日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~

補足~離党者が続出した立憲政友会と、対外強硬派の動き~

桂・伊藤合意が表ざたになる少し前の4月中旬から、立憲政友会では、総裁専制を改めるような党の組織改革を求めて、革新運動が起こっていた(以前より、桂が伊藤と妥協しようとしていることが伝えられてはいたが、伊藤が受け入れないという見方があり、合意することが明確になっていたわけではなかった)。大阪で集まった立憲政友会員約60名が執行部を批判する檄文を発した(『日本歴史体系』四近代一1018頁)。その一部はさらに4月14日、次の建議書を本部に送った。後者の衆議院議員は小川平吉と井上八重喜だけであった(『立憲政友會史』第1巻217-218頁)。

一、役員ハ總て公選となす事

一、總務委員の數を減じて三名となす事

一、重要の問題ハ總て衆議を以て決定する事

しかし、この「一揆党」の動きは、板倉中、龍野周一郎、持田若佐、前衆議院議員の石塚重平が立憲政友会から除名されると、勢いを弱めた(1903年4月24日付読売新聞)。桂-伊藤合意は、第8回総選挙後初の帝国議会である、第18回帝国議会が召集された5月8日より前、4月下旬に明るみに出た。すると憲政本党だけでなく、立憲政友会の内部からも反発する声が上がった。地租増徴の回避を評価する声よりも、総裁個人の、そして憲政本党にとっては立憲政友会全体のものとも捉えられる抜駆けを、問題視したのである。4月25日、立憲政友会の総務委員達が、桂・伊藤合意を承認した。5月24日には、立憲政友会の議員総会でも合意が了承された。そして第1次桂内閣は地租増徴継続案(ただ継続とする案から、5%のままの市街宅地以外は、3.3%から3%に下げることとされた―1899年の増税前は双方2.5%―)を撤回した。桂は第7、8回総選挙において一定の干渉をすることで、立憲政友会内に、野党的な立場を採る執行部に対して、批判的な議員を増やしていた。立憲政友会内の桂・伊藤合意に対する反発に配慮して、伊藤は同党の組織を改めた。しかし同党の上野安太郎、小川平吉、田村順之助、駒林広運、寺井純司らは、以下を決議した(1903年5月5日付東京朝日新聞)。

一、本部が爲したる組織變更ハ革新の端緒に過ぎず我々ハ進んで當初の目的を貫徹することを期す

一、所謂妥恊なるものハ國政私議の擅行にして我々ハ之を否認す

なお、行財政整理を進めて募債の額を抑えることも、桂・伊藤合意を受けた、第1次桂内閣と立憲政友会の合意に含まれていたが、これは、鉄道敷設に期待していたような立憲政友会員を、不安にさせるものでもあった。このこと、そして公債に依存しないために立憲政友会は、鉄道を特別会計として、国営の鉄道の利益を鉄道の建設、改良に充てることを唱えた(次の議会における政府の法案提出を希望する建議案を可決させた)。第1次桂内閣は公債事業を繰り延べながら、浮いた分を海軍拡張費に回す方針であり、行財政整理の規模が小さかったことからも、結局は海軍拡張費が税負担の増加をもたらすという、批判を受けていた。憲政本党の、衆議院の解散、そして地租増徴案に関する一貫性のなさについて内閣を弾劾する上奏案に、立憲政友会は反対した。5月27日の採決の結果は、123対228で否決となった。憲政本党の議席数は84であったから、同党がまとまっていたと仮定すると、立憲政友会の議員、第3極の諸勢力、立憲政友会の離党者を含む無所属の中に、合わせて40名近い同調者がいたということになる。

立憲政友会の総務委員で張った原敬は、4月16日の日記において、党内の革新派を次のように分類している(『原敬日記』第2巻続篇69~70頁。筆者が整理した)。

・渡辺国武に関係した信州派:記述はないが、これまで見たように、小川平吉が含まれると考えられる。

・上の中の桂に買収された竜野の一派:竜野周一郎

・桂と通じる栃木辺りの一派:田村順之助、持田若佐

・森久保作蔵の一派(分類の前に、大久保が第7回総選挙の選挙干渉で入獄中の子分4、5名の特赦の周旋を大浦に頼んだことなどが記されており、桂と通じるという修飾句がかかっていると思われる)

・全く無邪気に革新を唱える一派:書面を公にした者が多く加わる。

人名は挙げられていないが、4月17日付の読売新聞にも、一揆党について同様に分類した記事が掲載されている。その上で、下の(一)が最も少数で、(四)が最も多数で、後者について、政府が「民党連合」を打開する道具となるしかないとしている。

(一) 眞面目に政界の革新を圖らんとする者

(二) 伊藤總裁を排斥して渡邊子を推戴せんとする者

(三) 此擧を利用して舊自由黨再興の基盤となさんとする者

(四) 現内閣と提携せんとする者

 

このような状況下、立憲政友会からは離党者が続出した。第18回帝国議会の会期中の離党者は、松田正久、原敬と共に常務員という党の要職にあった尾崎行雄を含め、17名に上った(会期内に復党した1名を除く)。離党の動きは5月の中旬からほとんど途切れることなく続き、12月11日の衆議院の解散までに、延べ66に上った。復党して再度離党した1名を1名分と数え、解散以前に復党した2名を除いても63名だ。約3分の1の衆議院議員を失い、立憲政友会は結成から3年で、衆議院の過半数を大きく下回ったのである(総選挙後初の第18回帝国議会開会開院式当日-5月12日-の同党の議席数は185で、欠員がない場合の過半数のラインは、187議席であった)。5月28日に2名、6月26日に7名の広島県内選出議員が離党したことで、立憲政友会には同県内選出の議員がいなくなった。無所属には、広島県内選出で、第7回総選挙の前に同党を除名されていた、第1次桂内閣寄りの井上角五郎、中央交渉部以来の吏党系議員であった和田彦次郎がいた。和田は帝国党の結成に参加したが、農商務省の局長職に就いて国民協会を離れて以来、無所属であったと考えられる(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、結成時の帝国党の議員として名が挙げられていて、結成後初の第7回総選挙以後は無所属とされている)。5月に離党した2名は、新民党の同志研究会に参加したが、そのうちの1人、富島暢夫は交友倶楽部に移った。6月に離党した7名のうち5名は、自由党の結成に参加している(1名は交友倶楽部を経ている)。他の2名は、1名が同志研究会の結成に参加し、1名がいずれの会派にも参加せず、12月5日に立憲政友会に戻った。広島の立憲政友会議員の多くもまた、土佐派の新党構想と融合したのである。井上角五郎の働きかけの有無については、筆者は確認できなかった。政友倶楽部は結成(5月8日)から、わずか1ヶ月後の6月6日に解散した。第18回帝国議会の会期終了後の解散ではあったが、同議会は通常の議会ではなく、総選挙を受けた特別議会であり、同派がこの短期の議会のためだけに結成されたとは考えにくい。解散理由は、「時局の趨勢に鑑み廣く同志結合の必要を認め」たため(1903年6月8日付東京朝日新聞)、つまり他の議員達と合流し、より大きな勢力となるためであった。解散は、立憲政友会から離党者が続出したことを、受けたものであったと言える。

枢密院議長への就任が決まった伊藤は、7月14日に同党の総裁を辞任した。西園寺新総裁の下、同党の実権を手中にしたといえる原敬、松田正久の主導により、立憲政友会は憲政本党との野党共闘路線を明確にした。立憲政友会から離党者が続出しても、同党が第2党の憲政本党を引き離す第1党であることに、変わりはなかった。しかし第1、2党が共に野党的な立場を明確にしたこと、場合によっては内閣の側につき得る、新たな大量の無所属議員が現れたことで、第1次桂内閣寄りの勢力が多かった第3極には、2大政党のそれぞれと肩を並べる機会が訪れた。もちろん、2大政党(の残部)対吏党系他という対立においては、2大政党が(さらに)大きく分裂しない限り、少なくとも衆議院では優勢にはなり得なかった。

矛盾しているように見える点について、説明しておきたい。立憲政友会の離党者が、桂と妥協したことに反発して離党したのに、なぜ第1次桂内閣寄りとなり得るのか、という点である。第18回帝国議会期の離党者が、桂・伊藤合意に反発して離党したということは、間違いないと思われる。しかし、桂・伊藤合意に対する反発には、2種類あった。薩長閥政府(山県-桂系)に寄ることに対する反発と、それを含まない、伊藤の独断、専制のみに対する反発である。後者が山県-桂系に寄ることは、十分にあり得ることであった。伊藤総裁への反発というのが、非民主的な手法に対する反発ではなく、自分達が重要視されない、主導権を握れないことに対する反発でしかなければ、なおさらである。

立憲政友会の63名の離党者の傾向をつかむため、伊藤の総裁辞任(7月14日)の前後で区別して、離党者達を見てみたい。どちらにも志向の異なる議員は含まれていたと考えられるが、伊藤の辞任後の離党者は、伊藤のいなくなった立憲政友会を、憲政本党と野党共闘を組む立憲政友会を、離れたという面があるはずだからだ。対象は、衆議院が解散された同年12月11日までとする(それ以後、第9回総選挙までの離党者を、筆者は知らない)。以前に所属していた政党、会派がある場合には「前」、以後にある場合には「後」として、記した。立憲自由党結成以前の所属については省略した。第20回総選挙以後の所属会派は省略し、「(以後省略)」と付した。衆議院の解散までに復党した議員については、そのことを記し、下線を引いた。

・伊藤の立憲政友会総裁辞任前の離党者

①上田實    5.12 山口郡 政友倶楽部、自由党

②寺井純司   5.12 青森郡 交友倶楽部、甲辰倶楽部、大同倶楽部、立憲政友会

③尾崎行雄   5.21 三重郡 立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党

・              同志研究会、無名倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会、又新会、立憲政友会、政友倶楽部、亦政会、中正会、

・               憲政会、革新倶楽部、新正倶楽部、第一控室会、第一控室、無所属室→第二控室(以後省略)

④山口熊野  5.24 和歌山郡 自由党、憲政党、憲政党

・              同志研究会、無名倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会、又新会、立憲政友会、新政倶楽部、政友本党

