日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き(⑤⑥⑧⑨⑩)~2つの役割を巡る第3極の会派の分裂~

第3極・実業派の動き(⑤⑥⑧⑨⑩)~2つの役割を巡る第3極の会派の分裂~

第2回総選挙後の中立派は、薩長閥と民党の展望なき対立を打開し、高地価地域の地主層等が求めた地価修正を実現させる役割を担っていたといえる。前者は、権力を巡る対立を、こう着状態であった薩長閥政府対民党という構図から、政界縦断による安定性を増した政府とその支持派対、縦断に反対であるか与れない勢力、という構図に変化させるものであった。後者は、税制をめぐる対立の軸を、地租負担の維持対軽減から、地租負担の公平化を優先させることの是非へと、移動させるものであった。第3回帝国議会の開会後、その試みが本格的に始まった。

だが第2回総選挙後の中立派は、この2つの役割を果たそうとする過程で、一体性を保てなくなったのである。政界縦断に動いていた陸奥が伊藤と共に設定した政策課題(不平等条約の改正)が、第3極の多くが最重要視した課題(地価修正)と一致していなかったことも、第3極の分裂を決定的なものとした要因であったといえる。

地価修正を求める民意の実現は、この当時は挫折に終わった。一方で、政界縦断によるこう着状態の打開は、明確に緒に就いた。その理由は単純である。後者は薩長閥政府にとって有用であり、前者はそうではなかったからである。民党の勢いを前に動揺してはいたものの、行政を握る薩長閥の力はそれほどには強かった。第3極の勢力にできることは、自らを梃として大勢力を動かすことである。しかし当然ながら、大勢力が受け付けないような課題を実現することは、非常に困難である。政界縦断は、薩長閥政府にとっても、民党にとっても、不可避であった。だからこそ、伊藤、陸奥、星、土佐派が力を強めたのである。地価修正は、それが地租軽減の代替物、あるいは地租増徴とセットになったものであったならば、政界縦断と親和性の高いものとなり得た。薩長閥政府が地価修正によって地租の若干の負担軽減、あるいはセットで行う増税の分を緩和することによって、現実的になった民党の一部と接近することが可能となるからだ。しかし当時の情勢では、地価修正の要求は税負担軽減の要求と、あまりに明確に結びついていた。この状況が変わるのは、2大民党の双方が事実上の与党となる経験をした後であった。

中立会派にスポットを当てているが、地価を修正する法案を提出する動きの中心は、あくまでも自由党系の議員であった。その中心人物であった天春が自由倶楽部に属したこと、第1回総選挙後に自由倶楽部に属することとなる林有造が地価修正案を発表したことは、政界縦断と地価修正に一定の親和性があったことを示している。安良城盛昭氏は、林有造が土佐派を率いて政府与党に与し、天春文衛が土佐派の裏切りに左袒した事実を、地価修正派の政府に対する妥協的立場を象徴的に示すものだとしている(安良城盛昭「第一議会における地主議員の動向」20頁)。しかし地価修正の要求は自由党全体、その支持者を満足させるために、税負担軽減の要求と一体化し、実現の目途が立たなくなったのである。そして中立的な勢力においても、民党と同じく、利益誘導の要求と対外強硬派的な要求に取って代わられるのである。前者は積極財政志向を強めた自由党の動きが示すように、薩長閥政府に寄る動きとなり、後者は野党的な動きとなった。

政界縦断に前進が見られたこと、そこに反対派の成果であった星の一時的な失脚が重なったことで、政界縦断の担い手は、陸奥から、長州閥伊藤系と自由党の要人達へと、その比重を移した。つまり政界縦断への漸進は、中立的な勢力の手を離れていった。第3回総選挙後、第3極は政界縦断支持派・容認派と対外硬派に引き続き裂かれつつ、その様子を大きく変える。第3極は事態を動かす起爆剤とはなり得ても、その主導権を握り続けることはできない。新たな課題を発見、または過去の課題を再発見するか、あるいは再編により、大勢力における有利な地位を得る以外には、道はない。現職の議員達がそれを実現しなければ、必要な時に再度、新たな勢力が、第3極に表れるだけである。

