日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
不健全な「閣外協力型」政治

不健全な「閣外協力型」政治

日本は1993年以来連立の時代に入っているという。確かにそうだ。それぞれわずかな例外を除いて、1948年から1993年までは単独政権、1993年から現在までは連立政権が続いている。単独政権を担ったのは、1955年までは自民党の中心的な勢力となる自由党系、1955年からは、その自民党である(1954~55年は日本民主党の内閣。日本民主党は改進党系-戦後で言えば日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党-とされるが、日本民主党を主導したのは自由党系の鳩山一郎らの勢力であった)。

単独政権期の例外とは、1949年2月から1950年3月までの約1年間の、民主自由党と民主党連立派の連立(民主党連立派から閣僚が出ていない期間がある)、そして1983年から1986年までの実質およそ2年半の、自民党と新自由クラブとの連立である。この2つの例では、いずれも、大政党が連立相手を吸収する形で、単独政権に移行している。双方とも、大政党中心の内閣に1人だけ連立相手の議員が入閣する形であり、特に新自由クラブは、自民党に合流(復党)した当時、その議席数は1ケタであった。連立政権とはいっても、単独政権に近いものであったわけである。「連立相手」が大きな成果を上げたということもない。

連立政権期の例外とは、1996年11月から閣外協力に転じた社民党とさきがけが、1998年5月に連立を離脱してから、1999年1月に、自民党と自由党の連立が成立するまでの間である(閣外協力の期間を含める見方もあるが、自社さ3党の協議機関が設けられていたから、筆者は連立政権であったと捉えている)。

1993年以降の連立の枠組みを挙げておこう。総理大臣を出している政党にはアンダーラインを引いた。また、閣僚を出していなかった政党は記さなかった(与党と統一会派を組んでいたために必然的に与党となり、政府に閣僚より下のクラスのポストを得た小政党もあった)。

・日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合

新生党、公明党、日本新党、民社党、自由党、改革の会(会派)

・自由民主党、日本社会党、新党さきがけ

自由民主党、社会民主党、新党さきがけ

自由民主党、自由党

自由民主党、公明党、自由党

自由民主党、公明党、保守党

自由民主党、公明党、保守新党

自由民主党、公明党

民主党、社会民主党、国民新党

民主党、国民新党

自由民主党、公明党

これらの連立政権が存在していた期間の、大部分を占める自民党を中心とした連立政権だけを見ても、何度も組み合わせが変わっている。

日本とイタリアは戦後、1党が強い状況が冷戦終結まで続き、同じ1993年に政治改革が行われた。この点が似ていると言われる。しかし、イタリアでは冷戦終結まで、その第1党を中心とした連立政権が続いていた。そして冷戦終結後、2大政党制へと進んでいったのである(制度や歴史的背景が違なる国を簡単には比較できないが、イタリアが変わったことは確かである)。それに対して日本は、政権交代が実現したことはあっても、長期的に見れば、冷戦終結後から、そして今なお、やっと冷戦終結前のイタリアのような連立の形となったに過ぎない。

第1次橋本内閣までは、連立の中心となる人物、政党は当然ながらあっても、各与党は対等に近かった。これにはこれで、小党がその議席数以上の発言権を得ることで、民意が捻じ曲げられるという問題がある。政策が近い政党が連立を組んでいれば、そのマイナス面は限りなく小さくなるが、日本では連立は、政策の近さで決まるものでもない。

自由党系、その流れを含む自民党を中心とする内閣では、連立相手となる政党が1名しか閣僚を出していないのが普通である。例外は、まだ自民党が与党に復帰して日が浅かった、第1次橋本自社さ連立内閣(約10ヶ月)だけである(その前に約1年半続いた村山自社さ連立内閣があるが、総理大臣を社会党が出していたことなどから、自民党がリードする場面は少なからずあっても、自民党中心とは言えない)。

1993年からの現在までの連立の時代を見渡すと、1998年5月から1999年1月だけが単独内閣である(自民党内閣)。それを除く連立内閣期、トップバッターの細川内閣から第1次橋本橋本内閣の3年余りを除けば、連立大2党以下は、1名以下の閣僚しか出していない(閣僚0-閣外協力か、大臣以外のポストは得ている場合-もある)。しかの、連立第1党以外の政党からの入閣は、最大でも2名である(その2名であったのも、自自公→自公保連立と民社国連立の、計4年半余りに過ぎない)。小沢の自由党や公明党は、閣僚を2名出し得る規模の政党であったと言える。1名となったのには、それぞれ理由があるが、ここではそれは問題ではない。その結果の、バランスの悪さが問題なのである。

