日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択(⑧)~憲政本党の内部分化の進行~

野党の2択(⑧)~憲政本党の内部分化の進行~

第1次西園寺内閣の軍拡、積極財政に否定的で、行政整理、公債整理を重視していた大隈は、総理(党首)を辞任する前から、改革派と対立関係にあった。改革派が主導した党大会準備委員会の、党宣言案を作り直させている。しかし政務委員と大会準備委員の協議により、新案からも軍備拡張反対の文言が削られたことで、大隈は辞任を決断したのであった。薩長閥に接近しようとする反主流派→改革派の力が強まり、指導者の大隈や、犬養ら非改革派(それまでの主流派)にも抑えられないほどになったのだと言える。憲政本党の改革派は、かつて2大政党の野党連携(民党連携)に反対し、山県-桂系への接近を志向した、対外強硬派の流れを汲んでいた。だから改革派にとっては、予算案支持は大転換ではなかった。ただしこの新路線は、当然ながら、党内における改革派の優位が維持された場合に限り、採られるものであった。少し時を下るが、1908年11月4日付の犬養毅の、荒谷圭吉(憲政本党衆議院議員)宛の書簡に、次のようにある(『犬養木堂書簡集』92頁)。

今日黨内の紛擾の原因は

(一)ハ成ㇽ可ク政府ニ接近せんが爲には一切手段を擇バず我黨の歴史主張を棄て之を遂行せんと欲する者と

(二)ハ我黨の本来の主張たる憲政完成と其他の主張を以て遂行せんと欲する者との軋轢ニ外ならず

此ノ二種潮流ハ慥に黨内ニ進路を異にする者也(此論には彼等默して答フル能ハザリシ)

表現が公平でないとは言わないが、後継の立憲国民党が真っ二つに割れるまでの憲政本党の内部は、犬養が記したような状況であったとして良いと考える。

立憲政友会と敵対することに改革派よりも消極的であった非改革派であったが、党の分裂を避けるため、郡制廃止法案に反対することを受け入れた。非改革派の要人であった犬養は、3月2日付の小橋藻三衛(後に犬養と同じ岡山県郡部選出の立憲国民党衆議院議員、犬養らの革新倶楽部結成に参加)宛の書簡において、現内閣派と前内閣派を戦わせるために同調したとしている(『犬養木堂書簡集』85~86頁。現内閣派とは第1次西園寺内閣支持派、前内閣派とは第1次桂内閣支持派である)。つまり、薩長閥-大同倶楽部から、立憲政友会を引き離そうということである(双方を戦わせて漁夫の利を得ると言うのは、当時の制度、憲政本党の力では考えにくい)。同時に、どちらの内閣も、非立憲的であることに変わりはないとして、つまり従来の改進党系の姿勢と矛盾しないように、現状を捉え直し、党の分裂を回避したのである。ただし、第1次西園寺内閣の前述した性格を考えれば、これは不自然な転換であったとは言えない。非改革派にこそ本来、立憲政友会の山県-桂系への接近を批判すべき勢力があったはずだ。薩長閥の影響下にある第1次西園寺内閣に対しては、立憲政友会より左の勢力は、本来否定的でなければおかしいのに、非改革派が自らを切って捨てた同党に寄っており、改革派が山県-桂系に寄ろうとしていたのだ。どちらも相手から重要視されていなかった点は同じだが、図⑨-Dの中段のような状況である。

 

図⑨-D 第9回総選挙後の衆議院における各勢力の位置関係

※左右の距離が近いほど、志向が近いということになる。

 

