日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1党優位の傾向・(準)与党の不振(①⑦)~変わらない結果~

1党優位の傾向・(準)与党の不振(①⑦)~変わらない結果~

与党という有利な立場にあった立憲政友会は、選挙前の議席をほぼ維持した。1議席減らしはしたのだが、元が多かったし、それは前の第10回総選挙の後の、入党者によって増えたものであった。第10回と11回の総選挙の結果をと比べると、立憲政友会は187から205へと18議席多く獲得している。もちろん選挙は「党より人」で選ぶ面も大きいから、現職議員が新たに加わっていれば、その分の議席が次の選挙でも取りやすくなる。しかしその現職議員が立憲政友会に参加したのは、そのほうが政策、支持者の利益を実現させやすいからでもあり、立憲政友会に入ったからこそ、第11回総選挙でも票を集められたという面もあるだろう。立憲政友会にはこの第11回総選挙後にも新たな入党者があり、総選挙後初の第29回帝国議会開院当日には、同党は過半数を20議席以上、上回っていた。

第2党の立憲国民党は5議席増やしたものの、その後少し減っているし、立憲政友会と同じく、総選挙前と同水準であったとして良いだろう。この改進党系は第10回総選挙後に再編で議席を増やしている。上述の通り立憲政友会も、総選挙後の入党者で議席を増やしていた。しかしそれが基本的には個々の議員の入党であったのに対して、改進党系は、憲政本党全体と、又新会と戊申倶楽部のそれぞれ一部が合流するという、より本格的な再編であった(戊申俱楽部からの参加は少数であったが、戊申倶楽部の有力議員が複数含まれていた)。だからそうやって結成された立憲国民党の選挙結果を、いくら同党の前身だからと言って、第10回総選挙における憲政本党の獲得議席と比較する事には無理がある(それでもあえて比較すれば、70から91へと、21議席増えている)。

桂から西園寺立憲政友会総裁への政権の禅譲(第2次西園寺内閣の成立)がすでに、立憲国民党を不利にするものであった。この禅譲によって、少なくとも立憲政友会が有利になったことは間違いないからだ(与党として政策等の実現への期待を得られる事と、総選挙を管轄する内務大臣を出す事で、非常に有利になる)。この影響が立憲国民党以上に深刻であったのが吏党系の中央倶楽部だ。同派は前身の大同倶楽部に続いて、2回連続野党として総選挙を迎える事となった(中央倶楽部が山県-桂系であるにもかかわらず、桂内閣の下で総選挙を戦わせてもらえなかった事について、第10章実業派の動き野党再編(⑩)1列の関係(準)与党の不振(⑫、補足~貴族院会派~)参照)。山県-桂系から本格的な支援を受けた様子もないのだから、この、再度の政党化すらまだ果たせていなかった(帝国党は政党であったが、その後継の大同倶楽部も、さらにその後継の中央倶楽部も、政党とする事が避けられた)吏党系が、第10回総選挙後の再編によって無所属の当選者等を加えて増やした分を、失うレベルの敗北を喫することは、不思議なことではなかった(補足すると、立憲政友会も政党であることを宣言して結成されたわけではなかったが、組織の面でも自他の認識の面でも、中央倶楽部よりもずっと政党的であった)。そもそも吏党系は第10回総選挙でも、再編(吏党系の帝国党が自由党、甲辰倶楽部、有志会の議員と合流して大同倶楽部を結成)によって増やした議席を、ほぼ全て失うような減少をしている。

無所属の当選者は、第10回総選挙には及ばないものの、非常に多くなった。この多さはしかし、旧又新会系、それに近い当選者達が無所属扱いとなっている事によるところが大きい。

