日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
後からは何とでも言えることを前提に、謙虚で客観的な敗因分析を

後からは何とでも言えることを前提に、謙虚で客観的な敗因分析を

批判を覚悟で言わなければならないのは、選挙の敗因など、後からならいくらでも言えるということだ。問題点を挙げたところで、それには反対の面もある。選挙前になされた選択について、メリットとデメリットのどちらが大きいかなど、事前にはっきり分かるはずがない。分かるのなら苦労はしない。

実例を挙げれば、共産党との共闘、その中でも共産党に寄り過ぎた、譲歩し過ぎたという事、それから減税に関する政策である。共産党に関してはすでに述べた。減税については、立憲民主党は、共に時限的なものとして、消費税の5%への減税、年収1千万円までの所得税免除を公約にした。それ以前には積極財政に慎重な面もあり(国民民主党-というよりも同党の玉木代表-の方が積極的であった)、それを批判する人々もいた。ところが総選挙の直前、一気に税負担を軽減する姿勢を明確にした。筆者は政権構想(共産党との限定的な閣外協力)と同じで、打ち出すのが遅すぎて、理解・支持を広げる時間が足りなかったのだと思う。だがそれとは別に、選挙で負ければ、「なんでも負担を軽くしたり、ばらまけばいいと言う話ではない」というような批判、「(選挙にあまり行かない)貧困層の方ばかり見すぎだ」という批判が広がる。しかしコロナ禍でダメージを受けた人は多く、また、コロナ以前から低迷していた経済を活性化させるため、このような政策の必要性を認める人も少なくない(格差拡大、貧困の問題もある)。どちらが正しいかはもちろん、どちらが選挙に有利かなど、なかなか分かるものではない。

2017年の総選後には、「立憲民主党と希望の党が、別々に自民党と戦い、競合した事が敗北を招いた」という見解を多く聞いた(立憲は希望の民進党出身者の選挙区には、候補者を立てていない。立憲や希望の民進党出身者は、以前からの立候補予定者であり、基本的に競合はしない。競合したのは、希望の党の小池系の候補、小池側に選挙区を移動させられた民進党出身者と、立憲民主党の議員・候補である)。しかし総選挙直前の、立憲の躍進が予想された時は別として、メディアは民主党系(当時は民進党)を「オワコン」のように扱ていた。安倍自民と小池希望の対決を、特に小池系に注目しながら、演出していた。メディア(の多く)は、小池側が民進党を吸収して、自民党と渡り合うようになる事を望んでいたのかも知れない。しかし「民進党と希望の党が選挙協力をしなければ」という危機感よりも、【希望の党の結成→民進党の希望の党への合流の決定→民進党の一部の排除→立憲民主党の結成】を面白がって追っていた面の方が大きいと思う。自民党の大勝が分かり切っているため、他に関心が移っていたようにも感じられた。

安倍自民は当時、国民の支持をかなり失っていたから、野党にはチャンスであった。そもそも安倍総理(当時)は、離党者も出ていて、代表選では無効票が8票もでるなど、民進党がボロボロになる中(岡田代表時代は復調の傾向も見られたから、蓮舫前代表の二重国籍問題と小池ブームが重なったのが、決定的であったと考えられる)、さらに幹事長内定が報じられていた山尾志桜里に不倫疑惑が持ち上がったことで、衆議院を解散したと疑われる(実際の口実は消費税増税分の教育無償化等への使途変更、北朝鮮への対応について信を問う事)。

この安倍の意図はかなり見透かされていたから、民進党は最悪の状況を脱し、希望の党さえなければ議席を維持、微増させることもあり得た(「微増」とするのは、民主党系の議席が、再編によって増えていたため。選挙区当選者ばかりであれば、意地はひっかう的容易だが、小選挙区で勝てる議員が少なく、比例が中心であった。民主党と維新の党に投じられた比例票を全て、民進党が得るのは難しかった)。しかし小池・希望の党があまりに注目されたため、民進党は埋没の危機にさらされ、希望の党への合流を決定した。しかし小池は全員を受け入れず、特に左派を排除する姿勢を見せた。そこで枝野が立憲民主党を結成した。