⑤島田糺    5.25 高知郡 同志研究会

⑥伊藤徳太郎  5.26 千葉郡 自由党

・              立憲政友会

⑦斎藤和平太  5.26 新潟郡 憲政党、憲政党

・              同志研究会、立憲政友会

⑧宮崎鏋三郎  5.26 埼玉郡 同志研究会

⑨中西新作   5.26 熊本郡 同志研究会、無名倶楽部、同攻会、憲政本党、猶興会、立憲政友会

⑩米沢紋三郎  5.26 富山郡 立憲政友会 ※6月29日に復党

⑪望月小太郎  5.27 山梨郡 同志研究会、無名倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会、立憲同志会、憲政会、新党倶楽部

⑫小川平吉   5.27 長野郡 同志研究会、無名倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会、又新会、立憲政友会

⑬鎌田三之助  5.27 宮城郡 立憲政友会 ※5月29日に復党するも、再度離党)、同志研究会 ※伊藤総裁辞任後の離党者⑰の鎌田と同一人物

⑭日向輝武   5.27 群馬郡 同志研究会、無名倶楽部、同攻会、立憲政友会、大正倶楽部

⑮戸矢治平   5.28 埼玉郡 同志研究会

⑯冨島暢夫   5.28 広島郡 同志研究会、交友倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会、又新会、立憲政友会、維新会、新政会、清和倶楽部、新政会

⑰松井将壮   5.28 広島郡 自由党

・              同志研究会

⑱片岡健吉   6.6  高知郡 立憲自由党、自由倶楽部、自由党、憲政党、憲政党

・               ※離党後間もなく死去

⑲竹内綱    6.6   高知郡 立憲自由党、自由党

・             自由党

⑳林有造    6.6   高知郡 立憲自由党、自由倶楽部、自由党

・             自由党

㉑鈴置倉次郎  6.7   愛知郡 同志研究会、無名倶楽部、同攻会、政交倶楽部、猶興会、又新会、立憲国民党、無所属団、立憲同志会、憲政会

㉒渡辺鼎    6.7   若松市 自由党

㉓矢島中   6.24  宇都宮市 自由党、有志会、大同倶楽部、立憲政友会

㉔小田貫一   6.26  広島郡 自由党、憲政党、憲政党

・             自由党、立憲政友会

㉕小田亮    6.26  広島郡 自由党

㉖串本康三   6.26  広島市 憲政党、憲政党

・             自由党、立憲政友会

㉗高木龍蔵   6.26  尾道市 交友倶楽部、自由党、大同倶楽部

㉘内藤守三   6.26  広島郡 憲政党、憲政党

・             自由党

㉙麦田宰三郎  6.26  広島郡 山下倶楽部

・             立憲政友会 ※12月5日に復党

㉚望月圭介   6.26  広島郡 憲政党、憲政党、

・             同志研究会、立憲政友会(以後については省略する)

㉛早川龍介   7.12  愛知郡 大成会、協同倶楽部、中央交渉部、国民協会、帝国党

・             交友倶楽部、立憲政友会、無所属団、立憲同志会、憲政会

㉜田村順之助  7.13  栃木郡  自由党、新自由党、公同会、山下倶楽部、憲政党、憲政党

・             自由党、大同倶楽部、立憲政友会、新政倶楽部、政友本党

㉝高橋庄之助  7.13  群馬郡  自由党

 

・伊藤の立憲政友会総裁辞任後の離党者

①川真田徳三郎 7.26  徳島郡 立憲改進党、溜池倶楽部、

・             大同倶楽部、新政会

②橋本久太郎  7.26  徳島郡 立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党

・             大同倶楽部→立憲政友会

③板東勘五郎  7.26  徳島郡 実業団体(第四回総選挙後)、日曜会、山下倶楽部、日吉倶楽部

・             大同倶楽部

④仙波兵庫   8.6   茨城郡 自由党

⑤青樹英二   10.19  愛知郡 大成会

・             交友倶楽部

⑥太田善四郎  10.19  愛知郡 国民協会

・             交友倶楽部

⑦丹尾頼馬   10.26 福井郡 自由党、大同倶楽部、立憲政友会

⑧時岡又左衛門 10.26  福井郡 自由党、山下倶楽部

・             自由党

⑨井上八重吉 10.30神奈川郡 交友倶楽部

➉内山敬三郎 10.30神奈川郡 交友倶楽部

⑪栗原宣太郎 10.30神奈川郡 交友倶楽部、自由党、戊申倶楽部、大同倶楽部、立憲政友会

⑫大久保忠均   11.2  千葉郡  自由党

⑬安川寛三郎  11.2   千葉郡 自由党

⑭浜野昇    11.2   千葉郡 立憲自由党、自由倶楽部、自由党

・             自由党

⑮田中喜太郎  11.5   石川郡 憲政党、憲政党

・             自由党、大同倶楽部、立憲同志会、憲政会

⑯駒林広運   11.5   山形郡 自由党

・             自由党、大同倶楽部

⑰鎌田三之助  12.1   宮城郡 同志研究会

(この間に同志研究会が誕生)

⑱河村喜助   12.3   岐阜郡 交友倶楽部、自由党

⑲稲田藤治郎  12.3   鳥取郡 -

⑳堀家虎造   12.3   香川郡 憲政党、憲政党

㉑東條良平   12.3   千葉郡 自由党、立憲政友会

㉒中谷宇平   12.3   石川郡 自由党、大同倶楽部

㉓牧野逸馬   12.3   福井市 自由党、大同倶楽部→立憲政友会

㉔松家徳二   12.3   香川郡 大同倶楽部、中央倶楽部、立憲同志会

㉕浅野順平   12.3   石川郡 立憲改進党、進歩党、憲政本党

・              自由党、大同倶楽部、立憲政友会

㉖榊原經武   12.3   栃木郡 自由党、立憲政友会

㉗関根柳介   12.3   東京郡 交友倶楽部、自由党、大同倶楽部、立憲政友会

㉘小出八郎右衛門 12.5  長野郡 -

(この間に交友倶楽部が誕生)

㉙沢田佐助   12.6   大阪市 甲辰倶楽部、有志会、立憲政友会

㉚植場平    12.11  大阪郡 新政倶楽部、政友本党、新党倶楽部、立憲民政党

㉛水之江文二郎 12.11  大分郡 -

㉜森秀次    12.11  大阪郡 甲辰倶楽部、大同倶楽部、中央倶楽部、憲政会

㉝横田虎彦   12.11  大阪市 甲辰倶楽部、大同倶楽部

 

次に、立憲政友会結成前に、自由党系の衆議院議員であった議員がどれだけいるのか、その後、新民党、吏党系、自由党のいずれかに参加した議員がどれだけいるのか、市部選出の議員がどれだけいるかを見る。まずは、伊藤の立憲政友会総裁辞任前の離党者である。議員の氏名ではなく番号で記す。

自由党、憲政党(自由党系)衆議院議員 ④⑥⑦⑰⑱⑲⑳㉔㉖㉘㉚㉜

新民党参加 ③④⑤⑦⑧⑨⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰㉑㉚

吏党系参加 ②㉓㉗㉜

自由党参加 ①⑥⑲⑳㉒㉓㉔㉕㉖㉗㉘㉜㉝(⑱の片岡健吉は自由党結成前に死去)

市部選出  ㉒㉓㉖㉗

次に伊藤の立憲政友会総裁辞任後の離党者を見る。

自由党、憲政党(自由党系)衆議院議員⑧(ただし山下倶楽部へ)⑭⑮⑯⑳

新民党参加 ⑰

吏党系参加 ①②③⑦⑪⑮⑯㉒㉓㉔㉕㉗㉜㉝

自由党参加 ④⑦⑧⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑱㉑㉒㉓㉕㉖㉗(高知県内選出)

市部選出  ㉓㉙㉝

 

まず、市部選出の議員は全体を通して少ない(約11.1%であり、約14.1%であった立憲政友会全体―第18回帝国議会開会当日―より少し低い程度だ)。立憲政友会に、議席数の割には市部選出の議員が少なかったからであろうが、山県-桂系による立憲政友会の市部選出議員の切崩しが、大阪、名古屋(離党時期が早いため上の一覧には表われていない)の例、広島県の例に含まれていた、同県の市部以外で成功したとか、市部選出の議員達が、桂・伊藤合意に特に強く反発したとかいうことは、特になかったのだと言える。自由党の結成に参加する議員達の離党には、時間的な偏りがあまりないようだが、当初の離党者は、大部分が新民党に参加している。そして、吏党系に参加する離党者の多くは、伊藤の総裁辞任後に離党した議員達である。また、立憲政友会結成前に自由党系の衆議院議員を経験している離党者は、明らかに伊藤の総裁辞任前に多い。離党者達には、明確な傾向が確かにあるのだ。伊藤の総裁辞任前の離党者には、桂・伊藤合意に反発して離党した議員が多く、その多くが生粋の自由党系であった。そして、伊藤の総裁辞任後の離党者には、伊藤が去ったこと、その後、立憲政友会が憲政本党との野党共闘路線を採ったことに否定的な、薩長閥寄りの議員が多く、従って、若手か、生粋の自由党系ではない議員が多かったのだろう。まとめはしなかったが、交友倶楽部参加者を見ると、伊藤の立憲政友会総裁辞任前の離党者では、②⑯㉗㉛、伊藤の立憲政友会総裁辞任後の離党者では、⑤⑥⑨⑩⑪⑱㉗であり、後者が多い。新民党(同志研究会)とは反対の傾向である。離党者の志向、新たな会派の性格を可能な限り確かめるため、離党者の動きに関して、具体的に見ていきたい。

小川平吉は早期に離党しているが、小川と共に立憲政友会革新の建議書を発表した、井上八重喜の離党は遅い。1903年10月31日付の東京朝日新聞によれば、井上八重吉、内山敬三、栗原宣太郎は、石塚重平らと革新運動を試みたことがあり、除名される模様であったので、先に離党した(1903年10月31日付東京朝日新聞)。小川が新民党(同志研究会)の結成に参加したのに対し、彼らは中立派(交友倶楽部)の結成に参加した。小川は弁護士で、第6回総選挙後(1898年)に、議員同志倶楽部と中正倶楽部に参加する花井卓蔵らと、江湖倶楽部を結成していた。同倶楽部が発行していた雑誌『江湖』の発刊の辞には、次のようにある(『小川平吉関係文書』14~15頁)。