ここで現代の第3極について、比較のために述べておきたい。衆議院と参議院のねじれによるこう着状態の打開、2大政党が果たせなかった行政改革の積極的な実行と消費税増税の回避(良し悪しは別として、すくい上げられなかった民意の実現)、この2つの役割を、菅、野田政権下の第3極は果たすことができなかった。当時、第3極の中心的存在であったみんなの党は、当時の与党に要求を呑ませて、これと組むことが出来れば捻れが解消されるにもかかわらず、その努力よりも、自由民主党との野党共闘路線を選んだ。与党が要求を呑む姿勢を見せた上で、その実現に努力しない場合、あるいは要求を呑まなかった場合、その時点で引導を渡しても、改革に消極的な与党を助けた、あるいは助けようとしたという批判を受ける危険があったためだと考えられる。ねじれの解消と政策実現を達成させた例としては、1998年から1999年にかけての公明党がある。公明党は自由民主党との連携を恒常化させて、第1極の一部になったといえる。大日本帝国憲法下の政治のこう着状態とは、衆議院にわずかな勢力しかない場合が多々あった行政府と、衆議院との「ねじれ」によるものであった。政府が参議院、あるいは与党の分裂によって衆議院か両院で過半数の支持基盤を持たないものの、国会に大きな支持勢力があり、第3極の要求を受け入れることによって、過半数の支持基盤を形成することができる場合が多い、現代とは異なっていた。だから大日本帝国憲法下では、現代ほど、こう着状態の打開と課題の実現とが一体化していなかったのだといえる。1894年3月1日の第3回総選挙は、事実上、第2次伊藤内閣寄りの勢力、つまり政界縦断支持派・同容認派と、対外硬派との戦いであった。既存の勢力は皆、このいずれかに属し、無所属は別として、中立といえる勢力は衆議院に存在しなかった。

実業団体と井角組を中立に挙げている『板垣退助君傳記』の記述(後述)、大阪派に参加した議員達に関する報道などを踏まえて整理すると、薩長閥と民党が対立する中、吏党系が薩長閥側の国民協会、大阪派を結成する議員達、中立の実業団体、井角組に分かれたと言ってよさそうだ。中立の独立倶楽部は無所属議員を巻き込んで、中立の芝集会所、民党側の紀州組と同盟倶楽部に分かれた。ただし紀州組は、伊藤系と自由党の連携を目指し、支持する勢力であった。そしてこれが実現する道が開けると、衆議院は第2次伊藤内閣寄りの自由党、紀州組、実業団体、井角組と、対外硬派の立憲改進党、国民協会、同盟倶楽部、政務調査所に分かれた。第四回帝国議会における投票行動(表②-A参照)を見ると、大阪派の議員はこの時、やや野党化しているようだ。後述する通り、対外強硬派が多かったことと関係があるのかも知れない。

『板垣退助君傳記』は、第2次伊藤内閣成立当初に関する記述であるが、国民協会、中央交渉部、無所属を「朝党側の勢力」としている(『板垣退助君傳記』第3巻389~390頁)。同著で大阪組とされている大阪派については記されていないが、国民協会(議員倶楽部)、実業団体、井角組(同著では広島組)、中央交渉部の議席数の合計93が、明らかに大阪派の議員を含んでいる『議会制度百年史院内会派編』衆議院の部26~27頁の中央交渉部所属議員の一覧における、中央交渉部の議席数90より少し多いことから、『板垣退助君傳記』の中央交渉部が大阪派を結成する議員達を含んでいることは、ほぼ確実だといえる。また、仮にそうではなかった場合、大阪派を結成する議員達は無所属に含まれているとしか考えられないから、どちらにしろ、朝党側、つまり当時の第2次伊藤内閣寄りの勢力であったということになる。第4回帝国議会における投票行動を見ると(表②-A参照)、大阪派の議員の、少なくとも一部は野党化したようだ。第3回総選挙で当選した唯一の議員、村山龍平が同総選挙後に出された上奏案について、対外硬派と同様の投票行動を採る(第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-D参照)ことなどから想像するに、対外強硬派が含まれていたことと関係があるのかも知れない。ただし、このことを以て、第3回総選挙前の実業団体全体が対外硬派の側に回ったと判断することは、もちろんできない。

大阪派については分からないことが多いが、井角組については、同様ではあるものの、中心人物であった井上角五郎に関する史料が残っており、井上の立場が明らかになっていることから、推し量ることができる。井上は大同倶楽部の出身であり、後藤象二郎の影響下にあった。薩長閥政府寄りの議員をまとめよう動いていた井上(『松方正義関係文書』第六巻286~298頁)であったが、国民協会には入らず、独自に井角組を形成した。井上は、伊藤や陸奥と同じく、選挙干渉に批判的であった後藤象二郎の影響下にあったのだから、その理由は自明である。井上が第5回帝国議会において、星議長を不信任とする上奏案について反対討論に立っていること、星を懲罰委員に付す動議に賛成しないとしたこと(『帝國議會衆議院議事速記録』七172頁)、そして議長星亨信任欠乏の動議が166対119で、議長不信任の上奏案が152対126で可決されたことなどから、当時98議席で、星をかばうことに反発して離党した議員達を除けば76名に過ぎなかった自由党だけでなく、井角組、紀州組も星議長を倒そうとすることに反対であったと考えらえる。なお、この件に関して自由党を離れた最初の1名の離党は、動議が採決された当日である。政務調査所の安部井磐根は動議の提出者であったが、神鞭知常は反対討論に立っている(なお、戦略の相違であって、安部井と対立関係となったわけではない―『帝國議會衆議院議事速記録』七4~5頁。神鞭は、安部井を「平常最モ信用シテ居ル」ものの、問題が議長の職と無関係であり、本来賛成でも反対でもないが、効果がないため反対するとした―)。対外硬派であったものの、中心人物達の賛否が一致していないのだ。無所属議員による中立会派らしいといえば、らしい。

