桂の内大臣就任については2つの見方がある。一つは、山県が、山県-桂系の宮中での影響力を強める狙いから、実現させた人事だという見方である(桂の内大臣就任によって、山県-桂系の力が強まる事、桂と関係が良く、つまり山県-桂系とのパイプを持っていた原敬の、立憲政友会内での影響力が強まる事が考えられた。原の影響力は当時低下していたが、それについては第10章群雄割拠(⑬⑭)参照)。もう一つは、桂との間の溝が広がった山県が、桂を政治から離れた宮中に閉じ込め、寺内を自派の総理候補にしようとしたという見方である。桂は初めて総理になった頃から、世代交代を画策していた(山県から桂への世代交代。これは立憲政友会における伊藤から西園寺への世代交代に対応するものでもあった。まさに桂園時代という事だ)。一方山県の方は、その兆候に警戒心、反感を抱いていたし、桂と原(西園寺が率いる立憲政友会の最大の実力者)の関係も、警戒していたと考えられる。それは桂が伊藤博文のように、政党を認めるようになり、自らも政党を結成するようになるという事に、つながり得る(実際につながった)もので、政党に否定的な山県が警戒するのは当然の事であった。
1912年10月、桂は元帥への任命を辞退した。元帥は軍人の最高位であったが、生涯現役の軍人という扱いになり、制度上それでは政党員になれなかった(もちろん政党を直接率いる事もできない)。この任命の背景にも、桂を警戒していた山県の意図があった可能性がある。そうであったなら、桂の内大臣就任に同様の意図があったと考えるのが自然である。実際に桂は元帥も辞退したし、政界に戻ろうと画策した。