江湖社人世の所謂元勲を有せず、名士を有せず、政治家を有せず、紳士、紳商を有せず、申さば無名の寄合なり、否、寧、方今の所謂有名家、流行児と伍を為す事を耻づる組合なりとす。而して其の種類はと問へば学者あり、商人あり、医師あり、記者あり、法律家あり、宗教家あり、工業家あり、皆新進有為の資により自ら経国済民の大業を以て任とするにあらざるはなし、而も必しも政治上の議論若しくは実業上の意見が同一なりとにはあらず、たゞ現今の政党派幷政治家の与に為すあるに足らざるを看破せる点に於て一致し、社会の腐敗、士気の銷沈、一に豪傑の士の起て恢清を試み刷新を行ふに須つあるを知り、新旧過渡の時代に於て克く天下の経綸に任ずるもの乃公を措てそれ誰ぞやの自信有る点に於て一致し、九州と云ひ東北と云ひ若くは関東と云ふが如く区々地方的観念によりて国政を議するの甚だ時代的精神に戻るものなるを知り遍く朋友を江湖の広きに求めむとする点に於て一致せるのみ、即ち一面より之を見れば雑駁極まるが如きも他の一面よりすれば醇粋なる革新主義者の一団と視るを妨げざる也。

江湖社同人の性質斯の如し、然らば何の為に『江湖』を発行するの必要を感じたる乎、区々国下の時事に激して興るは『江湖』の耻づる所なり、齷齪、眼前の功名を貪らむが為に興るは『江湖』の最も耻とする所なり。『江湖』固より藩閥政府を非とす、然れども亦現在の議会をも併せ非とす、現在の各政党、各政派を非とし、現在の政治家を非とし、議員を非とするのみならず、現在の選挙人をも併せ非とす、即ち『江湖』は或る意味に於て殆ど一世を非として奮闘せむとするの慨あるものなり、換言すれば現社会を根本より革新するにあらずんば已まず、是れ『江湖』の志なり。

これを見ると分かるように、江湖倶楽部は、知識層や、政商でない実業家による、進歩的なグループであった。小川や、後に彼と会派を共にする花井卓蔵は、このような意気込みで、新たな新民党の要人となるのである。また小川は対外強硬派であった。

立憲政友会の不平派となった土佐派は、1902年から離党、新党結成を噂されていた。児玉源太郎前陸軍大臣が、1903年1月15日付の書簡において、山県有朋に、「彼の土佐派を中心として自由党再興説抔も耳に致候へ共、」と報告している(『山縣有朋関係文書』二104頁)。自由党の再興とは、伊藤系と合流する前の自由党系を、復活さることを意味した(土佐派が中心であった頃の自由党系を、というのが本音であったとしても、不思議ではない)。1903年10月31日付の東京朝日新聞は、高知県の中央派の島田(糺)らが、東京で政党組織に尽力するはずだと報じている。旧自由党系(記事は今の郡部派だとしている)は板垣、林らが牛耳を採り、革新派は片岡が病気であるために、中央の有力者を首領とするであろうということも、報じている。革新派と中央派は同一のものである。

立憲政友会の総務らが、桂・伊藤合意を承認する3日前の4月21日、以下の立憲政友会所属議員達が、議会解散を追及する決議案を提出した(『立憲政友會史』第1巻246~247頁。()内は筆者が付した、離党した場合の離党順の番号(「前は伊藤の総裁辞任前、「後」は後)、選出された選挙区、離党した場合の次の行き先である。小川と井上も含まれている。  を付した。

山口熊野(前④和歌山県郡部、同志研究会)、日向武輝(前⑭群馬県郡部、同志研究会)、望月小太郎(前⑪山梨県郡部、同志研究会)、鎌田三之助(前⑬宮城県郡部、同志研究会)、瀬下秀夫(米沢市、離党せず)、森懋(和歌山市、離党せず)、小川平吉(前⑫長野県郡部、同志研究会)、望月圭介(前㉚広島県郡部、同志研究会)、平井由太郎(奈良県郡部、離党せず)、北村左吉(堺市、離党せず)、三浦盛徳(秋田県郡部、離党せず)、粕谷義三(埼玉県郡部、離党せず)、宮崎鏋太郎(前⑧埼玉県郡部、同志研究会)、室原重福(福島県郡部、離党せず)、広瀬久政(山梨県郡部、離党せず)、松浦五兵衛(静岡県郡部、離党せず)、上野安太郎(富山県郡部、離党せず)、井上敬之助(滋賀県郡部、離党せず)、村松愛蔵(愛知県郡部、離党せず)、山下千代雄(山形県郡部、離党せず)、秋岡義一(大阪府郡部、離党せず)、竹越與三郎(新潟県郡部、離党せず)、斎藤和平太(前⑦新潟県郡部、同志研究会)、矢島中(前㉓宇都宮市、自由党)、井上八重吉(後⑨神奈川県郡部、交友倶楽部)、根本正(茨城県郡部、離党せず)、戸矢治平(前⑮埼玉県郡部、同志研究会)、青柳信五郎(新潟県郡部、離党せず)、栗塚省吾(東京市、離党せず)、関矢儀八郎(新潟県郡部、離党せず)、中林友信(大阪府郡部、離党せず)、小山雄太郎(熊本県郡部、離党せず)、丹後直平(新潟県郡部、離党せず)、中西新作(前⑨熊本県郡部、同志研究会)

 

特に地域的な偏りは見られない。この中で離党した議員12名のうちの、10名までもが同志研究会の結成に参加していることから、同派が、薩長閥(山県-桂系)中心の第1次桂内閣に批判的であり、議院内閣制を志向していたであろうことが窺われる。同志研究会の結成に参加した10名を、上の、離党者に振った番号で並べると、伊藤の総裁辞任前の④⑦⑧⑨⑪⑫⑬⑭⑮㉚となる。伊藤総辞任後の離党者はなく、桂-伊藤合意に反発して、早期に離党した議員達であったと考えてよい。このことからは同時に、自由党、交友倶楽部参加者が、同志研究会参加者よりも、民党的な志向に乏しい、つまり第1次桂内閣に寄っても不思議ではない面を持っていたことも、窺われる。伊藤総裁辞任前の離党者の⑨の、決議案の提出者にも名を連ねており、同志研究会の結成に参加した中西新作の脱会届(離党届)には、立憲政友会が薩長閥政府と妥恊し、衆議院解散の責任を不問とし、公債政策の復活に同意したことに対する不満が記されている(1903年5月27日付東京朝日新聞)。他の同志研究会参加者の多くも、同様であったのだろう。議会解散を追及する決議案の提出者以外については、そうでなかったか、そうであるのに表明することができなかったということになる。増税によっていずれつけを払わされる可能性が高い、公債の復活に反対する姿勢は、消極財政志向の、本来の民党の傾向と一致する。当時は、募債に反対の実業家も少なくなかった(1903年5月13日付東京朝日新聞、読売新聞)から、行財政整理等を唱える改革派という形で、立憲政友会離党者を含む無所属の一部が会派等を結成するということも考えられなくはなかった。しかし実際には、実業家を含む中立的な会派を巻き込んだ対外硬派の再形勢が進み、立憲政友会の離党者の一部が、本来の民党の主張をする新民党、同志研究会を結成するにとどまった。日英同盟によってイギリスとの関係が深まること、日本の大陸への影響力の拡大に期待する実業家も少なくなかった、つまり、立憲政友会よりも第1次桂内閣の外交姿勢に近い者が多かったことも、背景にあったと考えられる。

1903年4月29日付の東京朝日新聞は、同日に立憲政友会の革新派が発表する連判状に名がある人々を挙げている。次の通りである。()内は、12月11日の衆議院解散当日のそれぞれの所属を、筆者が付したものであり、当時衆議員議員でなかった者については、以前に所属した会派があれば、元~と、その主なものを記した。ただし、筆者が自由党結成当日としている12月22日に、同派に参加した議員は自由党とした。

東北:日下鉄雄(非衆議院議員)、大久保鉄作(立憲政友会)、駒林広運(自由党)、渡辺鼎(自由党)

関東:森久保作造(元新自由党衆議院議員、第9回総選挙で立憲政友会から当選)、西村甚右衛門(元自由党衆議院議員)、金井貢(元自由党、立憲政友会衆議院議員)、宮崎鏋三郎(同志研究会)、栗原宣太郎(自由党―交友倶楽部から移動―)、井上八重喜(交友倶楽部)、斎藤珪治(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では「珪次」。元自由党衆議院議員、第9回総選挙で立憲政友会から当選-)、小暮武太夫(立憲政友会)、東條良平(自由党)、田村順之助(自由党)

東海:鈴木充美(元自由党衆議院議員)、鈴置倉次郎(同志研究会)、松浦五兵衛(立憲政友会)

北信:杉田定一(立憲政友会)、上野安太郎(立憲政友会)、川上元次郎(前立憲政友会衆議院議員)、小出八郎右衛門(無所属)、関矢儀八郎(立憲政友会)、時岡又左衛門(自由党)、中谷宇平(自由党)、小川平吉(同志研究会)、堀内賢郎(元自由党衆議院議員)

北海道:小橋栄太郎(後に戊申倶楽部、中央倶楽部等衆議院議員)

近畿:井上敬之助(立憲政友会)、植場平(無所属)、森秀次(無所属―第9回総選挙で当選し甲辰倶楽部へ―)、横田虎彦(無所属―第9回総選挙で当選し甲辰倶楽部へ―)、井手毛三(立憲政友会)

中国:富島暢夫(交友倶楽部―同志研究会から移動―)、小田貫一(自由党)、内藤守三(自由党)

 

離党者の中では自由党に参加する議員が多い。同じ29日付の萬朝報は、信州政友会が石塚、龍野の立憲政友会除名を否認し、信州独立党を組織する意気込みだと報じている。前年(1902年)12月19日付の萬朝報は、政府と内約がある中村弥六が、長野県代議士間を奔走して味方に引き入れようと努めているとしている。しかし龍野が除名となった後、立憲政友会を離党したのは小川平吉だけである。中村は長野県内選出の憲政本党議員であったが、1900年の12月6日に、布引丸事件に関して同党を除名された、対外強硬派である(第6章第3極(⑱)~山下倶楽部の「縮小再生産」~)。この1902~1903年当時には、対外強硬派を通して2大政党の連携を妨害しようとしていた桂総理に、寄っていたということなのかも知れない。ただし同時に、中村は同じ中立倶楽部の花井卓蔵、憲政本党の河野広中らと、男子普通選挙制度への改正を中心とした、衆議院議員選挙法の改正案を、第16回帝国議会において提出している(否決)。この点では、山県-桂系と一致し得なかった。立憲政友会の革新派であり、体外強硬派であった小川平吉は、当時の日記を残している。6月12日付の記述には、彼が中立議員の招きにより、森茂生(中正倶楽部)に会ったことが記されている(『小川平吉関係文書』176頁)。この日の記述には、さらに次のようにある。