実業団体については、所属議員中沢彦吉の、第5回帝国議会の報告『帝國議會第五議會ニ於テ衆議院解散ノ後選擧區内ノ諸君ニ報告スル趣旨』がある。中沢は第2回総選挙で東京3区から初当選し、府県監獄費国庫支弁を唱えて法律案を提出した。衆議院議員を務めたのは1期限りであった。その中沢の報告にあることを確認したい。

・実業同志会(実業団体と同じものを指すと考えてよいだろう)の諸氏と共に局外中立を保ち、星亨の除名の件について猶予すべきだと忠告し、星に自らを処することを勧告したが効果がなく遺憾。

・条約励行論は人民に気風を起こさせ外交を妨げ、条約改正に支障をきたすから反対。

・政府が奮起し、議会も内閣に信用を与えて政費節減を進めるべき。

・権利拡張問題は、その程度を争っているに過ぎない。

・実業問題の商工に関することについては、選挙制度のために農業を代表する者が多いことから、多数が冷淡。

・国の進歩発達に年々多くの政費が必要となり節減に努めても増税は不可避である。

・歳入の主位は地租だが、政治論者の言うところでは農業者は苦境にあり、中澤も収穫に限度があることから、短期での増加は難しく、商工業に税源を求める他にないと考える。

・商工業を奨励して、その進路を旺盛にすれば歳入が増える。

・実業出身ではなく、知識、経験がない投機射利を唯一の手段とする官賈竉商のために真の実業家が利源、積極的事業を壟断され、消極的事業も十分に挙行できなくなっている。

・官賈竉商の跋扈を制して、まず商工業者を富ますべき。

また中沢は、政府(第2次伊藤内閣)が実業補修学校国庫補助法案(正確には、実業補修学校に対する国庫補助を含む、「実業教育費国庫補助法案」)を提出したことを、特に器械の進歩に応じるものとして評価し、地価修正に影響が出ることをおもんばかって、同案の第2読会を延期させた地価修正派を、一部の地主の小さな利益を優先するものとして批判した。なお、法案は衆議院で審議未了となったが、第3回総選挙を挟み、次の第6回帝国議会期に成立した。以上から分かることは、本稿で実業家と定義する人々と、地主層の間に利害の相違があり、実業家は地租以外の増税に理解を示しつつ、実業振興策を求めていたということである。おそらく中立志向の実業家の議員は、個々に異なる利害はあっても、大まかには中澤と同様の立場にあったのだろう。

1893年11月30日付東京朝日新聞は、実業団体の全員が信任欠乏の動議について、反対に投じたらしいことを報じている。そして同12月14日付の同紙は、実業団体が星に辞任するように忠告した(上で見た中澤彦吉の議会報告と一致)ものの、容れられずに憤り、星を懲罰委員に付す動議について、賛成に投じる議員が数名出たと報じ、反対に投じたのが自由党、紀州組、角組(井角組)、無所属中の御用連であったとした。反対に投じた勢力は、政界縦断支持派、または同容認派であったということができる。中澤彦吉の議会報告以外に、これらの記事からも、実業団体の立場を知ることができるのである。中立的な面を備えていたと見ることができるだろう。

実業団体全体としての姿勢は分からず、そもそも明確でなかったと考えられるが、中澤の他に、生糸の貿易を中心とする大商人であった原善三郎の主張が分かる。原は訪ねてきた自由党員に、生糸輸出税全廃等に尽力するとし、党派に偏することはないとしている(1892年4月21日付東京朝日新聞)。生糸の輸出関税を廃止する法案は、第5、6回帝国議会にそれぞれ政府が提出している。前者では衆議院で可決されたものの、貴族院で審議未了となり、後者では成立した。これは第2次伊藤内閣期であるから、原が内閣寄りであったと見ることは不自然ではない。

このような商業に関する政策の実現を策す勢力としての面を、実業団体は多少なりとも持っていた。しかし他の勢力の議員も商業上の利益を代弁する法案を度々提出しており、実業団体が他の勢力との差異が明確な新勢力であったとは、やはり言い難いのである。

なお、原など、横浜の生糸商は1896年3月に、農商務省に在荷停滞に関する救済を願い出た(1896年3月27日付、4月7日付東京朝日新聞)が、閣議で容れられることはなかった(1896年5月26日付東京朝日新聞、6月11日付読売新聞)。確かめることはできていないが、当時は第2次伊藤内閣期であり、内閣または伊藤系と、営業税の国税化でも不利を被った者の少なくなかった実業派の一部との間に、溝が生じた可能性はある。

 

 

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