2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振(⑤)~順境にあったはずの吏党系~

立憲政友会の執行部は、山県-桂系との内通を疑って、革新運動を起こしていた議員の一部を除名した。総選挙後の除名者には、立憲政友会の執行部よりも、山県-桂系の姿勢に近い面があった対露強硬派の、板倉中がいた(板倉は後にも、陸軍増師に賛成し、反対の同党を離党する―第11、12章で見る―)。つまり革新運動は、単なる総裁専制に対する反発ではなく、山県-桂系と、伊藤系・自由党系への分化(前者による後者の切り崩し)であることはもちろん、外国に対する姿勢の相違による、再編の可能性を持つものでもあった。立憲政友会は、この除名により、総選挙前に過半数をわずかとはいえ下回ったのだし、山県-桂系にしてみれば、立憲政友会の革新運動は、衆議院における彼らの支持基盤を再編・拡大する機会であった。しかし山県-桂系は、切り崩しはしたものの、再編には乗り出さず、伊藤(立憲政友会)との、「薩長閥内部の妥協」という面もある、方針を採った。これはリスクが低く、現実的なものであったと言える。同時に、立憲政友会を頼り続けなければならなくなるという、リスクのあるものであった。彼らは衆議院において支持基盤を拡大する機会を、またもや逃したのだと言うこともできる。そんな状況では、山県-桂寄りの勢力と憲政本党との接近はとても難しく、山県の3党鼎立構想(第4章(準)与党の不振野党に対する懐柔、切崩し(⑤⑪⑫⑭)『補論』⑰参照)は、山県系が、2大政党のいずれとも組み得る点で、双方をけん制するというものではなく、立憲政友会を提携相手とすることを定め、その上で、同党の過半数獲得を阻止することも含め、その影響力強化を抑えるというものにならざるを得ない。これでは、順境にあったはずの、山県-桂系の吏党系(国民協会→帝国党)は、刷新による勢力拡大に失敗した(第6章補足~吏党刷新、帝国党への道~参照)上に、展望を見出すことも難しかった。