こうして見ると、主要な3党派は皆、第10回総選挙後の再編や入党者によって議席を増やしていたが、吏党系の中央倶楽部だけが、それを失ったのだと言える。それをより詳しく見る。以下は第10回総選挙後の、中央俱楽部の衆議院議員の一覧である。第11回総選挙に当選している者には「○」を、落選している者(※)には「△」を、第11回総選挙前に中央倶楽部を離れた者には「✕」を付した。政党の遍歴については、今回比較する上で必要な、第11回総選挙前後以外については、基本的に省略し、必要だと思うものだけを記した。第11回総選挙に立候補(立候補制ではなかったので事実上の立候補)、当選しておらず、第12回総選挙以後に当選している議員については、必要に応じて「⑫当選」(第12回総選挙の場合)と記した。

※当時は立候補制ではなかったが、一定の票を得ているという事は、本人に再選される意思があったと考えられるので、そのような落選者を「△」とした(票数は『大日本政戦記録史』を見た)。

 

大同倶楽部系

○安達謙蔵   帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○荒川五郎   帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○石田孝吉   帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○大野亀三郎  帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・岡井藤之丞  帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部

・岡崎運兵衛  帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選

・福留清四郎  帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部

○山田珠一   帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・川越進    自由党→大同倶楽部→中央倶楽部

・松元剛吉   自由党→大同倶楽部→中央倶楽部 ⑬当選→維新会

○浅羽靖    有志会→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○小河源一 甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

✕久保伊一郎甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部

・鈴木総兵衛甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部

○矢島浦太郎甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

△山根正次 甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選→維新会

○松家徳二 立憲政友会→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

△柴四朗   憲政本党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選

△竹内正志 政交倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部 ※改進党系出身

△堀江覚治 中正倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部

・内野延        大同倶楽部→中央倶楽部

・小野崎耕夫      大同倶楽部→中央倶楽部

○奥田柳蔵       大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・木村義賢       大同倶楽部→中央倶楽部

・紫垣一雄       大同倶楽部→中央倶楽部

○須藤嘉吉       大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○松下軍治       大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○守山又三       大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

戊申倶楽部系

△加治壽衛吉大同倶楽部→戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選

・小橋栄太郎大同倶楽部→戊申倶楽部→中央倶楽部

○肥田景之  国民協会→戊申倶楽部→中央倶楽部→無所属団→維新会

△江間俊一 立憲政友会→戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選

・中村弥六 中立倶楽部→戊申倶楽部→中央倶楽部

・牧野平五郎中正倶楽部→戊申倶楽部→中央倶楽部

・石田平吉       戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選

○木村艮        戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

△木村省吾       戊申倶楽部→中央倶楽部

△斎藤巳三郎      戊申倶楽部→中央倶楽部 ⑭当選→憲政会

✕清水市太郎      戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲政友会

・鈴木久五郎      戊申倶楽部→中央倶楽部

・千早正次郎      戊申倶楽部→中央倶楽部

✕中村豊次郎      戊申倶楽部→中央倶楽部

○中安信三郎      戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

✕丸山孝一郎      戊申倶楽部→中央倶楽部

✕○村田虎次郎     戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲政友会→政友倶楽部→亦政会

○森田俊左久      戊申倶楽部→中央倶楽部→無所属団→立憲政友会

・八束可海       戊申倶楽部→中央倶楽部

又新会系

△浅野陽吉         又新会→中央倶楽部→立憲同志会 ⑫当選

△近江谷栄次        又新会→中央倶楽部

無所属から

○井阪光暉(立憲同志会不参加)   中央倶楽部→立憲政友会

○阪本弥一郎            中央倶楽部→立憲同志会

・永野静雄             中央倶楽部

・森肇         立憲政友会→中央倶楽部

結成後の加盟者

○安東敏之       戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

△森秀次  甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部 ⑫当選→憲政会

 

大同倶楽部系の中の、帝国党出身者の多くが第10、11回総選挙に連続当選している事が分かる。大同倶楽部については、帝国党出身者が他の党派の出身者と違って、大同倶楽部意外への参加、異動がない事も合わせて見るべきだ(第6回総選挙後の帝国党結成当初は例外で、立憲政友会の結成に参加する議員が出た)。連続当選は具体的には8名中5名であり、残る3名のうちの1人も、第12回総選挙に当選し、この5名と同じく立憲同志会(桂新党)に参加している。