衆、渡近両君の起つを望む。予為不知。此日会者、板中、森茂、高哲、両彦、矢浦、佐虎、感心せぬもの不少。

登場する人物、所属会派の変遷を書き出すと次のようになる。6月6日に解散していた政友倶楽部に属していた板倉以外は、皆、中正倶楽部の所属であった。

板倉中  :立憲自由党→自由倶楽部→自由党→立憲政友会→政友倶楽部→同攻会→政交倶楽部→猶興会→立憲政友会→大正倶楽部→中正会

森茂生  :中正倶楽部→甲辰倶楽部→立憲政友会

高梨哲四郎:山下倶楽部→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部→中立倶楽部→中正倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

両角彦六 :壬寅会→中正倶楽部

矢島浦太郎:中正倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→無所属団→立憲同志会→憲政会

佐藤虎次郎:中正倶楽部→甲辰倶楽部→立憲政友会

 

「渡近」とは当然、渡辺国武と近衛篤麿のことである。近衛は対外強硬派の長老のような存在であり、小川は彼らを中心に対外強硬派をまとめようとしていたようだ(小川の動きについては、酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』第4章第1節が詳しい)。高梨については、以前から対外強硬派であったことを確認することができる(高梨哲四郎『明治三十一年三月臨時総選挙ニ於ケル高梨哲四郎ノ主張』)。「感心せぬもの不少」という記述は、後述する、第1次桂内閣寄りの議員を指していると考えられる。6月21日付の読売新聞には、中正倶楽部、政友倶楽部、無所属ら30余名が、森茂生方で、議会閉会後週2回集会を開いていたが、議員の中に、この団体を利用して何かをしようとする者があって、分裂気味となり、丸山名政、宮古啓三郎、桑原政、三輪信次郎が退会を申し出たことが記されている。これはどのようなことなのか分からない。退会を申し出た4名に共通点があるのか、見ておく。丸山は東京市の選出で、立憲改進党、政友倶楽部、同志研究会に属した。宮古は茨城県郡部の選出で壬寅会、交友倶楽部、立憲政友会、新政倶楽部、立憲政友会に属した。桑原は水戸市の選出で山下倶楽部、壬寅会、中正倶楽部に属した。三輪信次郎は東京市の選出で交友倶楽部、有志会、政交倶楽部、猶興会、又新会、同志会、亦政会、中正会に属した。宮古以外が市部の選出だという以外に、共通点を見出すことはできない。丸山、三輪は新民党に参加する議員、桑原は第1次桂内閣寄りの議員であった。以上、特別な傾向はないのだが、小川が6月12日の日記で見せた違和感についても合わせて見ると、やはり対外硬派が左右両極に裂かれていく過程で、衝突があったのだと考えられる。小川の違和感は、7月26日付の日記の次の部分(『小川平吉関係文書』182頁)に、より明確に表れている。

新聞を見るに、対外硬の協議会あり。渠等やると見えたり。しかし臼井哲夫等御用党及議員集会所の人の多きには驚く。天照皇太神を指して、之れ我れの神なりとて我物顔にせんとするに似たるの嫌あり。

なお渡辺は、自らが求めて蔵相に就いた第4次伊藤内閣期、彼が厳格な緊縮財政を志向したことを要因として、立憲政友会から離れた人物である(人間関係の問題も多分にあったし)。その渡辺を担ごうとすることは、低負担を志向する新民党と一致し得た(もちろん、実際はそう単純ではない)。6月13日付の萬朝報は、憲政本党の平岡浩太郎、立憲政友会の元田肇、中立の臼井哲夫らが、曽祢荒助蔵相を担いで政界縦断を策していることを報じている。6月28日付の同紙は、立憲政友会の広島県内選出の離党者が、これに加わるために離党したとしている。また、平岡が憲政本党から16名の参加者を得たとし、「曾禰黨帷幕の謀臣」である高野孟矩が、東北方面に向かって運動を始め、立憲政友会の鎌田三之助、駒林広運、大久保鉄作、無所属の渡辺鼎、寺井純司、雄蔵茂次郎、佐藤里治らと交渉済だとしている(所属、無所属の別は筆者)。このうち渡辺と寺井は、記事が書かれた時には立憲政友会を離党しており、駒林、鎌田(5月にも離党していたが、同月中に一度復党)は、それぞれ11月と12月に離党、鎌田は同志研究会、寺井は交友倶楽部に、雄倉は立憲政友会に属することとなる)。臼井は中正倶楽部の所属であったし、平岡は第1次桂内閣に近かったと見られる(本章1列の関係・2大民党制(③④⑥)参照)。元田は後に、河野衆議院議長の内閣弾劾を含む奉答文に対して、立憲政友会の中で唯一、明確に批判をした(1903年12月15日付読売新聞)。また、大岡と元田は吏党系(国民協会)の出身であった。この動きは、明らかに第1次桂内閣支持派の、新党結成を含めた再編を策すものであったと言える。第1次桂内閣の蔵相として行財政整理を担当していた曽祢は、募債よりも増税を志向していた(1903年5月8日付萬朝報。曽祢蔵相が、公債が挽回できないほどに下落する危険性があると考えて、公債政略の復活に反対し、糖税運動に一層力をこめるに至ったと記されている。また記事は、着実な実業家が、公債反対運動を起こすかもしれないことも報じている)。また、曽祢は鉄道国有論者ではなく、民営統一論を唱えており、これを11月、反発する田健治郎の働きかけを受けた大浦兼武逓相に、ひっくり返されていた(松下孝昭「日清・日露戦間期の鉄道国有問題」22頁)。消極財政志向とは言えないものの、この当時財政規律を重視していたとは言える。当時の立憲政友会の離党者には、地租増徴継続による海軍拡張だけでなく、公債による、海軍拡張にも反対の議員がいた。曽祢を担ごうとする、第1次桂内閣支持派の動きは、立憲政友会の離党者や、実業家を広く取り込むことを可能とするものと、なり得たかもしれない。この記事はまた、盲従を強いられていた曽祢に、平岡と臼井が、立憲政友会と憲政本党の提携も、元老もいずれ終わると説いているとする。これが本当なら、2大政党の連携に反対する2大政党内の議員達にも、第1次桂内閣寄りの中正倶楽部にも、薩長閥と民党の対立が再現されていた当時の状態の、一歩先を見て動こうとする者が、いたのだということになる。つまり、単に当時の、第1次桂内閣を支持するか、支持し得る議員達を集めるだけでなく、2大政党(2大民党)の連携の、3度目の崩壊が現実となった時に、3党鼎立を担う、あるいはもっと上を狙う、自立した政党を形成することが、想定されていたのだと考えられる。元老も終わるという見方は、山県-桂系を敵視するものであったとは言えない。単なる予想であったとも捉えられるし、桂(当時はもちろん元老ではない)が山県や伊藤の次の世代であり、世代交代を実のあるものにしようとしていたことを考えれば、桂を支持する動きであったと捉えることができる。

以上からも分かるが、後述する部分を合わせて考えると特に、状況は複雑であった。同志研究会という新民党に参加する小川は、桂・伊藤合意に対する反発では、必ずしも反薩長閥(山県-桂系)ではない自由党参加者(土佐派等)と一致し、対外強硬派であるという点では、第2党以下(非立憲政友会)のうちの、山県-桂系に寄っていた対外強硬派と共通していた。そして自由党に参加する議員達と対外強硬派は、対外強硬派、反立憲政友会という旗を共にすることができそうであった。

12月8日付の萬朝報は、立憲政友会との提携を否認すること、他派との交渉についてあらかじめ代議士会の決議を経ることを謳った要求書に連署した、「進歩黨軟派」、つまり憲政本党の対外強硬派の議員達を挙げている(1903年12月8日付萬朝報)。次の通りである。氏名のみ記されているものを、筆者が分類をした。

・進歩党結成以前に衆議院議員を務めており、立憲改進党に所属:安田勲、内藤利八、鹿島秀麿、西村眞太郎、稲澤徳一郎

・進歩党結成以前に衆議院議員を務めており、立憲改進党以外に所属:堤猷久(国民協会、国民倶楽部、公同会)、東尾平太郎(自由党、同志倶楽部、立憲革新党)、佐治幸平(立憲革新党、後に大同倶楽部、立憲政友会)、佐々木正蔵(国民協会、国民倶楽部、公同会、山下倶楽部)、愛沢寧堅(自由党、東北同盟会)、平島松尾(自由党、東北同盟会)、松本長平(無所属)、

・進歩党から初当選:平岡萬次郎、大矢四郎兵衛

・憲政本党から初当選:井上要、北畠具雄(1908年2月23日に除名)、長沢市蔵、木下謙次郎(後に憲政会から立憲政友会へ)、山田猪太郎、菊島生宜、浅見竹太郎、菊池武徳(後に離党して無名倶楽部に参加、後に立憲政友会)、梅野初実、古川黄一、川口木七郎、野上嘉平、鈴木久次郎、桜井静、松原九郎、安念次左衛門、武内作、森田卓爾、須見千次郎、木村半兵衛

・他:宮内翁助(無所属で当選後憲政本党入り)

 

進歩党結成前に衆議院議員を経験している議員を見ると、立憲改進党出身と、立憲改進党以外の出身者は、後者がやや多いものの、その数は大きくは変わらない。前者の5名のうち、内藤、鹿島、西村は兵庫県内の選出であり、進歩党、憲政本党から初当選している議員も含めて、当時の憲政本党の兵庫県内選出議員全員の名が、上にはある。つまり、立憲改進党出身でない議員達と、兵庫県における立憲改進党出身者から、反執行部派(対外強硬派)が成り立っていたことが分かる。日清戦争前後(第2回総選挙後から第4回総選挙後)の対外硬派は、立憲改進党がまとまって参加するような形となった。後から見ればだが、進歩党を結成する議員達がまとまって参加していたと言える。それと比べれば、進歩党の本流を汲む憲政本党が、分裂状態になっていた第8回総選挙後は、後退していたようにも見える。しかし、日清戦争前後の対外硬派は、政権側の薩長閥伊藤系と自由党系に対する野党であり、薩長閥の他の勢力の支援も、ほとんど受けられない状況であった。さらに、吏党系の国民協会が脱落し、伊藤系・自由党についた。ところが第8回総選挙後は、対外硬派(の多く)は政権を担う薩長閥の側であり、吏党系、つまり国民協会の本流を汲む帝国党も、脱落する理由がなかった。衆議院議員の数がある程度少なかったとしても、順境にあったのは間違いないのである。ただし、この薩長閥政府側であったということにはリスクもあった。対外硬派というのは、政府の外交姿勢を生ぬるいと批判するものである。小川平吉らとの差異に原因を求めるまでもなく、政府を支持する対外硬派というのには、多少なりとも無理があり、政府支持派と政府反対派に分かれることは、宿命であったと言える。このような背景から、今度は、日清戦争後と反対に近い状態になったのである。