閣議では自民党の閣僚が集まり、その中に1人、連立相手の所属の閣僚がいる。これでは自民党本部に客として来たようなものである。元々連立与党の中で自民党が圧倒的な議席を持っているのだし、これでは連立相手が影響力を行使することは極端に難しい。閣外協力でなくても、それと大して変わらないように、筆者には感じられる。実際に連立相手は、自民党にブレーキをかけることを含め、注文を出して、その一部を容れてもらう存在に過ぎなかった。

しかし例外はある。自自2党連立の自由党である。小沢一郎率いる自由党は強硬な姿勢で自民党と渡り合い、各省の政務次官、官僚が大臣の代わりに答弁をする政府委員を廃止、副大臣、大臣政務官を設け、党首討論を導入するという、政治主導の実現を助ける改革、衆議院の定数削減の実現という大きな成果を上げた。これがなぜ可能であったのかと言えば、参議院で自民党が過半数を大きく割っていたからだ。実は自自両党でも参議院の過半数には届かず、公明党の協力を得たのであるが、ここに次の問題がある。公明党が連立に入ると、自民党は自由党の強硬な姿勢に反発するようになる。自由党なしでも、自公両党だけで参議院の過半数を上回る議席があったからだ。

時に過半数を一定程度割ることはあっても、圧倒的な議席数を誇る自民党は、与党になりたい、あるいは自民党に頼んで政策を実現させたいという政党が存在することから(すでに連立を組んでいる政党を含む)、連立相手を選り好みしたり、取り替えたりすることが、比較的容易にできる。これでは、連立相手の立場は弱くなる。実際、どっちもどっちという面もあるにしろ、自由党は連立離脱に追い込まれ、さらに約半数の議員を保守党として切り崩され、自公保連立政権が誕生(というよりも存続)したのである。なお、ここで見た自自連立でさえ、自民党と協議して連立内閣の政策を決めるというよりは、自民党政権に注文をつけて政策を変えさせる、取り入れさせるという面が大きかった。

2015年の安全保障関連法案の採決の際には、自民党は衆議院で過半数を超え、参議院でもあと7議席ほどまでに近づいていた。一方で野党第1党の民主党は、政権再交代には遠い状況にあり、左に寄っていた。このような状況下、強硬的な右寄りの政権・政党だというイメージを持たれることは危惧していた第3次安倍内閣・自民党が、自らに寄ろうとする次世代の党、日本を元気にする会、新党改革という小党を利用し、法案の修正ではなく、附帯決議と、それを閣議決定するにとどめることで合意をし(閣議決定は国会の採決なしに、閣議決定で覆せる。それが法改正よりも容易い。当然のことではあるが、集団的自衛権をめぐる安倍内閣と野党の、集団的自衛権を巡る対立を見ても実感する)、5党合意をアピールした。野党の中でも、生活、社民両党は小党に転落していたわけだが、共闘していた野党5党と同じ、5党合意を演出したのは見事であった。

ただ、この合意の、国会による監視を強化するという歯止めは、本来、平和の党を自認する公明党が勝ち取るべき成果であった。しかし公明党は、自民党の右傾化に懸念を抱きつつ、従うしかなかった。なぜかといえば、みんなの党、日本維新の会といった右寄りの新党が誕生し、自民党に接近しようとする動きを見せたことで、連立の組み換えが容易になったからだ。自民党が創価学会員の票を失うという危険性もあったが、自民党と一定の人気を維持していた第3極の勢力が組めば、国民の信頼を取り戻していなかった民主党など、敵ではない状態であった。公明党も、自民党に切られたところで、ずっと敵対してきた相手であり、信頼回復の目途も立っていなかった民主党と、組むことは難しかった。

附帯決議には法的拘束力がない。ないのとあるので違うのは確かだが、法律として記されるよりは、軽いものであることも否定できない(同じくらい重いというのなら、法律に記せば良いということになる)。附帯決議には、現実的な野党になろうとしていた民主党も、頼っていたことがある。野党第1党ですらそうなのだから、中小の政党が、「附帯決議だけでも付けられたのなら良かった」、「賛否が激突するだけで、結局自民党の主張通りになるよりはずっと意味がある」とするのも分かる。しかし、附帯決議が取引材料に使われることには問題がある。自民党案を法案としてはほとんどそのまま成立させ、かつ強行採決と言わせないための味方をそろえるための取引材料に、強制力のない附帯決議が使われているというマイナス面は、そのプラスの面よりも大きいのではないかと思う。

