日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
2. 明治、大正期の第3極①~立憲政友会結成以前~

2. 明治、大正期の第3極①~立憲政友会結成以前~

明治、大正期には、その後と同様、中、小規模の、有名だとはいえない政党、院内会派が多く登場する。そこで論を進める前に、明治、大正期の第3極の大まかな歩みを確認しておきたい。ここでは分析はせず、再編の過程、各勢力の立場を、あくまでも確認するに留める。早速見ていきたい。

帝国議会の開設が決まると、薩長閥政府に対抗しようとする板垣退助らが自由党を、大隈重信らが立憲改進党を結成、薩長閥政府支持の福地源一郎らが立憲帝政党を結成、政府は超然主義を採り、立憲帝政党に解散を求め、同党は解党された。自由党は激化事件の影響によって解党、立憲改進党からは大隈らが離れた。井上馨の自治党構想は薩長閥内で支持を広げられず、頓挫した。

民党(旧自由党系3派、立憲改進党、九州連合同志会)が過半数を得た第1回総選挙(1890年7月)の後、旧自由党系、九州同志会(九州連合同志会が改称)が立憲自由党を結成、立憲改進党はこれに加わらなかった。薩長閥政府支持派等の非民党勢力は、院内会派として大成会を結成した。旧大同倶楽部系(後藤象二郎系)の議員の一部は立憲自由党を脱して、国民自由党を結成した。予算案の審議の過程において、立憲自由党からは薩長閥政府と妥協しようとする議員達が離党、その多くは自由倶楽部を結成し、一部は大成会の多く、国民自由党等と社交団体として協同倶楽部を結成した。大成会の協同倶楽部不参加者が、同会と協同倶楽部に両属する議員達に、どちらか一方の専属となるよう要求し、大成会専属を選択する議員が続出したことで、協同倶楽部は崩壊した。その影響を受けて大成会から民党寄りの巴倶楽部、中立の独立倶楽部が分裂した。低地価地域である東北地方の選挙区から選出された議員の一部が、東北同盟会を結成した。立憲自由党は自由倶楽部に寄るような党改革を行って、自由党と改称、自由倶楽部の大部分が自由党に合流した。

選挙干渉等の影響もあって民党、薩長閥政府支持派の双方が過半数に届かない状況となった第2回総選挙(1892年2月)の後、薩長閥政府支持派等が中央交渉部を、さらにその一部が国民協会を結成した。独立倶楽部は再結成され、うち和歌山県内選出の陸奥系が選挙干渉を弾劾する民党の上奏案に賛成してこれを離脱、同時期に地価修正派も溜池倶楽部を結成し、事実上離脱した。そしてさらなる再編を経て、独立倶楽部と無所属の一部は、中立の芝集会所、民党寄りの同盟倶楽部、和歌山県内選出の紀州組に整理された。芝集会所は、東北地方の議員の一部による中立会派であった東北同志会の系譜と、京都府内選出の対外強硬派の議員とが合流した会派であった有楽組と合流し、政務調査所を結成した。薩長閥対民党の対立構図が、選挙干渉に批判的であった有力者達が中心となった第2次伊藤内閣の成立、同内閣の自由党との接近によって、内閣寄りの自由党と紀州組に、立憲改進党、国民協会、同盟倶楽部、政務調査所が挑戦する構図となっていった。後者は対外硬派として、衆議院の過半数を上回る規模のまとまりを見せた。自由党からは薩長閥政府への接近に否定的な議員達が離党し、彼らは同志倶楽部を結成した。

第3回総選挙(1894年3月)における国民協会の大敗によって、対外硬派は過半数を割った。うち同盟倶楽部と同志倶楽部(註1)は、合流して立憲革新党を結成した。自由党も過半数に届かなかったため、中立派はキャスティングボートを握った。しかしまとまることはなく、第2次伊藤内閣寄りの中立倶楽部と対外硬派寄りの独立倶楽部、湖月派という3つの会派が分立した。また、立憲改進党の会派に留まりながら、互いに溝のある対外硬派を、自由党に対抗し、薩長閥政府が無視し得ないような大政党にするために中国改進党を結成した犬養毅(五百旗頭馨『大隈重信と政党政治 複数政党制の起源 明治十四年-大正三年』206-207頁)が、同じく岡山県内の選出であった立憲改進党、無所属の議員と、中国進歩党を結成した。