憲政本党の2派は図⑨-Dの中段を見ると分かるように、双方が立憲政友会と近かった。「近い」というのは、非改革派の場合は、その志向ではなく、両党の関係についてである。とは言っても、離れる決心がつかず、一方的に立憲政友会に寄っているような状況であった。野党的な立場を採ってはいたが、少し前まで連携していた立憲政友会との関係について、曖昧にしていたのだ。それに対して改革派は、薩長閥と接近することで立憲政友会に対抗しようとしたのであり、手法は近いからこそ、立憲政友会とは競合する。明確な対立関係にあったのである。非改革派の指導者であった犬養が、新旧両内閣を共に非立憲的だとしたことは、少なくとも表面的には新民党と同じ立場へと、図⑨-Dで記したように、より左に寄ろうとしたのだと言える。非改革派が立憲政友会との連携をあてにできるのは、立憲政友会が与党ではなく(これまで見たことから、立憲政友会が憲政本党と共に与党になろうとすることは、少なくとも原が中心人物である限り、あり得なかったと言える)、かつ自らに有利な形での薩長閥への接近が難しくなった場合に限られる。

ここで一度、姿勢があいまいであった憲政本党非改革派に、別の道があったのか考えてみたい。図⑨-Eである。

 

図⑨-E 憲政本党非改革派のもう一つの可能性

 

これは想像に過ぎないし、どちらでも、1列の関係の劣位の勢力が進む道は、ある意味同じように険しかったはずだ(大石正巳の動きは変わっていたように思われるが、憲政本党内の対立は、犬養への感情的な反発も背景にあり、これは党全体が順境に立つということでもない限り、深刻化していたと考えられる)。実際には、桂が憲政本党を土台に政党を結成しようとして、はじめて状況が大きく変わったわけだから(第10、11章、特に後者で見る)、ここでこれ以上考えることはせず、話を戻すこととする。

非改革派と改革派がほぼ対等な勢力となった憲政本党が、もしその2派に分裂すれば、議席の少ない2派は共に、党の分裂を回避した上で党内を制した場合よりも、格段に不利になるはずであった。ただし、議席数が少なく、薩長閥とのつながりもない同志研究会系しか組む相手がない状況であった非改革派の方が、当時まだ議席数が多く、薩長閥と連なる大同倶楽部と組み得る改革派よりも、さらに不利であったと言えるだろう(どんぐりの背比べであるとは言っても、憲政本党改革派と大同倶楽部が組めば100議席を超えるが、同非改革派と同士研究会系では、当時90議席強であった憲政本党よりも、議席数が減る可能性が高かった)。大同倶楽部は一枚岩ではなく、またそのことを置いておいたとしても、山県-桂系が立憲政友会を切ることができるようになるだけの議席数を、改革派と大同倶楽部の連合軍が得る見込みは、容易に立つものではなかった。一方で大同倶楽部の統一性が低いことは、非改革派が大同倶楽部の劣勢に立たずにすむ可能性を高くし、薩長閥の信頼さえ得られれば、議席のある程度の少なさは、カバーすることができた。もちろん、憲政本党が分裂すれば、衆議院における非政友会勢力の2分化(非改革派・新民党と、改革派・吏党系)が明確になり、立憲政友会がより優勢になる可能性が高かった(現在でもそうであるように、再編を機に優位政党に移ろうとする議員もいたかも知れない)。山県-桂系と組み得る改革派・大同倶楽部に、チャンスがないわけではなかった。しかし、山県が望む3党派鼎立とはなっても、立憲政友会以外の2つの勢力が組めないのであれば、議席数が多い立憲政友会は、やはり有利であった。最も不利になる非改革派が、プライドを捨てて、立憲政友会に寄ろうとすれば(実際に、憲政本党の後継の立憲国民党が、後に正式に非改革派と改革派に分裂した後、非改革派の系譜はやがて立憲政友会に合流した―第15章で見ることになる)、過半数を上回るであろう立憲政友会が、より有利になる。なお、分裂することで、つまり少数の勢力になることで犬養の力が弱まることになれば、非改革派がさらに、立憲政友会(自由党系)寄りと、猶興会(同志研究会系の新民党)寄りの議員とに分裂するという、可能性もあった。憲政本党から同志研究会の系譜に移る少数の議員が、定期的に現れていたこと(註)、後に、非改革派の流れを汲む革新倶楽部が立憲政友会に合流した時、約半数が参加しなかったことから、そう考えられるのだ。憲政本党系が最も有利になるのは、猶興会とも大同倶楽部とも組むことだ。憲政本党が分裂したとしても、その後反優位政党の大連合ができるという可能性はあった。薩長閥が、立憲政友会中心の内閣に不満を持つようになれば、その連合の力は強くなる。立憲政友会以外の議員の大部分を集めなければ過半数を超えないが、立憲政友会とだいたい同水準の議席と、薩長閥との良い関係があれば、事態は変わり得た。非改革派にとっては、薩長閥に寄り過ぎると自己矛盾になるが、犬養にすら、薩長閥に寄ろうとしたことはある(第6章⑰、1列の関係(⑰)参照)。内閣は批判を招くものであり、政権党である立憲政友会への批判が強まれば、新民党ですら、次善の策として、薩長閥、大同倶楽部との一定の協力へと舵を切ることはあり得た。非改革派と改革派が、単なる主導権争いをすることになっても、順境に立てば、連合の求心力は高まる(大政党にはそのような面があり、新民党は違うと言っても、大政党の離党者については同様かも知れない)。

