日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
これを政権交代と呼べるのか

これを政権交代と呼べるのか

こんなに自民党が強いと、野党はどうしようもない。そこで見られるのが、与党の離党者と野党が組んで政権を代えるという現象である。これもまれなケースではあるのだが、ほとんど起こり得ない政権交代を起こすための方法として、ずっと期待もされてきたものである。

このような現象の実例は、なんと言っても1993年の細川内閣である。社会、公明、民社、社民連という既存の野党と、新生党、新党さきがけという自民党から分かれてできた政党などが組んで、自民党から政権を奪取した(この内閣の総理大臣となった日本新党の細川護熙代表も、かつて自民党田中派の参議院議員であった)。しかしこのような現象は、明治時代の、帝国議会開設当初から見られる。実は歴史のあるものである。与党の離党者に依存せざるを得なかったのが、この約130年間の、日本の野党なのである。

日本で初めて結成された本格的な政党といえば、板垣退助らの自由党と、大隈重信らの立憲改進党である。この2党は議会開設当初、政権を独占する長州閥と薩摩閥の、藩閥政府(薩長閥政府)と対立していた。

今と似てはいないだろうか。板垣も大隈も、明治政府(藩閥政府)の離脱者である。彼らはそれぞれ土佐藩と肥前藩の出身で、政権を離れる前、政権内で長州閥と薩摩閥に押されていた。彼らの下野により、明治政府は、明確に薩長閥政府になったのだといえる。

戦前に優位政党の地位にあった立憲政友会は、板垣の自由党の系譜と、薩長閥の実力者であった伊藤博文(長州閥)らが、合流したものであった。そして立憲政友会結成の後、同党以外で初めて政権を得た政党であったといえる立憲同志会は、長州閥の実力者であった桂太郎らと、立憲改進党の系譜の約半数の衆議院議員、そして第3党以下の議員達の多くが結成した政党であった(ただし正式に結成された時には桂は死去していた)。

立憲政友会の1党優位の状況を崩したのは、立憲政友会自体の分裂であった。同党に対抗する政党として、同党と交代で政権を担った立憲民政党は、立憲同志会の後継の憲政会と、その立憲政友会の離党者達による政友本党が合流したものであった。その前後の状況を見ても、この合流が無ければ、立憲政友会が優位政党の地位を取り戻していた可能性が高いと思われる。大分裂で優位政党の地位を失った立憲政友会の、再起のための手段の1つが、長州閥の陸軍人、田中義一を党首に迎えたことであった。2017年、民進党が希望の党に合流し、小池を党首に担ごうとしたのと似ている面もある。なお、再起のためのもう1つの手段は、政友本党の離党者を復党させたことである。

こうして戦前は2大政党が対等になったのだが、戦後再び自由党の系譜が優位に立つと、戦前の第2党(改進党系)の流れを汲む、戦後の日本進歩党の系譜は、自由党系の離党者と合流することで、ようやく衆議院において自由党を上回り、政権を奪取することに成功した(日本民主党の結成)。この間、日本でも初めて社会(民主)主義政党が政権を獲得したが、第1党であっても過半数には遠く及ばず、民主党(戦前の改進党系→戦後の日本進歩党系)等との連立政権となった。自社さ連立のようなものである。

それから間もなく五十五年体制に入り、それを終わらせたのが、細川内閣の成立に至る動きであった。その約15年後、民主党は政権を得た。細川内閣、民主党が支持を得られた要因に、政権運営の経験がある、かつて自民党に属していた議員達(特に小沢一郎)を吸収したことがあると言われてきた。既存の野党に、自民党の離党者が結成した新党が加わって初めて、1993年の政権交代(細川内閣の成立)は国民の支持を得て、自民党の出身者を多数吸収して初めて、民主党は国民に広く期待をされたということである。

いつも優位にある勢力の、いわば「天下り」によって、これと対抗する勢力は生まれ、強化されてきた。それだけ、非優位政党が経験を積めない状況にあるということである。このような歴史が、民進党の前原代表を、小池新党への合流に走らせたと言っても、大げさではないと思う。

