日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
2大民党制(⑤)~野党としての優位政党~

2大民党制(⑤)~野党としての優位政党~

優位政党であった立憲政友会は、野党になった場合に、動揺することがあった。優位政党が野党になることは、本来は非常にまれなことである(そもそも優位政党の地位を失うことを意味するはずだ)が、当時の日本の制度では、起こり得ることであった(薩長閥を一つの政党と見るのなら、立憲政友会を優位政党とは呼べないが)。その、野党となった優位政党を敵に回すことは、内閣にとって大きなリスクを伴う行為であった。ただし、衆議院の解散によって多数派の変更を見込める場合と、優位政党の切り崩しが可能な場合は別である。当時の立憲政友会は、山県-桂系という、(少数の帝国党を別とすれば)軍人や官僚の地位にあるために、完全に下野することはない勢力による切り崩しを受けていた。野党となった動揺に、つけ込まれたのだと言える。立憲政友会は確かに、衆議院で過半数を上回っていたから、その党勢を維持することができれば、憲政本党に頼ることなく、予算案や法案の衆議院通過を楯に、第1次桂内閣と渡り合うこともできた。しかし、優位政党としては当然、政権復帰を果たしたい。山県-桂系を敵に回すことは、野党色を強めてその可能性を低めることを意味した。かつての薩長閥と民党の展望のない対立が再現される危険性、憲政本党が山県-桂系に寄ると共に、立憲政友会が山県-桂系に切り崩される危険性を、高める選択であった。また、仮に政権を得ても、貴族院に手を焼く可能性を高めるリスクがあった。立憲政友会の憲政本党との連携は、野党的な立場となった同党の、地租増徴継続への躊躇、軍拡とそれ以外の積極財政の両立が困難な経済状況、第1次桂内閣に対する存在の誇示が生んだ、一時的なものであったと言える。憲政本党と野党共闘を組めば、衆議院において野党が圧倒的多数となり、党内の桂寄りの議員、野党的な議員の造反も意味をなさなくなる。だから憲政本党と連携することは、立憲政友会の影響力を強めるために、有効であった。一方で、即時の政権奪還が叶わない状況下、第1次桂内閣と妥協することは、党内の非主流派、薩長閥への接近に否定的な議員達の反発を招くリスクもあった。実際に立憲政友会からは多数の離党者が出る(第8章④等-具体的には同補足-参照)。しかしこのような党内の亀裂は、消極財政(低負担)を最重要視する勢力と、対外強硬派の中心的な勢力との連合体であった憲政本党の抱える亀裂ほど、深刻なものではなかった(そもそも前者は民党、新民党であり、後者は中立派であった)。立憲政友会は自由党系らしく、薩長閥への接近と野党路線を使い分け、党内の不平派を排出しながらも、分裂による減少を可能な限り抑え、再起することに成功することとなるのである。なお、立憲政友会革新派は、党内の民主化を主張しながら、立憲政友会に比して、議院内閣制から遠いという点で非民主的な、山県-桂系に切り崩されたことになる。このような矛盾は、帝国党が右の極、後の革新派の離党者が左の極を形成し、優位政党の地位を維持する立憲政友会の議会運営と政権を、双方が共に批判し、双方が接近することで、やがて解消され、それこそが、自由党系(立憲政友会)に対抗し得る新党(桂新党≒立憲同志会→憲政会→立憲民政党)の誕生の、土台となるのである(第9章~第11章で見る)。

 

 

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