に続いてまたもや吏党系(大同倶楽部)の前に立ちはだかったのであり、双方が本来相容れない存在であるのは間違いなかった。

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