それでうまくいけばいいじゃないかという意見はあり得る。だが、五十五年体制崩壊後に限れば、細川内閣、民主党内閣、希望の党はうまくはいっていない。1955年頃までについて言えば、政党内閣、議院内閣制を定着させるための、試行錯誤の期間であったということはできるだろう。しかし今もまだ、その期間を抜け出せないでいるという言い訳は情けないし、苦しい。無駄に同じことを繰り返そうとしているからである。

優位政党の離党者に頼る傾向は、野党第1党を他力本願にしてしまう。野党第1党が他力本願になるというのは、優位政党(自民党)の調子が良い時には、とにかくその足を引っ張ろうと必死になる野党第1党が、優位政党(自民党)の調子が悪い時にすら、自らの力で政権を奪えるとは考えず、それが分裂することに期待をするということである。そして万が一、自民党の分裂を見ることが出来た場合にも、次の展開を、その離党者達に委ねてしまうことである。いわゆる「加藤の乱」が良い例である。

2000年、森内閣が不人気であったにもかかわらず、自民党に勝てるとは考えていなかった民主党の鳩山由紀夫代表は、選挙中から自民党の加藤紘一に秋波を送り、加藤はついに野党の内閣不信任案に賛成する構えを見せた。この時野党は、自民党の加藤派と山崎派が自民党から出て、彼らと連立政権を組むことを期待した。細川内閣の再来を目指したのである。加藤派と山崎派が自民党を出れば、野党の総理大臣候補は加藤となっていたであろう。加藤が鳩山で良いと思ったとしても、派の議員達を無事に離党させ、まとまりを維持するには、それくらいのことが必要であったはずだ。

このことには、総選挙で民主党が自公連合に対して勝機を見いだせなかった点で、同情の余地もある。当時は、地方の古いタイプの有権者が自民党を支持し、変化を望む無党派層が政権交代を期待していたという、分断があった。そして投票率が低かったために、創価学会員を含めた古いタイプの有権者の、組織票を持つ自公両党が勝利したということができる(以前述べた、都市部への定数の配分が少なめな、「一票の格差」もこれを助けた)。だから無党派層からすれば、「1990年代以降みんなが自民党政治からの変化を望んでいるのに、なぜいつも自民党が第1党になるんだ?」というようなフラストレーションがあったといえる。もちろん、民主党の努力が不足していたということもあった。しかし他の先進国であれば、自民党が分裂などしなくても、政権交代が実現していた局面であっただろう。

もう1つ、問題点がある。野党第1党の陣営に自民党の議員が流れ込むことで、その構成が不自然なものとなることである。野党の性格、主張が分かりにくくなるという問題なのだが、一度くらいは良いのかも知れない。社民党の離党者達と、自民党の離党者を多く含む新党さきがけの離党者達による民主党の結成は、離党者が多数派となったために、社会党の古い体質をある程度断ち切ることに成功した例となった(前にも述べたが、イギリスの労働党などは、このような再編なしで、それを実現した)。しかし、そこにどんどん自民党の離党者が入れば、そもそも何を目指していたのか分からなくなる。

自民党の離党者と合流することで、野党第1党は自民党に似た政党になり、自民党Aと自民党Bのどちらを選ぶのかという不毛な選択を、有権者が強いられることなる。と、否定的に描いたが、これは保守2大政党制を良しとするかどうかという問題でもあり、それについては改めて述べる。

河野一郎、福田赳夫は、なかなか総裁になれない時、自民党を派閥ごと離れることを考えていたようである。中道の三木武夫についても、そのような可能性があったといえる。離党後は、展望を開くには野党と組むしかない。小沢一郎による非自民連立内閣の実現、加藤の乱の失敗には、このような前史があるのだ。また自民党が大平総理支持派と福田赳夫支持派に二分された時、大平は野党の一部と連立を組むことを考えた。これでは野党は「天下り先」ですらなく、自民党の有力者の、補完勢力の待機組である。しかし五十五年体制下の野党には、それでも与党になりたいと思う政党があった。公明、民社両党の二階堂擁立工作への関与が示す所である(二階堂擁立工作とは、田中派の支持を得ていた中曽根総理に対抗して、福田派や鈴木派(鈴木善行が死去した大平の次の派閥領袖になっていた宏池会)が同じ自民党の二階堂進を総理大臣にしようとした動きである)。

 

野党と組むぞという脅し→

 

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