さて、現実的になって右に扉を開くか、反対政党としての立場を維持して左に扉を開くか。この憲政本党の内部対立は、民進党(2016年結成)のものと類似性が高い。もちろん、この当時と現在とでは制度が異なる。当時は第2党が薩長閥と組んで与党となって、第1党が野党となるということも、予算案や法案の衆議院通過等を考えれば難しいものの、あり得た。だから非優位政党であった第2党には、チャンスがあった(現在であれば、民進党が自民党に寄ることは、野党になる可能性がさらに低くなる自民党の劣位に、自らを半ば固定することになる。つまり与党にはなれるかもしれないが、あくまでも与党第2党止まりである―自民党は、薩長閥と立憲政友会を合わせたような勢力である―)。このことを念頭に置くと、憲政本党にはチャンスがあったからこそ、与党化路線も比較的有効な選択肢となり、野党路線(徹底抗戦)との内部対立が、より深刻化したのだと考えることができる(与党化路線というのは、難しい総選挙での躍進に期待をせず、与党となることを目指す路線である―この過程で、まずは準与党になることもあり得る―)。

憲政本党の、特に非改革派の不利な状況について述べてきたが、立憲政友会と大同倶楽部が対立関係になることは、同派にとって歓迎すべきことであった。大同倶楽部と組むことが得策である改革派にとってもそうなのだが、非改革派は、大同倶楽部と反政友会連合、つまり反優位政党連合を、あるいは反対に、立憲政友会と非薩長閥連合(山県-桂系と溝の広がった立憲政友会が、非改革派と組むことで、衆議院における過半数を手にし、薩長閥と、より有利に交渉を進めようとする―立憲政友会がまた薩長閥に寄り、切り捨てられるリスクはある-)を、形成することが可能となり得る。薩長閥と立憲政友会との関係に規定されるものではあっても、非改革派が政界のキャスティングボートを握るということも、あり得たのである。

註:河野広中、坂本金弥、菊池武徳は、無名倶楽部の前に所属していた会派が、憲政本党であった。議会制度百年史院内会派編衆議院の部によれば、中西新作は同攻会の後、憲政本党に属したが、それを裏付ける史料を筆者は確認していない。いずれにせよ、その後猶興会の結成に参加している。1907年には入江武一郎、西村丹治郎、守屋此助が憲政本党から猶興会に移り、1908年12月21日に、憲政本党の佐野春五、才賀藤吉、鈴木力、村松恒一郎が又新会の結成に参加し、同月23日に、田坂初太郎が憲政本党から又新会に移っている。以上の中に、改革派であったことを確認できる議員はいない。河野広中の東北同盟会に参加していた平島松尾、愛沢寧堅は改革派であったが、それには立憲改進党出身でない非主流であったこと、対外硬派であったことも関係していると考えられる。

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