先に引用した小川平吉の日記の続きを見ていきたい。6月13日付には次のようにある(『小川平吉関係文書』176頁)。()内は筆者が付した。

夜望月、中井に誘はれ田中に飲む。爛酔。望圭(望月圭介、選挙区が井上角五郎と同じ広島県だが同志研究会へ)、渡鼎(渡邊鼎、自由党へ)会す。

次は、6月16日付の一部ある(同177頁)。

渡辺を訪ふ。倶楽部設立の事此日初めて明に決す。尾崎に会見を勧む。脱会連中狭隘の傾あるを救ふの一助ともなさん為なり。陸実を送る旧友茶話会。尾崎(行雄、同志研究会へ)と議す。今後山口(熊野、同志研究会へ)、日向(暉武、同志研究会へ)、島田(糺、後に同志研究会へ)、望月(小太郎、後に同志研究会へ)、中西(新作、同志研究会へ)等来会。倶楽部の事を議す。

最後に、6月19日付の一部である(同177頁)。

夜宮古(啓三郎、元壬寅会、交友倶楽部へ)を訪ふ。中立議員に関し諮る所あり。~略~

此夜日誌を記す。

〈渡辺に前日来の如く尾崎に相談せんことを望む。〉

〈政党在籍者を入るゝ時は進歩党員多く来り投じて互に反發するのみならず、多の政客は進歩の出店の如くに見なして之を嫌ふ虞あり。将来の為め一考を要する旨渡辺に注意す。〉

山口、日向、望月、宮崎(鏋三郎)、島田、小川、松井(将壮)、富島(暢夫)、米沢(紋三郎)、中西、斎藤(和平太)、鎌田(三之助)は5月30日に協議をし、なるべく一致の行動をとることにした(1903年6月1日付東京朝日新聞)。これは、桂・伊藤合意が明らかにされてから同日までに立憲政友会を離党した16名のうちの12名であり、早期に同党に復党した米沢以外の全員が、同志研究会の結成に参加している。また彼らのうち、島田、松井、富島、米沢以外が、議会解散を追及する決議案を提出した議員達である。小川平吉は、積極的に他の立憲政友会離党者と会っている。一方で、憲政本党の離党者が多く来ることで、同党の別動隊と見られることを警戒している。憲政本党の対外強硬派が加わるということは、その中の第1次桂内閣寄りの議員を含む、2大政党連携反対派の議員達が参加するということでもあった。上の6月16日の記述を見れば分かるように、小川と勢力の形勢を相談していたのは、のちに同志研究会に参加する議員達である。それはつまり、2大政党と共に薩長閥に対抗しようとする議員達である。ここには、対外硬派再形成に関する綱引きが見られる。対抗関係にあったのは、小川ら民党的な勢力と、第1次桂内閣(山県-桂系)寄りの勢力であった。後者は、対露同志会結成の中心となることで、対外硬派の再組織化の主流派となり、そのような動きとやや距離を置いた前者(近衛-小川)の優位に立った。その背景には、山県-桂系に連なる帝国党の存在があった。

立憲政友会に仲間を増やすことで。同党を動かすことに成功した第1次桂内閣であったが、それを安定的に持続させることはできず、次に伊藤を通して同党を動かした。しかしそれにより同党は分裂した上、それは同党を著しく弱体化させるには至らず、同党の残部を引き寄せることも難しくなった。そのような状況下、山県-桂系に出来ることは、立憲政友会を離党した議員達、これから離党しそうな、切り崩せそうな議員達を、自らに近い中立派の議員達と共に、味方に付けることであった。離党者を味方にすることは、全離党者を味方に付けることが難しいこと、さらなる離党者が何人出るか見通せなかったことから、同党残部を味方に付けるほど、効果的ではなかった。ただし、数の上ではそうであっても、必ずしも、劣る選択肢ではなかった。独自に一定の力を持つ立憲政友会よりも、同党の離党者の方が、味方として引き付けておくのは容易であったと考えられる(そうでない有力者ももちろんいたが、有力者であっても、完全な無所属であっては展望を開くことは難しかった)。そして何より、国内のロシアに対する反発が高まっていたこの当時は、対外硬派の旗を利用することが、大きな成果をもたらし得た。本来、2大政党以外の議員を集めても、2大政党には遠く及ばない状況であったが、立憲政友会の分裂によって、同党は衆議院の過半数を大幅に下回った。同党の離党者には対外強硬派が少なからずいたし、憲政本党の衆議院議員の4割以上は、立憲政友会との野党共闘に希望を持つことができない、反主流派≒対外強硬派であった(註1)。だから対外硬派再形成の動きは、衆議院における力関係を刷新する可能性を持つものであったのだ(憲政本党にいる対外強硬派は、同党に比して外交姿勢が柔らかく、同党を裏切った立憲政友会を嫌っていたから、対外硬派の旗を用いれば、同党を切り崩すことも、できそうな状況であった)。確かに、それだけで2大政党残部の連合軍と、対等な規模になること、ましてや安定的な勢力となることは、難しかった。しかし少なくとも、三つ巴の状況を現出させ、それを、第1次桂内閣(山県-桂系)の支持基盤を衆議院において過半数に到達させるために、利用することは十分できる状況であった。

1903年までの対外硬派の変遷を簡単にまとめる。第2回総選挙後に形成された対外硬派は、内閣に反対する勢力であった。それが1900年9月24日に結成された国民同盟会は、要人の近衛篤麿(対外硬派として進歩党~憲政本党と協力関係にあった)の志向等から、中立的なものに留まった。同党結成後間もなく成立した第4次伊藤内閣(立憲政友会中心の内閣)は倒れ、第1次桂内閣が成立した。衆議院における対外硬派の最大勢力であったこともある、国民協会の後継の帝国党は、衆議院において内閣に最も近い勢力となった。国民同盟会は日英同盟の締結、それを見たロシアの軟化を受けて解散した。そして、ロシアの軟化が偽りであったことを受けて、同じ第1次桂内閣期に、旧国民同盟会の流れを汲む勢力を、再形成する動きが起こった。立憲政友会、第4次伊藤内閣の外交姿勢が比較的温和なものであったこと、帝国党の影響により、この動きは第1次桂内閣寄り、つまり「右」に寄った動きとなった。憲政本党の対外強硬派は、右に寄ることに反対すべきであったとも思える。しかし対外強硬派の中心であった政務調査所は、もともと中立派であり(第2章⑧参照)、憲政本党の対外強硬派は、自らのようにロシアに対して強硬的ではなく、2度裏切られた自由党系(憲政党の解党と第1次桂内閣との合意、そして彼らの一部にとっては、さらに第2回総選挙後の、民党共闘からの離脱があった)よりも、第1次桂内閣と近かった。

1903年7月25日、対露強硬派によって対外硬派連合委員会が開かれた。衆議院議員の参加者は次の通りであった(7月26日付東京朝日新聞。「進歩党」は憲政本党を指し、記事では中正倶楽部は議員集会所及び無所属とまとめられている)。これが8月9日に、対露同志会となったと言える。()内に筆者が付したことでも分かるように、憲政本党では、立憲改進党の出身者ではない議員達が、対外強硬派の中心となっていた。

・同志集会所:渡辺鼎、小田貫一(共に6月に立憲政友会を離党、自由党の結成に参加、小田は自由党を経て立憲政友会に復党)

・進歩党:神鞭知常(有楽会や政務調査所を経て憲政党、同党分裂後に憲政本党へ)、柴四朗(東北同志会、同盟倶楽部、立憲革新党を経て進歩党へ)、相沢寧堅(河野広中と共に自由党を離党して東北同盟会を結成し、憲政党分裂後は憲政本党へ)

・帝国党:大野亀三郎、武市庫太

・中正倶楽部:森茂生、木内信、佐藤虎次郎、両角六彦、桑原政、山根正次

・議員集会所及び無所属:高野孟矩、兼松凞、寺井純司(5月に立憲政友会を離党)、宮古啓三郎、大久保不二、臼井哲夫

 

同志集会所とは、自由党を結成する関東派(1901年6月21日に星が殺害されて柱を失っていた)等、立憲政友会を離党した議員達である(上の渡辺は若松市、小田は広島県郡部の選出)。他に石塚重平(後に甲辰倶楽部、大同倶楽部)、高野源之助(後に同志研究会、交友倶楽部)、関信之介(政友倶楽部に参加しており、後に自由党、大同倶楽部、立憲政友会)、仙波兵庫(後に自由党)、板倉中(政友倶楽部に参加しており、第9回総選挙まではいずれの会派にも加わらず、同総選挙後に同志研究会の流れを汲む会派に属した後に、立憲政友会に復党するも再度離党)、持田若佐(解散した政友倶楽部に参加しており、後に自由党、大同倶楽部)、楠目玄(片岡ら中央派と林ら郡部派の対立があった土佐派で、第7回総選挙に高知県郡部から立候補した。無所属の、加藤高明-土佐派の一部が擁立した加藤高明、田中遜-当時宮内大臣であった田中光顕の養嗣子-の高知県郡部での当選もあり、立憲政友会の岡崎賢治-中央派-、山本幸彦―郡部派―が落選し、楠目は同党を除名された-註2-。後に自由党を経て復党)などがメンバーとして、当時報じられている。議員集会所がどのようなものであったのかは分からない。酒田正敏氏は、上の「議員集会所及び無所属」の6名を、議員集会所のメンバーであったとしている(『近代日本における対外硬運動の研究』263頁。議員集会所だと分かる議員を、高野、臼井、寺井、宮古、大久保、兼松としている)。彼らの所属会派の変遷は次の通りだ。皆無所属で(寺井以外は当時の立憲政友会の離党者でもない)、臼井、兼松、高野を除けば、つまり半数が、立憲政友会の離党者の一部や、同志倶楽部と、交友倶楽部を結成する議員達である。また、茨城県内選出の議員が多い。

