1.政権交代論

野党と組むぞという脅し

五十五年体制下の、自民党には、派閥間の対立に敗れ、あるいは非主流派から脱せず、自分の派閥ごと自民党を去ろうとした、あるいはそれをうわさされた大物議員がいた。河野一郎、三木武夫、福田赳夫である。そしてこれを実現し、五十五年体制を終わらせる「政権交代」につなげたのが小沢一郎である。

自民党が万年与党、他が万年野党である場合、双方は正確な意味ではライバルではない。万年野党は自民党政治を監視したり、まれに少しの修正に成功する、補完勢力でしかない。そうであれば、自民党を離党した一つの派閥が、野党と組むことも考えられるのである。共産党を除外しても衆議院の過半数を上回るのならば、ひとまずは成功し、離党した派閥の領袖は、総理大臣になることが出来る。そうなるといううわさもあった。

三木武夫は自民党の最左派であり、河野は終戦直後、間もなく日本社会党を結成する、戦前の社会大衆党系と合流しようとしていた。福田赳夫は岸信介の派閥を継いでいたが、その岸は、社会党に入ろうとして拒まれている。社会党は確かに、自民党の離党者が組む相手としては、左に寄り過ぎていた。しかし政権担当の能力、経験に乏しいからこそ、自民党の離党者は、自分達よりも大きな社会党と組んでも、非自民連立のトップになることが出来るのである。長期政権は難しいかもしれないが、一度天下を取るという目的は果たせるし、自民党の再分裂を誘うこともできるかもしれない。これを実現させたのも小沢一郎であるが、傲慢な姿勢が、その効果を限定的なものとした。

五十五年体制下にも、成功はしなかったものの、実際に野党を巻き込んだ政局はあった。大平内閣期、自民党内が真っ二つに割れた時、大平総理は公明党、民社党、新自由クラブを与党にしようとした。中曽根内閣期、自民党の鈴木派、福田派、三木派、公明党、民社党が田中派の二階堂進を総理にしようとした。これらは日の目を見なかったわけだが、自民党で不満のある勢力が、野党と組もうとするということは、かなり頻繁にあったわけである。三木と福田は、そのような噂が立った後で、実際に自民党総裁、内閣総理大臣になっている。

小沢らの離党が自民党の下野を招いた後にも、そのようなことが相変わらずあった。自民党は社会党、新党さきがけと組むことで与党に戻り、後に総理のポストも奪還、総選挙で第2党の新進党に勝利、同党からの議員の引き抜きによって、衆議院の過半数を回復した。こうして、優位政党の地位を取り戻す(長期的に見れば維持する)と、自民党内は自社さ派と保保派(社さ両党やそこから生まれた民主党ではなく、新進党との連立を志向する)とに分かれていった。ほとんど全ての派閥が、規模の大小はあれども双方に割れた。自民党が余裕を取り戻し、主導権争いが再び活発になったのだと言って良いだろう。自民党内の最左派であり、最も社さ両党に近かったはずの河野洋平、社会党との合流すら唱えていた亀井静香が保保派の陣営にあったことが、権力闘争の面が大きかったことを示している(河野は宮沢派の後継争いで、加藤紘一に敗れ、宮沢派を去っていた)。ただし、他党に左右される動きであったことは、自民党がまだ完全に復活したとまでは言えない状況であったためだと、言うこともできる。

結局保保派は政争に敗れた。小沢一郎が新進党を解党して結成した自由党、新進党に加わっていた公明党との連立は、自社さ派の最大の実力者となっていた、野中広務の主導で進められた。社さ両党が連立を離脱し、自民党が参院で過半数を大きく下回る選挙結果が出たとは言え、政策が軸の争いなら、こんなことは起こらないはずだ。

2012年の自民党総裁選はひどいものであった。野党転落直後の総裁選には谷垣禎一を除き、大物の議員は立候補しなかった。その後、民主党の自滅という面が大きかったとは言っても、谷垣総裁は、間もなく総選挙に勝利し、自民党が与党に戻ると予想されるところまで、同党を率いてきた。それが、与党に戻れそうになったと見るや、立候補する大物がうようよ現れた。

この総裁選を制したのが、安倍晋三であった。第1次安倍内閣の終わり方から、安倍に懐疑的な声は少なくはなく、地方票では300票のうち87票しか得られなかった(石破は165票)。しかし議員票では54票を得て、34票の石破を上回った(1位は石原伸晃の58票、全候補の合計は197票)。当時安倍は、自民党が野田民主党内閣と、社会保障費に充てるために消費税を引き上げる合意をしたことに、反対の立場であった。また、大阪維新の会を結成し、国政政党結成の準備をしていた橋下徹大阪市長と会っていた。所属派閥からの票もあり(安倍は最大派閥の町村派に属していたが、領袖の町村信孝も立候補していた)、消費税引き上げ等に否定的な安倍の姿勢が、自民党の少なくない議員の支持を得たのだろうが、総裁選に敗れれば、安倍が橋下の党に合流する(橋下が安倍を党首に担ぐ)という見方があった。以下は筆者の想像に過ぎないが、それを回避するため、安倍に投じた自民党の議員がいたのではないだろうかと、思うのだ。このような、分裂回避のための投票行動があったという見方は、末期の新進党、民進党についてもされている。

考えてみれば、小泉純一郎も、2001年の総裁選に出馬した時、そのようなことがうわさされ、総裁選を勝ち抜いて総理大臣となった後も、自民党が改革に抵抗するなら、改革を支持する野党と組むということが、うわさされた。これは、政治改革、行政改革によって党首の力、総理大臣の力が強くなっていたことと共に、小泉に自民党を従わせる、大きな力となっていたと、筆者は見ている(なお、野党も様子見せざるを得なくなり、力を弱めた)。

このような力を使って政策を実現させることについて、悪いことだとまでは言えない。しかし、とある改革を進めようとするA党と、これに反対の、または別のプランを持つB党から、有権者が選択をするということにはならず、結局政局で決まってしまうという点では、やはり問題だ。小泉は郵政解散で有権者に信を問うたが、その当時、民主党は政権をとっていなかったので、郵政民営化などの小泉改革に賛成か反対かという対決は、自民党万年与党体制か、民主党への政権交代か、という争点に邪魔をされた部分がある。自民党には郵政民営化に反対であっても、万年与党を離れたくないという思いの議員もいたし、民主党には郵政民営化に賛成の議員が少なからずいたにもかかわらず、反対せざるを得なかった(自民党に対抗する都合上、そして郵便局員の労組の支援を受けている都合上)。なお、もっと重要な争点があったはずだということは、ここでは置いておく。

最後に、自民党はほとんどの場合、結局はまとまるのだから、野党は自民党の分裂に期待をしても、踊らされて捨てられるだけである。このことを覚えておくことも重要だ(民進党は希望の党の乗っ取りには成功したが、小池に馬鹿にされ、踊らされることで、その支持率は壊滅的なまでに減じた)。