国民の期待を集めるには至らず、小池の野心ばかりが目立った希望の党は、すぐに失速した(その経緯、筆者の考えについては『政権交代論』「民進党の分裂について」参照)。同時に立憲ブームが起こった。しかし「ブーム」とは言っても、そこまで強いものではなかったし、もとが15議席では限界があった。という事で自民党がまた大勝した。しかし希望の党も粘り(※)、立憲、希望両党の比例票の合計が、自民党を上回った。このことから、民進党(の左派)と小池系が相容れないという事も前提にした「民進党色が感じられれば希望の党は支持を失う」というものから、「一緒に戦っていれば良かったのに」というものに、報道の傾向が変わった。例外はあるだろうが、明らかに選挙結果を見て変わったのである(選挙期間中はその間くらいのスタンスであったのだろうが、中立性も重視されるから表れにくい)。

※ 議席を減らしたと言えるし、ブームがしぼむ前を考えるとあまりに物足りない結果であったため、報道で大敗扱いされたのは無理もない。しかし、小池人気で得た比例票は少なくないと思われる。希望の比例票の大半を占めているかも知れない。

 

そして今回の総選挙の後では、一転して、安易に野党同士組むのではなく、独自性を発揮した方が良いと言われる(国民民主党の主張がそのまま報じられているという面が大きいとは言え)。立憲、共産両党についてはもちろんだが、国民民主党、維新の会が立憲と一線を画したことで評価されている。「共産党とさらに近くなった立憲」というのが前提にされているが、そのような面もあるとしても、前回(2017年)の総選挙の時に、自公ブロック、希維ブロック、立共ブロックの3極構造になったと報じられている。立憲、共産両党は、すでに一つの塊として扱われていたのだ。

それに今回の総選挙の前までは、小選挙区で野党の一本化が当然であるように報じられ、それと明確に一線を画していた維新の会は、すでに2019年の参院選で躍進しており、同党の吉村大阪知事については多く報道されているのに、選挙に関しては半ば無視するような報道が多かった。すべてそうであったとは言えないが、明らかに結果を見て、メディアは姿勢、主張を変えている。現状を受けて報道しているというよりも、後で、誰が見ても分かるようになってから気づいたことを、最初から分かっていたかのように装っているものが多いと感じる。

もし維新の会という政党が存在していなかった場合、今回の総選挙で、旧立憲と希望の票を合わせた分の票を、新立憲は得られていただろうか。旧希望票が棄権、立憲、自民に分かれていた事は想像がつくが、問題はその比率である。それに今、維新を無いものと仮定したが、1対1の構図になったところで、「どちらもだめだ!」と言うのはかっこ良く見えるから、そう言って参戦する政党は、例えそれが選挙制度を半ば無視することになっても、出て来るだろう。「希望さえ出てこなければ」、「維新さえ存在しなければ」というのはよく分かるが、自分に甘くなってしまうし、そもそも嘆いたところで、変わらない事なのである。

そんなことを言っているのなら、選挙制度を変えることを主張した方が良い(国民投票で否決されたが、小選挙区制のイギリスにおいて、かつて2大政党の一方でありながら没落した自由党→自由民主党は、過半数に届かなかった保守党に連立を求められた際、選挙制度改正の国民投票を条件とした。なお、自由党は小選挙区制でありながら労働党に取って代わられたが、それは産業構造の変化と普通選挙による。普通選挙にすれば、数が多い労働者の政党が第1、2党クラスになるのは当然で、欧米では基本的にそうなっている)。

もし選挙制度を変えない、または変えられないと判断するのであれば、「維新が伸びるくらいなら自民が勝つほうがまし」と考えるべきではないと思う。仮に維新が問題の多い、問題の深刻な政党であるとしても、そして、国会が保守政党ばかりになるとしても、1党優位を崩すことを最優先にすべきだと、筆者は考えている。

話を戻したい。同じ人物が発言を180度変えるのはあまりに安易だが、異なる人物の分析、主張を紹介して、同じメディアがまるで違う報道をするというのも同じようなものだ。

