日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
自民党は現代の政党ではない

自民党は現代の政党ではない

議会政治を「輸入」したものの、政党を育てる文化がない日本では、組織政党と呼べるものが、宗教団体を基盤とする公明党と、社会主義の共産党しかない。これでは、形だけ民主主義を移植した国を笑えない。与野党に文句を言いながら、「お上」に従うだけになってしまう。

そんなことだから、N国党のような、SNSの時代に身近に感じ取ることのできる政党が、完全にゼロから、同国の進出を果たしたのである。今までのような組織政党(大衆政党)の時代ではなくなってくるのだとしても、それを一度もまともに経験していないのでは問題だ。それを別の経験や工夫でフォローできているようにも思えない。日本の政治そのものだと言える自民党は、その地位を守るため、面倒な問題、特に政官財の癒着にひびが入るような問題を、先送りにして来た(支持団体の支持を失うような改革については、利益団体には、自民党が何をしても自民党しか頼れないという面もあるから、多少の事はできた)。簡単ではないからこそ、常に真剣に向き合わなければならない問題を、先送りにしてきた。

自民党は現代の政党ではないと言うと、次のことを思い浮かべる人が多いだろう。自民党は所属議員個人の後援会に依るところが大きく、党の組織は強くない。個々の議員に、選挙区の人々や各種団体が希望を出し、支持をする。小選挙区制が導入されてからは、党首や幹事長といった党執行部の力が増したが、根本的には変わっていない。相変わらず、政策中心とは言い難い派閥政治だ。だから引退する議員の後継は、なるべくその議員に近い人物が良く、後継でもめるようなことがあっては困る。そしてもちろん後継が落選してしまえば、選挙区民、各種団体と、優位政党とのパイプは細る。派閥の人数も減る。そのため、その議員の子供たちの中で、政治家になりたいという者、しぶしぶ引き受けた者が、後を継ぐのである。彼らに社会経験がある場合でも、それは、「超名家」のお坊ちゃま、お嬢様としてちやほやされる、気をつかわれる経験であることが多い。あるいは本格的な社会経験すらなく、親の秘書を経て議員になる。こうして「貴族政治」が定着する。

だが、ここでいう現代の政党ではないというのは、その利益誘導政治が、政治的に未熟な国家の、前近代的な政党のようであるという点だ。先進国の政党ではないと言っても良い。

それはどこからやって来たのかと言えば、社会主義、社会民主主義以外の全政党が、利益誘導に長けた自由党系を中心に集まってできたということにつきる。「社会民主主義以外」ということなら、「この連合体、つまり自民党に、社民系の政党が対峙する形になるから良いのでは?」とも思える。オーストラリアでは20世紀初めにも、保守派と自由派が合流したが、社民系との2大政党制に近いものになっている(『他国の政党、政党史』「オーストラリア」参照)。しかし次に述べる通り、日本の社民系はあまりに弱かった。そしてもう一つ、社民系と組み得るような中道政党(協同主義系等)はほぼ全て、自民党に入っている。社会党系の再右派に属していたが自由党系に移り、自民党の総裁・総理大臣になった鈴木善幸という人物もいる。

社民系がなぜ弱かったかと言えば、戦前に弾圧を受け、戦争、戦時体制に対してもより否定的であった左派~最左派が、社会党系の中で力を持ったからである。欧米では社会主義→社会民主主義政党は、最左派を切り離してもなお、第1、2党になり得たが、産業、社会の発展について遅れていた日本では、そうはいかなかった。そもそも、社民系を含む左派政党は、戦前はほとんど議席を得ていなかった(例外は、あるとしても第20回総選挙の18議席、第21回総選挙の37議席。いずれも社会大衆党で、他の左派勢力と合わせても、定数466の1割にも届くことはなかった)。

このことを考えると、戦前の全政党が自民党になっていると言っても過言ではない。もちろんそこには、戦前の小党や無所属の議員達の多くも含まれている。

日本では上から人工的に近代化が進められたから、議会政治の習得も困難であった。欧米も、全体として見れば長い時間をかけて身に付けたのだから、日本はまだ時間が足りないのだと言えない事もない(それにしても、「そろそろ・・・」とは思うが)。

当初、国力の弱い日本に選択の幅があまりなかったこと(これは明治期だけでなく、第2次大戦終戦後にも当てはまる)、藩閥と政党(藩閥政府を辞めている党首クラスを地主層が支える構図)の権力を巡る戦いが中心であったこと、その結果、藩閥と政党が融合するような再編も起こったことが、政党間の違いを分かりにくくした。

対立軸を見ると、議院内閣制の是非があったと言えるが、それは制度そのものというより、どちらが権力を握るか(握り続けるか)というものであった。政策としては、当初は税収の大部分を占めていた、地租の上げ下げがあったが、その地租が地価で決まるものであったため、米価が上がると地主層にとって大きな負担ではなくなり、彼らの関心はインフラ整備などに移った。こうして利益誘導政治がもたらされた。自由党系より弱かった改進党系は、自由党系に反対するため、そして他の原因もあり、緊縮路線の傾向が強かった。この点については、2大政党の志向に一定の差異が、やや安定的に見られた。

欧米(この場合は欧州と言った方が良いかも知れないが)では、国王や貴族の側の保守政党に、ブルジョワが中心の自由派の政党がまずは挑戦した。しかし日本では、帝国議会開設当初から、衆議院においては藩閥(薩長閥)、つまり保守派が弱く(藩閥を保守派とすることなどについては『補論』⑥「他国との比較」参照)、早期にほぼ消滅した。その流れは2大政党(自由党系と改進党系)に吸収された。日本では自由派(自由党系と改進党系)、とくに自由党系が、保守派の役割も担うようになったのだと言える。

日本で戦後なぜ、社会党右派を含む中道勢力の結集が、度々模索されながらも実現しなかったのか。その背景には、社会党右派と近いのが、自由党系か、改進党系か(※)、よく分からない事もあったと言える。「よく分からない」というのは、時期や政界全体の影響によって、変化したからである。

※この双方が戦前の2大政党であり、戦後55年体制が成立するまでの10年間は、自由党系優位の時期、社会党が分裂していた時期が長いが、これらと社会党系が3大政党であるとも言えた。

 

経済的には改進党系(日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党→日本民主党)が、政府が介入することに肯定的であるという点で、社会党に近く、国防に関しては、再軍備、憲法改正に消極的な自由党系(日本自由党→民主自由党→自由党)が社会党に近かった(社会党に近いと言っても、その左派とは一致し得なかった)。

この特殊な保守2党、つまり自由党系と改進党系の間の差異すら、一定の期間で区切って見れば固まっているようには見えるものの、何かあれば入れかわるものであった(これは明治期からそうであった。アメリカでも共和党と民主党が入れかわるような変化を見せたが、これは、アメリカにおける南北間の溝や世界恐慌が重なったことによる、長い移行期間を伴うものであった―『他国の政党、政党史』「アメリカ」参照―。そして何より、非常にまれな例である)。

そのような差異の不安定な日本の2つの大政党が、さらに一つになったのが自民党なのである。一つになった後は、合流前の政党、かつて存在した政党を、各派閥が継ぐような形となった。しかしそれらは理念や政策を重視するものではなく、人間関係や利益の共有による集まりとなった。それに基づく離合集散や議員の行き来もあった。

 

日本の国政選挙は、1強2弱の状況下での、結果の決まっている「人気投票」→

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