野党が反発した法案が成立した後、「施行されても何も問題は起こらなかったではないか」と、得意げに言う人がいる。しかし、見えるところで短期間のうちに問題が起こるとは、全く限らない。節度ある運用が続けば、それが慣例になるという面もある。しかしそれでも、附帯決議に頼る妥協の多用は、政権、議会の運営をゆがませていると思う。

例えば、安保関連法案について言えば、多くが賛成していることを示そうと、法案成立自体のためには賛成を得なくてもよかった政党の、賛成を得るため、「しなくても良かった譲歩をした」という、周知の事実がある。自公両党と合意をした3党の議席は、合計でも参議院十数名、衆議院数名で、特に衆議院ではわずかな数であった。しかしこれだけで、自公2党対、野党5党(民主、維新、共産、生活、社民)というのが、5党対5党になるのである。もちろん、野党側も小党を含んでいるので、社民党は他の政党と違って歴史があるとは言っても、そもそも野党が水増しであったと言うこともできる。このため、議席数ではそもそも多い自民党の、正当防衛であったとも、言える。ただし、一部の異常に偏った政党以外が、全て賛成しているという形を整えるというのが狙いなら、それは不健全であると思う。そしてそのために要らぬ譲歩をしたという見方ができること、かつ、その「要らぬ譲歩」が、法案修正よりも格下の、附帯決議であることが危険なのだ。

自民党を譲歩させた3党であるが、このような機会、利用価値がなければ、特に単体で自民党と渡り合うことは、とてもできない。その前に3党とも、今や残ってすらいない。その3党のうち、次世代の党と新党改革は、自民党に合流したのだと言える(自民党を譲歩させるだけの重要な差異があり、自民党に譲歩させたと誇っていたはずが、自民党入りした議員も少なくない―次世代の党の全衆院議員、新党改革の会派のみの所属も含め全員―党首の荒井は落選→解党後―など)。(5党合意の方向での)法改正を含めた努力を自民党に約束させた3党なのだが(これも5党合意)、もう存在しないのだから、無責任極まりない(完全に選挙によって消滅したと言える新党改革は別としても)。

左派政党を封じるために過度の安全弁を設けたが、そもそもその必要はなかったと、だから現状には合っていないのだと、自民党が主張することがないと言えるだろうか。左派政党を馬鹿にするような心持でいる限り、言えないのだと筆者は思う。

左派政党が正しいということではない。安易に集団的自衛権を否定することは、中朝両国の脅威がある中、自らの手足を縛ることになる。しかしだからと言って、法案の成立過程をチープなものにしてはいけない。野党の徹底抗戦をチープなショーだと言うこともできるが、権力を握る内閣・与党の姿勢は、野党の姿勢以上に問われなければならない。法案の成立過程が軽いものとなれば、その分だけ、安倍内閣よりも危険な政権が誕生した時、安倍内閣期に成立した法案の問題点は、悪用される危険が高まる(あえてこのような言い方をする)。

本来は、異なる考えの大政党(政党連合でも良い)が交互に政権を担当するという緊張の中で、短所を最小にした法案が成立するというのが正しい姿だ。そのためには、政権交代が起こるたびに国の在り方がコロコロと、特に短期間で変わってしまわないだけの、知恵と自制も必要になる。欧米諸国が、政権交代を定着させる中で身につけた知恵である。自民党1党優位を終わらせないための知恵、弱く与党経験に乏しい野党第1党を、おとしめるための知恵では、有効なブレーキ、有効なアクセルにはなり得ない。

中小政党の譲歩には、何でも反対の野党とは違う、一定の実績のある、「大人の野党」をアピールする狙いがある。これには野党票を分散させ、つまり野党第1党の得票を減らし、自民党の万年与党の地位の保全を助ける作用がある。弱くても自民党のライバルではある野党第1党は、そのような競争に参加しにくいから、ますます強硬になってしまう。自民党に天秤にかけられる中、少しの「ごほうび」で満足する金魚のフン連合と、強硬な万年野党の、不毛な対立構図である。

1党優位、かつ多党制になりやすい日本では、優位政党が連携相手を選択できる状況になりやすく、その優位政党が過半数を下回ることがあったとしても、他の1党が単独でキャスティングボートを握り、影響力を行使するということは難しい。一般的な連立政権の形である最小勝利連合(どの政党が連立を離脱しても過半数割れとなる、つまり余分な政党を含んでいない連立)であっても、他に代わりがある以上、影響力が極端に小さくなる(議席数だけでなく、信仰心に基づく創価学会員の投票行動を通して、選挙の段階ですでにキャスティングボートを握っている公明党は、それでもまだ、ましな方だ)。