今回の共産党との共闘についてもそうである。メディアでは明らかに選挙前(直前は別として)共産党も含めた候補者統一を肯定的に報じていた。確かに、その矛盾についても触れてはいた。しかしそれをしなければ勝てないと言うのが大前提であった。ところが選挙後、共闘がまずかったという。それどころか、諸悪の根源のような扱いだ。終戦の前後で姿勢を180度変えたのが日本のメディアだから、おかしいと思う方がおかしいのかも知れないが、せめて一般の国民には、このおかしさを受け止めて欲しいと思ってしまう。

筆者は、「立憲と希望がまとまっていたら2017年の総選挙に勝てていた」という見方、その延長にある、(旧)立憲と(旧)国民が一つになれば勝てるという見方について、半信半疑であった。小選挙区についてはだいたいその通りだと思っていたが、比例代表制の部分は、立憲人気と小池人気という、異なるものだと考えていた。「異なる」というのはもちろん、自民党には否定的であっても、前者は左派・社民、後者は右派・保守だということだ。これを合わせることは不可能ではないと思うが、合流しては離れる票も出るし、別々に選挙を戦って、その後協力するとしても、小池と別れる形になった希望の党→国民民主党に、希望の党の比例票を引き継げるはずがないと思っていた。

それは2019年の参院選で、すぐに証明されたはずである(国民民主党が希望の党より小さくなったために支持を失った、という事は考えにくい。希望の党→国民党は民進党と合流し、参議院においては、ずっと3議席であった希望の党よりも、かなり大きくなっていた)。さらに、維新の会が存在しているのだから、繰り返すのは実際にはもっと難しいと考えていた。立憲と希望の主張が多くの分野で食い違うなら、維新はそこを追求したであろう(なお、筆者は『続・政権交代論』でコロナ禍の前から、維新を高く評価しつつ、きれいごとで政権交代の定着を遠ざける勢力だと、警戒していた。政権交代の定着こそ、政党と国民を共に、真に成長させる前提だと考えるからだ)。

異なる主張をする政党が、既成政党を倒して、それぞれの政策を半分でも実現するために組むというのはあり得る。しかし国民の理解を得るのは難しい(どちらも国政で評価されているわけでもなければ、なおさらだ)。

最後に、選挙等の結果を分析、総括する事は非常に重要だ。ではなぜ、「後からは何とでも言える」と述べたのかというと、冷静に分析することが重要であり、その結果得た自分の考えを、謙虚に示す必要があると考えるからだ。それをしないと、感情的で独善的な者同士の対立が起こってしまう。その結果、党は「AがだめならB」、そして「BがだめならC」、「違うやっぱりAだったんだ」と、迷走する。

反対に、「誰が何と言おうともAしかない」というのも少し極端だ。いろいろ試すのは悪い事ではない。しかし左右に振るたびに反対の議員、支持者がポロポロこぼれ落ちていては、党勢拡大に水を差すことになる。政党とは国民を啓蒙するものでもあるから、自らを過信しない程度に、【選挙で負けたくらいでは揺るがない信念】を持っている事も重要である。敗け続ければその政党は弱くなっていく。説得されても国民が変わらないのなら、民主主義国であるから、その選挙結果を受けた国になる(国のままである)。決めるのは国民だ。そしてその国民の決定を批判し、議論するのも重要。そういう事だ。

いつも思う事だが、そこに狙いがあるとしても、素直に「負けた」と言える点で、維新の会は優れている。一方で今回も、明らかに立憲の議席が10以上減る状況になっても、枝野代表は負けを認めなかった。想定外だったのかも知れないし、自分の路線が間違いだったと、すぐには認められない事が、単純に悪いわけではない。いつまでも認められないのさすがにどうかと思うが、誰が間違ているのかなど、そもそも分からない。国民が間違う事も当然ある。国民の出した選挙結果を批判すべきでないという人がたまにいて驚かされるが、そういう人は、なぜ民主政でも権力を分散させるのか、分かっていないのだろう。ともかく、自分が正しいと信じているのに結果が出ない時は、とりあえず努力不足だったと詫びれば良いと思う。それから考えれば良いのだ。

 

しかし2019年の参院選の総括は不十分だった→

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