臼井哲夫  長崎県郡部選出 憲政党(分裂前)→議員同志倶楽部→中立倶楽部→大同倶楽部

大久保不二 茨城県郡部選出 交友倶楽部

兼松凞   佐賀県郡部選出 大同倶楽部

高野孟矩  茨城県郡部選出 自由党→戊申倶楽部

寺井純司  青森県郡部選出 立憲政友会→交友倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

宮古啓三郎 茨城県郡部選出 壬寅会→交友倶楽部→立憲政友会→新政倶楽部→立憲政友会

 

なお、1901年2月15日付の読売新聞に掲載された神鞭の談話よれば、彼は第4次伊藤内閣の増税に反対であったが、賛成に決まった党議に服従したのだという。当時の増税反対派には、三四倶楽部を結成する民党的な議員だけでなく、対外強硬派もいたのだ(ただし三四倶楽部を結成する民党的な議員の中にも、対外強硬派は少なからずいた)。

対露同志会は、解散していた国民同盟会の後継であったと言える。しかし、国民同盟会の中心人物であった近衛篤麿や、小川平吉は、対露同志会に積極的にかかわろうとしなかった。このことについて酒田正敏氏は、次の通り指摘している(酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』237頁)。

その理由は第一に、当時近衛とその直参派が国内政治の「革新」を争点に新しい政治グループの組織化活動を行っていたから、既成政治勢力の糾合に有効な対外硬スローガンが先取されたことに対する反発があり、しかもそれが、既成党派の連携運動のために使われたことにたいして慊焉たらざるものがあったのである。第二に、対露同志会が、「民党」に対抗する四派連合を中心とした組織だったからである。

 

また酒田氏は、小川が既成の党派意外に政治倶楽部を設けるという、既成党派改革論を考えていたとしている(酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』247頁)。これは、民党の本流でも吏党の本流でもない勢力が主導する、対外強硬派等の、幅広い結集を意図したものであった。当時の対外強硬派は、このように2分化していたのだ。7月21日付の萬朝報によれば、近衛篤麿を長に、渡辺国武を副長に、両院議員、実業家、学者によって、対外硬派の団体を結成することとなり、憲政本党の反大隈派(≒対外強硬派)、立憲政友会で革新運動をし、桂・伊藤合意に反発して離党した小川平吉、坂本金弥(憲政本党の衆議院議員であったが、第8回総選挙では落選-註3-、第9回総選挙に無所属として当選し、小川らの無名倶楽部に加盟)、大内暢三(第10回総選挙で憲政本党から当選)が加わり、憲政本党中の「大隈を悦ばざる一派」も加わることとなっていた。これは、次の小川平吉の日記(『小川平吉関係文書』181~182頁)の内容と、矛盾はしない。

七月十八日 大内白城と共に坂本を訪ふ。犬養、関等来る。夕刻五百木、金杉等来会。廿一日会合を約す。柏原来る。望月等来る。満州問題に関す。

〈進歩党解散及倶楽部組織等の議新紙に現はる。柴、山田等待ち兼ぬると見えたり。然ども、進歩党より之を唱ふる時は到底政界を一変し難し。故に此日坂本と議し、犬養氏を呼びて談ず。犬氏見合の事を諾す。〉

七月十九日 議長官舎の会あり、往かず。大内等来る。金井を訪ふ。金杉に到る。坂本、大内、五百木、神谷来会、晩餐。倶楽部の事を議す。

七月二十日 倶楽部建物の方のみ進行して、人に関する事は進まず。依て向きに列記せし人名に加除を施し、更に交渉協議を急進せんが為に、五百木、大内に談じて桜田会館に会す。坂本不在。山王台に避暑す。森正隆に途に遇ふ(森証人召喚の件)。同文会にて恒屋、国友に面す。対外硬会合の議あり、予は熟考を約して去る。夜森を訪ふて、時事を談ずる、数時間。

〈藤波氏等来る。〉

七月廿一日 朝来客多し。友成、石川満治、石塚重平、大内等十数人。裁判所に至る。

午後桜田会館。五十嵐、最上、金杉、五百木、大内、坂本等なり。建物売買の条件決す。秋山定輔亦来会。議深更に及ぶ。

〈此日新紙、小川等近衛公、渡辺子を担ぎて云々と記するもの数四。蓋し昨日通信をなせしに、その裏をかきたるもの数四ありしなり。寺井純司来り倶楽部加入を求む。〉

ただし、憲政本党の執行部派であったといえる犬養も小川と会っており、反大隈派が参加しようとしていたのか、あるいは大隈を排斥した上で憲政本党が参加しようとしていたのか、はっきりしない。7月18日〈〉内の記述からは、団体結成の動きが憲政本党中心の動きだと見られると、政界革新につながらなくなるという、小川の懸念も伝わってくる。犬養は、2大政党の連携に、近衛一派を加えようとしていたようである。1903年7月29日付小橋藻三郎宛犬養毅書簡(『犬養木堂書簡集』73~74頁)に、次のようにある。

小生ノ見ㇽ所を以てすれハ現内閣ハ最軟の外交方針を取居候に拘らす世間に向てハ強キガ如ク裝ひ居候者と被存候其馬脚ハ外國の新聞によりてイツモ暴露し來候現に爲しツヽある所ハ滿韓交換の如きものなるべし但し政府ビーキの連中ハ頻りに御強硬ナルヿヲ吹聽致居候門戸開放と申事ハ黨中の重立タル者に兼て覺悟ナサシメ置候迄ナルに早ク世間に洩れたる也是ハ時機ニ投するにあらざれハ容易に成効する見込なし

近衛組の倶樂部も一の道具タルに相違なし但し始より渡邊無邊の如き人に厭ハる人物を押し立て加之空論家のみ早ク寄リ集リてハ成効の妨碍とナリハせずやと乍蔭心配致居候西園寺ハ伊藤ニ比すれハ繫累の少き人なれど萬事冷淡ナルが上に矢張り紈袴者流タルヲ免れす但人物論より見れハ近衛よりも智能ありと云ふ人多し

土佐派の新黨ハ御用黨也迚も何事も爲し得さるべし寧ろ滑稽也

我黨の解黨など迚も近日の中に有ルヘき理なし先ツ大變の超らざる以上ハ大政黨成立の機ナシ此時に至らざれハ解黨する筈なし」

井手の學動ハ御用に近しと何人も認定し居候縣費節減の倶樂部に可成多く我同志者を入れたし近來地方費ノ增加に堪へずして各縣此論起り居り殆ど天下の通論と相成居候

岡山縣下にては可成我黨に主唱同樣に致度ものに御座候折角御蓋力可被下候~略~

政黨にハ異日大異動あるべき氣運タルニ相遠なしと雖も我黨ハ輕卒に離合することは欲せす老夫の欲する所を云ハしむれハ合同ニあらす名を改めて他黨を併合せんと欲するのみ

他黨ハ又我の併呑に逢ふか却て幸福ナルベク存候

議席数の少ない憲政本党系が、混乱する立憲政友会系に対して、それまでほど劣位にはなかった状況下、憲政本党、立憲政友会、対外硬派の反薩長閥政府の部分による、野党共闘の中心となることへの期待、重要な機会を生かすべく、万全な形でその方向に進みたいという思惑があったのだと言える。だが、小川が幅広い対外強硬派を集めようとしていたこと、同志研究会が連結器の役割を果たそうとする勢力であったことを考えれば、小川らと憲政本党主流派は、一致し得るものであったと言える。ただ、小川が絶対に避けなければならなかったのは、憲政本党の別動隊と見られ、さらには実際に主導権を奪われることであった。それは自由党系の出身者達には受け入れ難いことであり、政党に批判的な者達をも遠ざけ、幅広い対外強硬派の結集に支障をきたすことを意味した。小川にとっては、対外硬派の旗を降ろさない形で、異なる立場から、あるいは部分的に一致して第1次桂内閣を批判する、2大政党との連合軍が形成されることが、最善であったと考えられる。2大政党に埋没せずにそれを実現させるためには、幅広い対外強硬派の連合を形成しておくことが必要であった。

こうして、第1次桂内閣(山県-桂系)を支持する勢力と、民党共闘を志向する勢力に、対外硬派は再度、分裂した。「再度」というのは、第4回総選挙後、国民協会が離反し、対外硬派の合流への不参加者が出現したからだ。対外硬派が合流した進歩党は、国民協会と対立関係にまでなった。国民協会は対外強硬派ではなくなり、進歩党も、その中心となった旧立憲改進党系が戦略的に対外硬派に加わっていたに過ぎなかった(第2章(⑩)参照)ため、対外硬派は半ば消滅していた。議員倶楽部を結成した進歩党不参加者には対外強硬派がいたが、当時の状況、対外硬派ではなかった旧実業団体系の一部との合流、第2次松方内閣の準与党となったことで、やはりその色を薄めた(第4章第3極・実業派の動き・キャスティングボート(④⑤⑦⑧⑩⑪)参照)。薩摩閥と議員倶楽部には、対外強硬派として結びついていた面があった。しかし、薩摩閥が実際に政権の中心を担い、軍人ではなかった松方が総理大臣、立憲改進党出身の大隈が再び外務大臣となれば、話は変わる。

対外硬派の2回の分裂の共通点は、吏党系が時の、薩長閥中心の内閣を支持することで、対外強硬派足り得なくなったことである。桂の外交姿勢は、伊藤のそれと比較すれば強硬的であった。しかし政権の中心を担う以上、現実的にならざるを得ないという点では、伊藤と根本的には変わらなかった。対外硬派は内閣を批判してこそ、少なくとも内閣の背中を押してこその対外硬派であるわけだが、これは一つ間違えれば、内閣を批判することになり、薩長閥政府を支持する(第4回総選挙後は第2次伊藤内閣支持に転じた)吏党系には難しいことであった。よって彼らの対外強硬派の色は、薄まらざるを得ないのだ。相違点は、民党、吏党という政党を背負っておらず、自由に動ける、活動的な衆議院議員の勢力が、日清戦争前は中立派であったのが、日露戦争前は、新民党的な、自由党系の離党者であったことだ(日清戦争前も、自由党系の離党者のうちの、新民党的な議員達による同志倶楽部が戦列に加わったが、その目標はあくまでも、新民党のものであった-第2~4章参照-)。日露戦争勃発後、対外硬派の動きは、やはりまた沈静化した。しかし、これも日清戦争後と似ているが、講和条約に不満を持つ対外強硬派の動きが、再び活発になった。日清戦争後は対外硬派全体(国民協会は途中で脱落)であったが、日露戦争後は、明らかに新民党(同志研究会)が中心であった(第9章参照)。