中央倶楽部における大同倶楽部系の連続当選は他に、自由党出身が2名0、有志会出身が全1名、甲辰倶楽部出身が5名中2名(他の3名中1名が第12回総選挙に当選し、立憲同志会にも参加している)だ。これはもちろん少ないとは言えないが、サンプル数があまりに少ない。サンプルとなり得る議員が少ないのは、これらの会派出身の議員がそもそもあまり多くないか(大同倶楽部に参加していない議員も少なくない)、第10回総選挙の段階ですでに再選が少ない事もある(結成時の議席数が比較的多かった甲辰倶楽部は、前者にはあまり該当しないが)。

なお、ここまでに挙げた連続当選をしている議員達は全員立憲同志会に参加している。大同倶楽部系は合計で28名中13名が連続当選、その13名全員が立憲同志会に参加している(他の15名中3名が後に衆院選に当選して、立憲同志会にも参加している。さらに他に、結成後の中央俱楽部参加者には、甲辰倶楽部→大同倶楽部の出身で、第12回総選挙で当選し、立憲同志会にも参加する議員が1名いる)。

対して戊申倶楽部系は、全19名中連続当選は5名だけで、そのうち1名は、中央倶楽部を離脱して第11回総選挙を迎えている(他の14名中4名が後に当選し、立憲同志会やその後継の憲政会に参加している。さらに他に、結成後の中央俱楽部参加者には、戊申倶楽部の出身で第12回総選挙で当選し、立憲同志会にも参加する議員が1名いる)。立憲同志会への参加も、5名中2名だけだ(この2名と、第12回総選挙で当選する3名―もっと後の当選で憲政会参加を加えると4名―、結成後の中央倶楽部に加盟した1名)。

次に、立候補したものの落選した前議員を見ると、帝国党出身者は少ない。ただしこれについては、立候補の意思のある者が皆当選したと捉える事もできる。8名中5名が再選しており、3名は再選される意思がなかった。この事をどう捉えるべきか難しいところだが、現在の政党でも、これくらいの割合で引退者が出る事は、あり得ないわけではない(割合としては高いとは言えるが)。それに立候補しなかった3名も、第10回総選挙よりも前に一度は当選している事は確かだ(当選した選挙を見ると岡井は⑧⑨⑩、岡崎は①②⑦⑧⑩⑫⑬、福留は⑨⑩)。他も合わせて見ると、立候補したものの落選した議員には大同俱楽部系か、あるいは戊申倶楽部系でも、それ以前に政党に属していた議員が多い。

以上からどのような事が言えるだろうか。そこまで明確な傾向はないとしても、次の事は言えるだろう。帝国党は丸ごと大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会に参加し、その中で核のようなものであった(戊申俱楽部の中の官僚派と呼ばれた勢力は中央倶楽部ではあまり表面化していない。中央倶楽部に参加していない議員もいると思われるし、「核」とはし得ないと思う。いずれ確かめてみたい)。吏党系と合流した中立的な会派の議員は、吏党系の議員と比べ、次の総選挙で当選しようという志向が弱かった。

だから吏党系の再編による議席の増加は、一時的なものに終わっていたのである(準与党として選挙を戦えなかった影響も当然あるとしても)。だからと言って、選挙の度に、新たに当選してきた無所属議員(による会派)と合流するわけにはいかない。しかも第11回総選挙における無所属の当選者は、むしろ旧又新会系と共に、同志会という会派を結成するのである(立憲同志会の事ではない。吏党系が衆議院の最右派なら、又新会系―筆者が新民党として分類している同志研究会系―は議会の最左派である)。

次に反対に、第11回総選挙後の中央倶楽部の議員を振り返ってみる。第10回総選挙に当選しているのは返り咲きと初当選以外の議員達である。第13回総選挙の当選者に「○」を、立候補したものの落選した議員(上と同じように確認した)には「△」付した。政党の遍歴については上と同じく、今回比較する上で必要な、第11回総選挙前後以外については、基本的に省略し、必要だと思うものだけを記した。そこに含まれる無所属団は2つとも、立憲同志会の前身の会派としての無所属団の結成には加わったものの、立憲同志会には参加していない例である。