そうなると、共産党は別としても、優位政党以外の政党が、優位政党に頼んで、自らの政策の一部を実現させるか、自らの支持者が嫌う政策を、多少薄めてもらおうとするようになる。モテモテの優位政党の力は強く、それ以外の政党は、誰が優位政党に振り向いてもらえるか、競争することになる。あまりに偏った状況である(冷戦期のイタリアには、優位政党と言えるキリスト教民主党が存在したが、過半数の議席を得ることはほとんどなかった。このため、同党を中心とした連立政権が常態化したのだが、政権入りが難しい共産党と社会運動-戦前のファシスト党の流れをくむ極右政党-を除くと、他のほとんど全ての政党が組まなければならないというようなことが多く、キリスト教民主党の一強とは言い難い面もあった)。

少なくとも今の選挙制度(衆議院の小選挙区比例代表並立制。参議院も小・大選挙区と比例代表の並立制であり、比例代表以外の部分では1人区が増えている。しかも衆議院の優越の度合いが小さい)の下では、(多くの)選挙区を捨てるような比例特化型以外の第3極などあり得ない(本気で短期のうちに第2極を目指す場合は別だが、それは不可能に近い)。比例特化型の政党は、中立の弱小政党として先細りするか、間接的にであっても、第1極の付属政党になるしかない。第2極に与すれば、万年野党になる可能性が高く、生き残りはより難しくなる。ただその場合には、第2党(野党第1党)の風下に立つことにはなるものの、1つの小党でも味方にしたいはずの野党陣営においては、貴重な存在になり得る。

なお、小選挙区制を比例代表制に混ぜるのではなく、双方をただ同時に行う衆議院の選挙制度改革(ただし重複立候補は可能)もそうだが、大選挙区と、全国を1つの選挙区とする比例代表制があり、小党に比較的有利な参議院の選挙制度の改革(両院が対象となるものは除く)、参議院の権限を弱める改革(同時に参議院の独自性を強める)に手を付けず。地方議会の選挙では定数が非常に多いにもかかわらず、やはり1人の候補にしか投じられない単記制が多く採られていることで、小選挙区制導入によって2大政党制(に近いもの)を実現させようという1993年当時の意図は、簡単に裏切られるものとなった(それこそが、当時野党になりながらも、圧倒的な第1党ではあり、万年野党にならない限り地盤も維持し得た、自民党の狙いであったとも言える。また、社会党以外の非自民連立与党の議席が少なく、その大量の社会党議員の一部が非自民連立の足を引っ張った参議院という場所があったことは、当時の自民党の助けになったことも付け加えておきたい)。

さて、このまま第2党が弱すぎる状態、かつ第3党以下がそれにとって代わるほどにはならないという状態が続けば、五十五年体制下のように、自民党を中心とした談合が、裏で常態化することになりかねない(小選挙区制を中心とした選挙制度下では、本来考えにくいことである。だから、その方向に進む中で、良いか悪いか分からないが、また異なる展開はあるかも知れない)。

このような傾向には、確かに合理的な面もある。最大与党に票を投じた、有権者の多数派の意向が大方反映され、他の政党に票を投じた有権者の意向も、部分的に反映されるのだから、バランスは良い。しかし野党第1党に投じた、2番目に多い有権者の民意は、野党第1党が取引きに参加しない場合、反映されることはない。与党への圧ともなりにくい。

比例代表制を中心とした選挙制度を採る国々では、1党が過半数を上回ることはめずらしく、総選挙後の折衝で連立政権の方針が決まることが多い。そのような場合、多様な民意が反映されるが、最も多くの有権者に支持された政党であっても、自らの政策を妥協せずに実行していくことは難しい。これらは、見方によって長所とも短所ともし得る。日本は、このような比例代表制の国と、本来の2大政党制の国との、間に位置しているように見える。小選挙区制と比例代表制をくっつけているから、当然と言えば当然なのだが(その前も、中途半端な中選挙区制という制度であった)、これを選挙制度がもたらした状況と言えるほど、事は単純ではない。それについては置いておくが、比例代表制で全議席が決まる国々と比べ、日本の第1党の獲得議席はずっと多い。その上、その第1党はほとんどいつも、自民党なのである。これでは、他国など参考にならない。