土佐派について、まだあまり述べていない。多少さかのぼるが、6月に入ると、様子を見ていた土佐派の議員達の離党が相次いだ。片岡健吉、林有造らである。当時、立憲政友会の高知県における勢力は内部分裂に陥っていた。しかし桂・伊藤合意については、対立していた片岡健吉ら中央派も、林有造ら郡部派も、伊藤の独断と、それを許す立憲政友会、その組織に対して反発した。この過程に詳しく、片岡の脱会告知状、林らの脱会理由書を掲載している『立憲政友會史』からも、合意自体より、自分達が蚊帳の外に置かれたことに対する反発が大きかったことが分かる(註4)。そうであっても、政党の立場を強めようとしてきた自由党系が、政党人ではなかった伊藤の、私党に近いものになったことに対する土佐派の反発は、もっともであった(もちろん、伊藤からすれば、政権獲得など、党利党略を第一に考えるのではなく、国家を第一に考える政党であるべきだということになる。しかし、国家=薩長閥という面が大きかったから、それに対する反発にも、一理あったわけである)。この点で土佐派は、尾崎行雄や小川平吉といった、先に離党していた議員達(≒同志研究会を結成する議員達)と共通していた。

しかし、尾崎は妥協そのものではなく、第1次桂内閣と立憲政友会の妥協の内容、つまり行財政整理の不足と、募債、特にどの規模の大きさに反発して離党したのであった(註5)。かつて星亨と共に自由党を積極財政へと導いた土佐派よりも、尾崎や小川らは消極財政志向が強かったという差異があったと言える。一方で、自らが政権を担うことを目指していた点では(自由党復興の動きが政権を目指さないものであったとは考えにくい)、土佐派は帝国党や中正倶楽部と異なっていた。それらの勢力と対立することなくまとまり、山県-桂系の中心にまでなるか、あるいは取引して政権を得ることができなければ、彼らは満足できる状況に身を置くことができなかったはずである。だがこの時はまだ、母体(立憲政友会。自由党系と言っても良い)での自らの影響力の回復を果たせなかったことに対する失望、それを許さなかった母体に対する反発が、先行していたのだろう。

総裁専制に対する反発で一致していたからこそ、土佐派の片岡健吉、小川と共に離党した山口熊野と日向武輝の首唱によって、大同団結運動、愛国公党時代の人々、立憲政友会、同党離党者、除名者等による、旧友茶話会が設けられた。日向は責任内閣樹立で一致し得るとしたが、同会が政局を仕掛けることはなかった。6月17日付の東京朝日新聞によれば、出席した衆議院議員は次の通りであった。どの勢力で総選挙を迎えたかによって、そしてそれぞれ五十音順に筆者が整理した。元衆議院議員の出席者も挙げられているが、省略した。その中で、次の第9回総選挙で当選するのは、甲辰倶楽部に参加する石塚重平と石田貫之助、無名倶楽部に参加する高橋安爾(記事では安次)である。

・同志研究会:小川平吉、尾崎行雄、島田糺、中西新作、日向輝武、宮崎鏋三郎、望月小太郎、山口熊野

・交友倶楽部:内山敬三郎、早川龍介

・自由党:浅野順平、和泉邦彦、大沢庄之助、小田貫一、串本康三、駒林広運、関信之助、関根柳介、田村順之助、中谷宇平、高橋庄之助、田中喜太郎、丹尾頼馬、持田若佐、藻寄鉄五郎、矢島中、渡辺鼎

・無所属:板倉中、堀家虎造

・立憲政友会:池松豊記、井上甚太郎、井手毛三、奥野市次郎、瀬下秀夫、田中定吉、恒松隆慶、戸狩権之助、根本正、松田吉三郎、三浦盛徳、渡辺修

同日の同紙はまた、第1次桂内閣との妥協自体に反発した片岡と、彼の離党を思いとどまらせた林らとの間の溝が、広がっているとする。

6月30日付の読売新聞は、旧友茶話会として3回の会合を遂げた旧自由派が、社交クラブを結成することになったこと、自由党の再興について、関東派が一番躍起となっているらしいこと、土佐派のうち林有造、山本幸彦、西山志澄(元自由党衆議院議員で、次の第9回総選挙の1906年12月の補欠選挙で、立憲政友会の候補として当選)ら「所謂老輩組」と、それに接近する一部がこれに賛同し、西山らが「関西の政友會を掻きまぜて居る」こと、土佐派の中央派、郡部派、革新同志会が計画している新政党が、自由党再興などではなく、彼らが健全な政党を組織する決心であること、林、片岡、山本、西山らがこれを中央における計画に紐付けようとしているものの、加勢しようとする者は少なく、栗原亮一、杉田定一、改野耕三らも大反対であることを伝えている(註6)。旧友茶話会が結成することになった社交クラブが同志集会所であった考えられる。また同紙は、旧友茶話会が板垣を戴き、渡辺国武に助けさせ、尾崎、片岡、林らを幹部とし、自由党出身者以外の中立派も糾合して、立憲政友会、憲政本党と、政界を三分する企てで、本気で運動している者もいるとしている。これが本当なら、既存の大政党に引けを取らない議席数を誇る勢力を目指していたのだと言える。キャスティングボートも、握ろうとしていたのかも知れない。とりあえずは、後にしてきた立憲政友会ではなく、憲政本党と組んで、立憲政友会を牽制するというのなら、立憲政友会離党者の山本実彦らが、憲政本党と組もうとしていたという、次の、10月16日付の原敬の日記(『原敬日記』第2巻続篇111~112頁)とも矛盾しない。

叉先頃政友會を脱したる山本幸彦と鈴木充美外一名とが進歩黨に會見を求め、加藤政之助、關直彦之に面会せしに、六十名斗りの一團體を作り進歩黨と氣脈を通じ幹部の提携をなし政進と鼎立の形態をなさん事を説き、夫が爲めに一萬圓を大隈より出金あらん事を内話し、板垣も同意の旨を語りたるに因り、加藤等之を大隈に報告せしに大隈は之を加藤高明に諮れと云ひたる由にて、昨日加藤來訪談話に付程能く挨拶し置きたりと物語れり、土佐派並に政府の使嘱に応じたる新政黨も殆んど立却地なく困厄の地に在れば大隈に結ばん事を求めたるものならん。

7月3日付の東京朝日新聞は、計画中の新政党が、「停車場待合室」のような「種々なる分子の集合體」であり、融和のために政党の組織を当分見合わせて、社交倶楽部を設けることでまとまったとしている。また、関係していた諸勢力を次のように分類している。

・板垣系:いわゆる土佐派で、近畿派の一部が加わる。

・渡辺系:信州組と称される渡辺国武の股肱(石塚、堀内、龍野、小川)、北陸の一部を加味。

渡辺自身が直ちに立つかは未定だが、組織に参画しているのは事実。

・河野系:河野広中が率いる東北組、立憲政友会を脱した鎌田三之助、渡辺鼎。

山形、秋田で同志を糾合しつつある。

・関東組:旧自由党の、多摩の石坂、関根、比留間、神奈川の栗原、栃木の持田、田村、矢島、群馬の高橋、埼玉の宮崎で、浜名を除く茨城、板倉を除く千葉もほとんどが投ずる模様。

・中国及び九州:広島、岡山を中堅とする小田貫一(井上角五郎が黒幕)、九州では鹿児島の和泉邦彦、宮崎の川越進が斡旋している。

 

そのように見られていた中でも、大井憲太郎は、社団組織として同志を糾合すれば、板垣も遊説するため、衆議院の半数の議員を得られるとした(1903年7月17日付読売新聞)。

7月30日には、同志集会所の、小田貫一、関信之介(旧政友倶楽部系)、森隆介、持田若佐(旧政友倶楽部系)、直原守次郎、川越進(旧政友倶楽部系)、高橋庄之助、渡辺鼎といった立憲政友会離党者、次の第9回総選挙で自由党から当選する楠目玄(立憲政友会を除名され、同じ土佐派の山本と共に、離党の理由が違う片岡と林との調停に尽力―1903年6月29日付東京朝日新聞―、次の第9回総選挙で自由党から初当選)、かつて自由党関東派であった大井憲太郎、石坂昌孝、無所属の高野孟矩らが集まり、檄文を発表した(1903年7月31日付東京朝日新聞)。小川は同日付の、新党結成反対の書簡を、小田貫一、山本幸彦に送っている。それは大政党組織を困難だとしながら、だからこそ、「広く同志を糾合するの道を開くことを努めす、早く自ら城壁を築きて一団を作るか如きハ独り自家之不得策たるのみならす、又実ニ政界之恨事たるへくと存候。」と反対を説いている(酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』251頁-小川平吉関係文書-)。彼らは檄文において、新政党結成のために同志集会所を結成したとした。7月18日付の読売新聞によれば、同志倶楽部(記事には板垣、大井、小田、石塚、石坂、山本の名が挙がっており、同志集会所そのものか、ほぼ同じ集まりを指すものだと考えられる)に、新党の主義綱領の起草を板垣に頼むなど、新党結成への動きが見られた。倶楽部内には、直ちに結成すべきだという声と、次の第19回帝国議会前に結成すべきだという声があったという。いずれにせよ、結成に積極的であったわけだが、西園寺に総裁が代わった立憲政友会に復党しようとする者もあり、立憲政友会の切崩しは叶わないという見方を、記事はしている。当時は、近衛篤麿の社交倶楽部結成の話も進んでおり、報道もなされているが、双方の関係については報じられていない。9月9日付の東京朝日新聞は、東京府郡部選出の堀田連太郎(憲政本党)が信州組の石塚重平、龍野周一郎(無所属。立憲政友会を除名されて政友倶楽部を結成するも解散)、北村英一郎(無所属。自由党系から総選挙に立候補していたことがあるが当選はしておらず、9月17日付の読売新聞で離党が報じられている)、木内信(中正倶楽部)、堀内賢郎(元自由党衆議院議員)、両角六彦(中正倶楽部)、中村弥六(前無所属衆議院議員。第6回総選挙後憲政本党を除名され中立倶楽部に参加―第6章第3極(⑱)参照-)らと密議をしており、渡辺国武の関係もあるとしている。石塚が新政党とだぶっていて、小川の名がない。久保田與四郎(長野県軍部選出の憲政本党議員)は一度だけ会合に加わったものの、憲政本党との関係上出席を拒絶したのだという。11月1日付の読売新聞は、高知県選出の島田糺と岡崎賢次(第8回総選挙において高知市で無所属として初当選)が新党結成を決心したものの、土佐の先輩と和合し難い感情の衝突があることから、板垣らの新党とは関係せず、健全分子を結合する考えだと報じている。当時の「健全」とは、第1次桂内閣に反対する立場を指すといえる。11月22日付の読売新聞は、片岡健吉を失った土佐派が、同志集会所を根拠に行動を起こそうとする林、竹内綱、山本幸彦、西山志澄、民党連合を標榜して大石正巳(憲政本党要人)につき、憲政本党に入るか、立憲政友会に復党する決心だという島田、岡崎に分立したことを報じている。片岡の死が無くても、双方に志向の違いがあったことは、ここまでに見てきたことから分かる。島田と岡崎は小川らの同志研究会に参加することになるから、やはり「健全分子」であったのだ。同志研究会の系譜には、2大民党の連携を策し、いずれかに属すことにも前向きな議員達が含まれていたという見方もできる。そして、11月24日の新政党打ち合わせ会には、次の議員達が出席した(1903年11月25日付東京朝日新聞)。なお、発起人会において、新政党を援助することを誓った板垣と、新政党との関係を定めることとなった。どの勢力で総選挙を迎えたかによって分け、それぞれ五十音順に、筆者が整理した。元衆議院議員の出席者も挙げられているが、省略した。その中で、次の第9回総選挙で当選するのは甲辰倶楽部に参加する石塚重平と石田貫之助である。