大同倶楽部系(13名)

○安達謙蔵    帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○荒川五郎    帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○石田孝吉    帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・大野亀三郎   帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○山田珠一    帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・浅羽靖     有志会→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○小河源一  甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○矢島浦太郎 甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・松家徳二  立憲政友会→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○奥田柳蔵        大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○須藤嘉吉        大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・松下軍治        大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・守山又三        大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

戊申倶楽部系(4名)

○肥田景之   国民協会→戊申倶楽部→中央倶楽部→公友倶楽部→維新会

・木村艮         戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

△中安信三郎       戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・森田俊左久       戊申倶楽部→中央倶楽部→無所属団→立憲政友会

無所属から(1名)

△阪本弥一郎             中央倶楽部→立憲同志会

結成後の加盟者(2名)

○安東敏之        戊申倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

○矢島八郎(当選は②⑪⑫) 国民協会→中央倶楽部→立憲同志会

返り咲き(4名)

・原田赳城    帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・松村時次          帝国党→中央倶楽部→立憲同志会

・七里清介  甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会

・中辰之助  山下倶楽部→立憲政友会→中央倶楽部→無所属団

初当選(以下の9名―延べ10名―。江副、桑原、八坂、山田以外は立憲同志会の結成に参加)

○井手三郎、岩崎安治郎、江副靖臣(立憲政友会から移動。中央倶楽部解散後は無所属)、○加賀卯之吉(繰り上げ当選)、△桑原伊十郎(元年11月辞職※)、○高橋久次郎、平井熊三郎(⑪後加盟)、八坂甚八(2年5月辞職―立憲同志会前身の無所属団所属時―)、△山田禎三郎(⑪後加盟。2年5月辞職―立憲同志会前身の無所属団所属時―)、渡辺国重、※繰り上げ当選の山道襄一が中央倶楽部→立憲同志会)

第10回総選挙でも当選している議員は、34名(繰り上げ当選の1名、総選挙後に加わった4名―無所属当選の3名、立憲政友会から移った1名を含む)中20名だ。そのうち13名が大同倶楽部系、その13名中5名が帝国党の出身だ(戊申倶楽部系の連続当選者4名の中に、帝国党の前身の国民協会の出身者が1名いる)。第10回総選挙で当選していない中央倶楽部の議員を見ると、13(延べ14)名のうち9(延べ10)名が初当選、3名が吏党系の出身(ただし1名は大同倶楽部の前は甲辰倶楽部)だ。

大同倶楽部が結成される以前に会派に属している議員(大同倶楽部出身者でなくても)15名のうち9名が、吏党系の国民協会→帝国党の出身であり、2名を除いて立憲同志会の結成に参加している事も合わせて考えると、やはり上で述べた事が該当すると考えられる。それを確認するには、第12回総選挙に出馬しているかどうかを見る事も有用だろう。立候補して当選した議員は14名で、うち8名が大同倶楽部系(そのうちの4名が帝国党出身。半数であり、大同倶楽部結成時の帝国党出身者の割合を考えれば多いと言える)、2名が戊申倶楽部系で、そのうちの1名を含む2名が、国民協会(帝国党の前進)出身である。そして3名が、第11回総選挙が初当選の議員達だ。立候補したものの落選したのは4名で、うち1名が戊申俱楽部系、1名が無所属からの参加者、2名が第11回総選挙が初当選の議員達だ。吏党系の立候補・当選が多く、つまりやはり、上で述べた事と一致する。

最後に、筆者は無所属の当選者を、各党派の内部のどの勢力が擁立したのか、あるいは積極的に支持したのか、確認していない。これが分かれば、ここで述べた傾向について、より明確な事が言えるようになるかもしれない。

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