繰り返しとなるが、1強多弱の日本では、優位政党の自民党は、個別の政策で協力可能な政党を選ぶことが出来る。自民党が様々な政策において、他党に多少なりとも譲歩する場合には、自民党にとってはあまり痛みのない譲歩である一方、野党第1党にとっては、自民党との差異を有権者に認識してもらうことが困難になることが多い。野党第1党にとって、自民党の向こう側にいるような政党に対する譲歩であれば、その限りではない。しかし、自民党は基本的には左へ譲歩するのであり、野党第1党も基本的には、保守政党である自民党の左にある(自民党の右に位置する政党であっても、安倍内閣・安倍自民党を譲歩させる場合には、アクセルではなくブレーキになる。だから、そのような右派政党と野党第1党との差異すら、小さく見えてしまう。あるいは、野党第1党が本来そのようなブレーキ役でなければならないのに、あまりに頑固すぎるのだと、批判される)。

自民党の政策は、同党が過半数を多少割っている場合であっても、大方実現する。これも繰り返しとなるが、野党第1党が自民党に対抗しようとする限り、野党第1党独自の政策は、実現しない。ここまでは良い。第3党以下の政策は、自民党に近いものが実現する。第3党以下の複数の政党が、自民党との連携、連立をかけて競争しているから、自民党の譲歩する部分が小さくなるからである。さらにこれが、連立政権が形成されるタイミングだけではなく、いつでも起こり得る。いろいろな政党がある中で、法案ごとに協力者を募集するのであるから、連立のパートナーであっても、うかうかしてはいられない。

自社さ連立崩壊前後、自民党全体と、左寄りの社さ(社会民主党、さきがけ)両党との距離が遠くなると、社さ両党、そして社さ両党から分かれてできた民主党と近かった、自民党の加藤紘一などが、政策ごとに、協力してくれる政党を求める「部分連合」を唱えるようになった。当時、自民党が社さ両党の連立離脱を許すことができたのは、小沢の自由党が自民党との連立を狙い、公明党系も、自民党との連携を願っていたからである(自自連立や自自公連立としてのこれらの実現は、加藤紘一にとっては自らの危機を意味した)。部分連合と言うのは、他国では、選挙で第1党となった政党(あるいは最大の議席を得た、政党の連合)、時の与党が過半数を下回っていても、連立相手だけではなく、閣外協力してくれる政党も得られなかった場合に採られる、不安定なものである。しかし日本では、自民党が与党である場合、政権交代の可能性は低いことが多く、自民党が幅の狭い政党でもないから、自民党が望めば、段階的にであったとしても、連立相手となる政党は得やすい場合が多い。例外は、参院選で民主党が第1党となり、それまでよりは政権交代の可能性が高まった2007年からだろう。その後本当に政権交代が実現したものの、民主党政権は安定せず、参院で過半数割れを起こしても、連立相手、閣外で協力してくれる政党を得られないまま、2012年に自民党に政権が戻った)。

話を戻そう。1党優位制の下の合意形成には、確かにバランスが良い面もあるのだが、それは、優位政党が両院で過半数を上回れば、実現しなくなる可能性が高い(選挙の段階でキャスティングボートを握っている公明党との合意形成については、必ずしもこの限りではない。しかし公明党は、選挙でも国会でも自民党と協力したいのだから、キャスティングボートを握っているという面は意外と小さく、自民党の路線に、大まかには追従している)。

そして、合意がうまく形成されても、大きな問題がある。それは、手柄が自民党のものとなることだ。「ずるい」というような感情論ではない。優位政党を強化し、1党優位の状態を強化してしまうことが問題なのだ。

自民党は譲歩の痛みをあまり味わうことなく、他党と協議をして合意し、それが報じられる。特に1強多弱の状態で、第2党以下の再編が激しいと、合意された案は自民党の案として認識される(他の政党については、いちいち名前を憶えていられないという人が、少なくない―それなりに議席を持っている政党については、面倒でも確認するようにした方が良いとは思うが―)。政府・自民党の予算案や法案が国会に提出された時、成立が約束された状態であることから、自民党に対抗する政党は埋没する。修正には期待できないし(五十五年体制下、自民党単独政権の時代も同様であった)、対案を出しても、審議すら期待できない(自民党が同意したもの以外は、事実上、法案と認められないのだ)。冷戦終結後の野党第1党は、かつての社会党ほど自民党との差異が大きくないから、より埋没しやすく、自らが反対する政策が実現することについての無力感、埋没を回避する必要から、必要以上に強硬な姿勢をとってしまう。