・同志研究会:小川平吉、中西新作、宮崎鏋三郎(記事では「鏋之助」)、山口熊野

・交友俱楽部:-

・自由党:和泉邦彦、大久保忠均、小田貫一、川越進、駒林広運、栗原宣太郎、関信之介、高野孟矩、田村順之助、林有造、牧野逸馬、藻寄鉄五郎、山本幸彦、渡辺鼎

・無所属:-

・立憲政友会:-

 

実際にほとんど自由党に参加する者達だけによる、つまり同志集会所による、新党組織準備会も開かれてはいた(註7)が、ここでは小川や山口といった、同志研究会を結成する議員達が、集まりに出席をしている。この集まりを、やはり彼らが出席していた、上述の旧友茶話会の参加者と比べると、交友倶楽部に参加する議員、立憲政友会に留まる議員が脱落していることが分かる。前者についてははっきりしないが、立憲政友会のさらなる切崩し、同党の離党者達を仲間にすることに、失敗したようだ。

1903年11月22日付の読売新聞は、議員集会所の衆議院議員等が、中立派を糾合して、接近する2大政党を分裂させようとしていること、同志集会所の一派が、立憲政友会の地盤を侵食しようとしていること、双方が議長問題を好餌として、臼井、佐藤らは憲政本党を「釣り出し」、田村、持田らは「舊自由黨の看板を掲げて政友會を攪亂」しようとしたこと、板垣か渡辺を掲げて2大政党に対抗する魂胆であるらしいことを報じている。11月には、対外硬派の右派と、自由党を結成する議員達との一体化が、明確になっていたのである。そしてそれは、2大政党を引き離し、第3極の影響力を、少なくとも相対的には強くする、山県の3党鼎立構想にも、自由党再建派の展望打開にも、有効な策であった(もちろん成功しなければ意味はないが)。その1週間ほど前、11月16日付の萬朝報は、大浦兼武が2大政党の連合を妨げるため、政友会離党者によって立憲政友会を、対露派によって憲政本党を牽制しようとしつつあると報じている。1903年12月1日付の読売新聞は、「帝國黨を始め中立一派」つまり帝国党や中正倶楽部、立憲政友会の離党者を含む無所属が、立憲政友会と憲政本党を離間させようとしており、佐々友房(帝国党)の一派が連合策の裏面をかこうと、立憲政友会を出し抜いて河野広中(憲政本党)を議長候補とすることを憲政本党と交渉したこと、さらに憲政本党の「革新派」(対外強硬派)を抱き込もうと、外交問題を引っ提げて遊説していることを報じている。河野を議長候補とすることについて、立憲政友会に異論はなかった(旧自由派には多少異議あったのだという)。記事にある通り、河野は離党者とは言っても、かつての自由党の功労者であり、このことでは、立憲政友会と憲政本党の連携は崩れなかったのである。共に立憲改進党出身の、犬養毅と大石正巳が抑える憲政本党が、分裂することもなかった。対外硬派右派の動きは失敗したのである。この帝国党の対外交硬派の動きは、第1次桂内閣の安定的な支持基盤の形勢、あるいは少なくとも圧倒的多数の野党陣営の破壊を目的としていたから、これが達成されなかった時点で、準与党であった帝国党が対外強硬派である意味は、失われた。佐々は、当時の衆議院の勢力分野に関するメモを残している(酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』262頁―佐々友房関係文書―)。それによれば、反対勢力は立憲政友会、進歩党、同志研究会、新潟進歩党、無所属であり、同志は帝国党、中正倶楽部、無所属組、新政党であった。彼は同時に理想として、反対が立憲政友会(100人)、進歩党(50人)、無所属(17人)、同志が帝国党(18人)、中正倶楽部(33人)、無所属組(30人)、新政党(40人)、平岡派(33人)、脱会派(27人)、新潟派(8人)という勢力分野を考え、記している。「脱会派」というのは立憲政友会のさらなる離党者を指すのだろうか。いずれにせよ、対外硬派が幅広く吏党系の陣営についた場合を理想としている。

12月4日に開かれた、新政党懇親会の参加者は以下の通りであり(1903年12月5日付東京朝日新聞)、以前にはあった同志研究会参加者の出席がない。どの勢力で総選挙を迎えたかによって、そして五十音順に筆者が整理した。元衆議院議員は省略したが、第9回総選挙で当選するのは、甲辰倶楽部に参加する石塚重平と、自由党から当選する楠目玄である。

・同志研究会:-

・交友倶楽部:-

・自由党:上田實、大久保忠均、小田貫一、川越進、串本康三、駒林広運、関信之介、高野孟矩、高橋庄之助、龍野周一郎、田村順之助、中谷宇平、丹尾頼馬、濱野昇、林有造、牧野逸馬、持田若佐、山本幸彦、渡辺鼎

・無所属:板倉中

・立憲政友会:-

 

小川平吉は、既成政党の所属議員達を除外した、既成政党勢力を横断する倶楽部組織によって多数派を形成しようとしており、その主要勢力として予定していた政友会脱離党者が新政党を結成することには、反対であった(酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』250~251頁。小川が、既成政党の離党者等を広くまとめようとしていたということだろう。8月15日付の東京朝日新聞は、小田貫一が新政党組織運動への賛同を小川平吉に求め、断られたことを報じている。このような相違が、すでに同志研究会を結成していた議員達と、自由党の結成に参加する議員達を分けた。筆者が知る限り、同志研究会の結成以後、同派のメンバーは、新政党に関する集まりには参加しておらず、同派の結成を以て、自由党再興の志向を含んでいた新党運動の参加者と、同志研究会の参加者との分化は、決定的なものとなったのだと言える(1903年12月31日付の読売新聞に、信州出身の石塚重平、小川平吉、小出八郎右衛門、堀内賢郎らが渡辺国武を担いで信州独立党組織を名目に活動することを計画しているらしいことが、報じられてはいるが、この構想は当時すでに放棄されていたか、されていなくても、2大政党との民党共闘が既定路線になっていたと考えられる)。

各勢力の協力、対立関係が分かるのが、衆議院の正副議長選挙や全院委員長選挙である。全院委員長は、議会のポストを独占することを得策としない大政党が、他の勢力に譲ったり、議長のポストを獲得するための取引材料としたりすることも多かったため、小勢力に割り当てられることが多々あった(註8)が、立憲政友会、憲政本党、同志研究会は、立憲政友会の長谷場純孝を推すことで一致した。そして帝国党、同志集会所、中正倶楽部、交友倶楽部、無所属は、憲政本党の提携反対派の協力を期待して、神鞭知常を推すことにした(12月10日付東京朝日新聞。ただし交友倶楽部については、11日付の読売新聞は、長谷場に決定したものの、全員が一致することはできないとしている)。長谷場と神鞭が、かつて共に対外硬派の戦列にあったことから、当時対外硬派の旗に、小さくない影響力があったことが窺われる。このことを報じた12月10日付の東京朝日新聞は、衆議院の勢力分野を次の通りだとしている。立憲政友会128、憲政本党85、同志研究会19、計232。帝国党18、中正倶楽部33、同志集会所42、交友倶楽部18、無所属33、計144。そして憲政本党提携反対派、つまり長谷場ではなく、神鞭に投じる可能性がある議員の数を、36名としている(それでもまだ逆転はできないが)。当時の衆議院の定数は376であったから、同志集会所は、無所属との出入りが多くなかったのであれば、大部分が自由党の結成に参加したのだということになる。筆者はそのような出入りがあったことは、確認していない。

衆議院が解散されたこともあり(権力を握るが政党に否定的な山県-桂系と、組織力があり、個々の有力者に依るところも大きかったとはいえ、多くの選挙区にしっかりと根を下ろしていた2大政党―特に自由党系の立憲政友会―、そのどちらの陣営から出馬するのが有利かは、当時一概には言えなかったが、それまでの経験で言えば後者であったはずだ)、2大政党分裂の動きは12月中に落ち着き(事実上河野と、交友倶楽部に移った横堀三子が離れただけの憲政本党は、分裂しなかったとして良いだろう)、薩長閥政府側が手を入れる余地は、もうなかったといえる。日露開戦は、大きな政争を回避できたという点で、山県-桂系にとって、とりあえずは有利であった。しかし同時に、大政党分裂の可能性が、さらに小さくした。かなりの多数派であった2大政党と新民党の連合を過半数割れに追い込み、自らの支持基盤を過半数に到達させることはできなかったのである。

Translate »