日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
終わった三つの物語

終わった三つの物語

今回の総選挙の結果を見て、筆者は3つの大きな物語の終わりが、一度に訪れたように感じた。時代が大きく変わったと、自分は完全に古い人間になったのかと、衝撃を受けた。

3つの物語とは、1つは1993年からの、小沢一郎の物語である。小沢がいなかったら、1993年の自民党の分裂・過半数割れはなかっただろう。それでも、いつかは大きな変化が起こったのかも知れないが、冷戦終結後の政権交代の物語は半ば、小沢一郎という一人の人物の物語であった。その小沢が小選挙区で初めて落選した(比例で復活当選)。

もちろん小沢一人に全てかかっているわけではないし、小沢の影はすでに薄くなっていた。今回は高齢の候補が軒並み苦戦したという面もあり、また岩手県内における、階猛との対立(改めて扱いたいと思う)も災いしたのかも知れない。しかし小沢の結果を見た上で周囲に目をやると、小沢と共に自民党を出た、羽田孜や岡田克也の長野県、三重県でも、民主党系は後退している。分裂した民主党系を大方復元し、社民党までかなり吸収した、枝野の手腕は評価できる。しかし共産党と連合の顔を共にうまく立てる事は出来なかった。やはり小沢ほどの力はない(小沢が突出していると言うべきだし、その小沢には、自民党の優位派閥の出身であるという「ブランド力」があった)。1強多弱がむしろ深刻化する中で、事態を打開するような政治家がいるだろうか。今後、「野党幼稚園」から現れるだろうか、そう思うと途方に暮れる。野党幼稚園の先生でもある国民が、ますます試される。

2つ目の物語は、「野党がまとまれば自民党に勝てる」というものだ。ただし筆者は、これは正しいと考えている。実際に野党が全てまとまれば、国民も覚悟すると思う。すぐに政権交代とはいかなくても、2回くらいで実現すると思う。その可能性が高いと言われるようになれば、投票率も上がると思う(筆者の愚痴でもあるが、負けるとほぼ分かっていながら選挙に行って、票を入れ続けるのはなかなか辛い)。

ではなぜ、この物語を「終わった」とするのか。それは、野党が全てまとまることなど、ないと実感したからである。まとまったとしても、「それに対する不満票を少しもらって、比例で議席を得られるかも知れない。」という政党は現れるだろう。そうなれば票が割れる。現状そのような政党を、国民が拒むとも思えない。

最後は、安倍内閣の安保法制に反対するものとして集結、協力した野党の物語だ(本当に反対だったり、単に展望を開くためであったり、議員たちの思惑が完全に一致していたわけではないのだろうが)。これも終わったのだろう。国民民主党も抜けてしまった。

筆者は集団的自衛権には賛成なのだが、反対であったとしても、もう成立してから時間が経っており、次の総選挙で立憲等が政権を取っても、修正すら極端に難しいと思う。辺野古の事もそうだが、日本の左派らしさを捨てるのではなくても、現実的かつ新しい、ビジョンは必要だ。

政党間の対等な競争、そして癒着・利益誘導政治の打破、格差、少なくとも貧困の解消、この難題の解決へと私達を導くような物語は、今後生まれるのだろうか。あるいはもう始まっているのだろうか。それとも物語などというものに頼らず、ひたすら一つ一つの判断で、合理的に解決できるの事なのだろうか。まだ分からない。

※最後の一つについては「優位政党に振り回される、政権を狙う野党第1党の限界」でも触れる。

 

落選させたたかった寝返り議員、そして世襲は続々当選・・・→

 

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