日清戦争下に行われた第4回総選挙(1894年9月)の後、実業家等の無所属議員の一部が、旧大日本協会の流れを汲む対外硬派の会派、大手倶楽部を結成したことで、対外硬派は再び衆議院の過半数を上回った。三国干渉を受けた遼東半島の還付が、挙国一致的な風潮を壊し、新たに衆議院に進出した帝国財政革新会を含む対外硬派が合流して、進歩党を結成した。しかし国民協会全体、立憲革新党の一部と大手倶楽部の多くは加わらなかった。国民協会は時の第2次伊藤内閣に寄り、他の進歩党不参加者、伊藤系との接近に反発して自由党を離党した議員達が、中立の議員倶楽部を結成した。また、第2次伊藤内閣または自由党寄りの実業家の議員達が実業団体を結成した。第2次伊藤内閣は自由党、実業団体、国民協会の事実上の支持を得たが、自由党の指導者であった板垣を閣内に取り込んだことで、国民協会の動揺を招いた。さらに進歩党とも提携しようとしたことで自由党の反発を招き、総辞職するに至った。

次に成立した第2次松方内閣は、すでに接近をしていた薩摩閥と進歩党の連携を基礎とする内閣であり、大隈重信の入閣によって進歩党は事実上の与党となった。議員倶楽部は同内閣を支持し、実業団体の一部と旧大手倶楽部系の一部が、同内閣の戦後経営を支持する(註2)実業同志倶楽部を結成した。実業団体の他の一部は日曜会を結成した。第2次松方内閣はさらに国民協会と自由党を切り崩し、前者の離党者が結成した国民倶楽部、後者の離党者が結成した新自由党に議員倶楽部を合わせた会派、公同会を結成させた。しかし進歩党が政権を離脱、公同会も動揺し、衆議院において、公同会を脱した新自由党、そして進歩党を離党した鹿児島県内選出議員と公同会内の鹿児島県内選出議員くらいしか政府支持派が存在しないような状況となり、自由党との連携も、同党の九州派等の賛同は得たものの、土佐派等の反対で流れた。こうして内閣は総辞職を余儀なくされた。この間、自由党の河野広中が薩長閥に接近することの限界を指摘して離党、東北同盟会を結成した。進歩党からは、薩長閥への盲従と猟官運動を批判した議員達が離党して、同志会を結成した。

第5回総選挙(1898年3月)は第3次伊藤内閣の下で行われた。総選挙前後の自由党、進歩党との交渉が決裂したため、同内閣は衆議院において、無所属の一部を除けば国民協会の支持しか得られなかった。地租増徴を果たせなかった伊藤は、政権が敢えて、自由党と進歩党が合流した憲政党に渡るようにした。また伊藤はこの当時、地価修正派、実業派、国民協会等による政府党の結成を策したものの、成功しなかった。衆議院には実業派と地価修正派等によって、山下倶楽部が結成されていた。また鹿児島県内選出の全議員(鹿児島政友会)、東北同盟会、新自由党によって、同志倶楽部も結成されていた。同志倶楽部は憲政党の結成に参加した。山下倶楽部は中立的であったが、内閣が地価修正に積極的でなかったために野党的な立場を採り、その一部は憲政党の結成に参加した。

初めて民党による内閣の下で行われた第6回総選挙(1898年8月)では、憲政党が圧勝した。しかし第1次大隈内閣は、自由党系による、憲政党の解散と、進歩党系などを除いた再結成によって崩壊した。憲政党を名乗れなくなった旧進歩党系等は、憲政本党を名乗った。鹿児島県内選出議員達は間もなく、憲政本党を離党した。旧山下倶楽部系は中立の同志倶楽部を結成、さらに日吉倶楽部と改称した。

復活した薩長閥政権、第2次山県内閣は、憲政党、国民協会、鹿児島県内選出議員を衆議院における支持基盤とした。国民協会等は新たに帝国党を結成した。第2次山県内閣と憲政党の星亨らは、地租増徴実現のため、憲政党内の地租増徴反対派の懐柔、憲政本党、日吉倶楽部の切り崩しを策し、成功、地租増徴、地価修正を実現させた。憲政本党を離党した地価修正派は、議員同志倶楽部を結成した。

その後、第2次山県内閣に対する不満を強めた憲政党は内閣支持を取り止め、伊藤系、そして他の政党、会派のそれぞれ一部と立憲政友会を結成、間もなく第4次伊藤内閣の成立を実現させた。

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