野党第1党の政策は実現しなくて当然なのだが、しかしそれでも、それを与党にぶつけ、有意義な議論がなされることで、国民に選択肢を示すことが重要なのである。与野党双方に、緊張感も生まれる。政権交代が起こる可能性が、ずっと皆無なままだと思われていては、選挙で票を集めることが難しく、野党第1党が何を掲げても、それは事実上、選択肢として機能しない。

優位政党との合意を実現させた第3党以下の政党も、もちろん埋没する。「○○党が良い政策を持っていて、その一部を自民党に呑ませた。○○党は小さいから、呑ませた政策はわずかだった。次は○○党に投票して、○○党を第1党にしよう。」という考えが有権者の多くに広がっていくということは、ほとんどない。そのような合意があったと、認識されることすら難しいのだから当然だ。そしてそのような政党は、「とにかく反自民」という票も得られない。

そのような状況では、自民党以外の党に、フラストレーションがたまらないはずがない(たまらないという議員はいるだろうが、それは自民党入りを目指しているというだけのことである)。第3党以下の場合は、それを自民党にぶつけては嫌われてしまうから、自分達よりも頭が固く、あるいは間違っているように見える、野党第1党をたたく。その野党第1党も、「みんな自民党の補完勢力だ。党内にもそのような議員がいるかも知れない、出てくるかも知れない。」と、人間不信に陥る。野党全体にも、それぞれの野党の内部でも、自民党への妥協の是非について亀裂が生じ、力が削がれる。特定の新興宗教の「出店」である公明党では、信仰心に基づく支持に支えられていることから、そのような症状が出にくかったわけだが、それでも最近、支持者(信者)の動揺が見られる。

それでは、自民党内閣の誤りを正したり、必要な改革を完遂させたりすることは期待できない。

1993年までのイタリア政治がまさにそれであった(組み換え困難な連立政治が常態化し、与党第2党以下には、日本の自民党の派閥のような面もあったと言える―与党第1党内にも派閥はあった―)。イタリアは日本と同じく、政官財の癒着、腐敗政治を、小選挙区制を取り入れる選挙制度改革などによって、乗り越えようとした。イタリアが1党優位の状況からの転換には成功している一方、日本はまだそれすら果たしていない。

日本の第2党に問題があるのと同じく、もともと自力で政権を獲得できない中小規模の政党が、消滅することもなく、一部の層の利益のみを代弁することを含めて、単一争点型に近い政党となり(公明党は福祉、維新は大阪関係、かつての次世代の党は憲法の右派的改正)、第2党の躍進を妨げることも問題だ(本来は第2党の民主党が、これらの一部と組んで、なるべく対等に近い自民党ブロック対民主党ブロックの対立を実現させるべきであった。その努力が民主党に足りなかったのは間違いないが、自民党の反対を行くことに注力せざるを得ない状況のまま時がたてば、そうするわけにもいかなくなってしまう)。そして、本来は力を弱めており、優位政党の座から降りてもおかしくはない自民党が、これらの政党の助けを借りて、地位を維持することも大問題だ。

戦後の日本の政党史は、実際にそのような歴史である。五十五年体制下、社会党は第2党であるにもかかわらず、非武装中立という理想にこだわり、例えば消費税の導入など、他の重要問題についても、自民党と反対の姿勢をとるのが常であった(それでいて、背後では自民党と取引きをし、自らの見せ場を確保し、時には自民党に少し、影響を与えていた。消費税をどんどん上げることには反対でも、消費税を全否定するのは非現実的であった)。そして第3党以下の公明党、民社党は、自民党に寄っていった(連立政権実現の可能性は低い自公民路線と、社会党の一人勝ちになりやすかった社公民路線の間で揺れていたが、自民党が社会党を中心とする野党に敗れ、参議院で過半数を割り込んだ1989年以降、キャスティングボートを握ったことで、逆に自公民路線に傾いた―ただし、一党で過半数を握っていたとは言えない―)。

自民党を出て、また戻っていった新自由クラブを含め、第3党以下には、獲得議席について、越えられない壁があった(これにはもちろん、選挙制度等の影響もある)。第2党になることすら、望めなかったのだ。

優位政党と、政権を取れずに強硬的にならざるを得ず、しかし場合によっては優位政党に、自らの政策を少し呑んでもらおうとする野党第1党と、その他の、優位政党に取り入って政策を一部実現させようとする政党の、3種類が存在する場合、互いに差異のある2つ以上の公約のパッケージの中から、1つを有権者が選択することは、とても難しい。これは大問題だが、それでも、政権を取れない大きな野党があるだけ、まだましではある。これすらなくなれば、優位政党が過半数を大きく割る可能性はさらにずっと小さくなり、他の政党は、優位政党の衛星政党のようなものになってしまう。その中で、これまで述べたことの例外である共産党が、優位政党に対抗しようとしても、それはほとんど不可能だ(そして誤りに気が付いても、自民党に対抗する勢力を育てるには、かなり長い時間が必要となる。それがつぶされる危険性も、もちろんある)。

連立の時代に入っている現在、自民党の連立相手と、自民党に寄ろうとする「野党」は、五十五年体制下の中小政党(第3党以下)以上に、自民党との取引きに前向きである。これは第3党以下の左派政党が縮小し、第3党以下の保守化が進んだ結果でもある(もちろん、ソ連の崩壊によって、米ソの代理としての左右の対立が意味を失ったことが背景にある)。しかし、自民党政治に割って入る機会が増えたとは言っても、「少しだけ割って入る」機会が増えたのであり、あるいは単に、第3党以下が自民党に似ただけであり、自民党の譲歩の幅が大きくなったとは言えない。

日本維新の会は本来、政策を直ちに実現させることをあきらめて、自民党に対抗し得る野党第1党になり、政権交代を実現させて、その政策を、満足できる形で実現させるべき政党だ。結成当初、そのような期待も受けていた。しかしそれが難しい状況となった時、維新系(日本維新の会の後継の維新の党の大阪派。同派が結成したおおさか維新の会→日本維新の会)は自民党に接近した。この接近は、大阪万博、法整備が必要であったカジノの誘致→開業を、実現へと大きく進めた。しかし、彼らの最大の目標であるはずの大阪都構想、地方分権については、自民党との協力によって前に進むという、気配は感じられない。大阪派は2015年、左派政党に接近した維新の党を脱し、おおさか維新の会(後に日本維新の会に改称)を結成した。そして、対案路線をさらに鮮明にし、とても多くの法案を提出した。しかしそれらは自民党の協力も得られず、無視されているに等しい。

公明党は消費税の増税に伴う軽減税率の導入を実現させたと言える。日本維新の会は、万博誘致などに成功した。自民党に頼めば支持者が喜ぶ。自民党に頼まなければ、政策をほとんど何も実現させることができないから、支持者が喜ばない(大阪府、大阪市の自治については別である)。もし高い理想を掲げても、自力で、あるいは他の野党と協力して政権を取ることが出来なければ、どうにもならない。民主党が頼りにならなかったということもあるだろう(みんなの党は2009年9月の首班指名投票で、民主党の鳩山代表に、一度は票を投じている)。その民主党の政権運営の失敗により、自民党が野党に転落する可能性が非常に低くなり、状況は結局改まらなかった。だからこそ、上で見た、安保法制に関する5党合意が可能となったのである。

2014年、安保政策に関して左派政党の色があった結いの党(みんなの党の離党者が結成)と合流することに反対し、日本維新の会を離党した、政界最右派の旧たちあがれ日本系が、次世代の党を結成した。同党は、日本維新の会に先駆けて自民党に寄った。次世代の党の中心人物あった石原慎太郎(代表は平沼赳夫)は、自民党と連立を組み、自民党から公明党を引きはがして、政策を実現させようとしていることを公言していた。自民党のパートナーの地位の争奪戦である(それにもかかわらず、その所属議員には公明党と連立を組んだままの自民党に入党する者が続出したのだから、結局は少しでも自民党に近付きたかっただけなのだろうと、言われても仕方がない)。

2018年12月、橋下徹元大阪市長・元大阪府知事、そして維新の会代表(大阪、日本双方)の松井大阪府知事が、菅義偉官房長官と会ったことが報じられた。そこで、大阪都構想の是非を問う住民投票について、維新の会ともめていた公明党のことも話し合われたという見方がある。仮にもし事実なら、自民党に改革を迫り、不十分であれば自民党を切り捨てるべき維新が、自民党に泣きついたことになる。これでは、自民党が許す範囲で改革をさせてもらうという存在を脱することはできないし、維新と近い安倍が総理でなくなれば、自民党に捨てられる。現に安倍総理は、おそらく、総裁選での協力を仰いだ自民党大阪府連(大阪維新の会と対立関係にあり、大阪都構想に反対)に遠慮して、この会合への出席を取りやめている。すでに兆候はあるのだ。これでは、一つの政策が実現することはまれにあっても、例えば地方分権の是非を有権者に問うことも、ましてや有権者がどちらかを選び取ることも、実質的には実現しない(民主党政権なら実現したということではない。政策のパッケージが2つ、議論の対象となり、総選挙でぶつかり合うことが大切である)。

公明党の希望が多少なりとも自民党に聞き入れられてきたのは、公明党の支持母体である創価学会員が自民党に投票する、という見返りがあるからだ。公明党は自民党にとって、衆参両院の議場で過半数(あるいは安定多数)を上回るための道具であると同時に、その前の選挙の段階で、自党の議員を増やすための道具でもある。

その公明党との連立に満足し、自由党を切り崩して捨て、公明党との選挙協力を頼り、郵政民営化反対派を党から追い出した自民党は2009年、ついに政権交代の実現を許した。自公2党対他の政党という構図になり、かつ投票率が大きく上がれば、政権交代が実現し得ることが示された。しかし民主党政権失敗の後、自民党はそれを教訓としたのか、公明党以外の味方を求めた。かつて、右の自由党より左の公明党を選んだ(2000年当時の配置)ように、今度は左の公明党より、右の維新の会を選ぼうとしている・・・ のではなく、公明党と維新の会を天秤にかけているように見える。自民党は例えばかぐや姫の如く、要求を出して、相手を選ぶ側に、半永久的に居座ることができる。そうなれば、というよりもそうなったのだから、単独でもまだまだ強い現在の自民党は、帝政ドイツの政府のようである。

ドイツ帝国には、宰相ビスマルクの改革に当初否定的であり、その後も一部について反対した保守党、基本的には時の政権(第1次世界大戦終盤を除けば皆非政党内閣)を支持した帝国党という2つの保守政党、大規模商工業者を主な支持基盤とする自由主義右派の国民自由党、中小のそれを主な支持基盤とする自由主義左派の政党(当初は進歩党を名乗っていたが、国民自由党の離党者との再編以後、名称が安定しなくなった)、帝国を主導したプロイセンを警戒するカトリックの中央党、社会(民主)主義の社会民主党、帝国に不満を持つ地域政党などが存在した。これらの政党の支持基盤は互いに異なっており、そのために主張がぶつかる事も多かったから、議会開設当初の日本のように、下院の過半数の連合体を生み出して、非政党内閣を追い詰めるということはできず、またその気もあまりなかった。このため、歴代の非政党内閣は苦労しつつも、政策ごとの多数派形成に度々成功した。そしてその分だけ、議院内閣制、民主政治からは遠ざかった。

なお、ここまでに用いた自民党という言葉は、2012年以降については「安倍自民」と言った方がしっくり来る。今後、自民党が安倍路線を変更することになるのだろうか。その可能性は低くないと思いながら、自民党内外が混乱するのではないか、それを避けようと、安倍時代の成功体験が記憶に新しくもある自民党が、変化することを控えるのではないだろうかと、筆者は思う。

さて、このような状況を改めるには、野党が一丸となって自民党に対峙する必要があるわけだが、理念や政策が、間に自民党を挟む場合もあるほどに異なる複数の政党が、無理に協力するというのも問題だ(左派陣営内の、民主党系と共産党の差異も、決して軽視はできないが)。自民党以上のぬえが誕生してしまうし(民主党自体に、すでにそのような面があった)、そもそもうまくいかないだろう。かと言って、右の極、自民党、左の極がそれぞれ第1党を目指して戦うことも、政権政党の地位の維持しか考えていないような自民党を利するだけで、状況を変えることにはつながらない。元来の1党優位制と、1名しか当選しない小選挙区制中心の制度が合わされば、優位政党か反優位政党かという争いになりやすい中で、反優位政党の票が右や左や、その中間へと分散してしまう。日本は各政党の志向を比べて投票するには、1党が強すぎる。

自民党の陣営と、それより左の野党第1党(立憲民主党)の陣営に、たとえ前者が圧倒的になっても、それぞれ近い政党、議員が集まるしかないと思う。それぞれの陣営内で政策調整をし、報道もそれを分かりやすく国民に伝える。そして総選挙で対決をする。これは政治家達と報道機関がその気になれば、できることである。そして立憲民主党の陣営はあえて、現実的な左派路線を採る。これは過去、成功しなかった方法だ。しかし事ここに至れば、誠実に誠実に、耐えて耐えて、その上で国民の支持に期待するしかない(自民党の陣営と肩を並べるくらいの)。

筆者はもう、これくらいのことしか言えない。自己嫌悪になるが、それだけ大変な状況だということでもある(今後の立憲民主党については、改めて述べたい)。

 

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