日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
民主党系と維新の会の、あるべき関係

民主党系と維新の会の、あるべき関係

維新の会を含む野党が、コロナ対策として共同で、事業者家賃支払い支援法案、続いて、児童扶養手当受給者に対する臨時特別給付金の支給に関する法律案を提出したのは、非常に素晴らしいことであった。維新と左派野党の協力は限定的なものだろう。理念や政策が異なるのだから仕方がない。しかし、いがみ合っていることで失われるものの大きさに、少しでも気がついて欲しい。共に法案を出せるのなら、公開討論もしっかりできるのではないか。こういうことの積み重ねで国民が得るものは大きい。他者の番組やイベントに出るだけではなく、立憲と維新が主催して議論がなされるのなら、両党の関係も、互いを単に見下すような、幼稚なものではなくなっていくだろう。

立憲民主党は、野党第2党以下の支持率が下がるのを待っているようにも見える。他の民主党系の政党(国民民主党)、維新の会、れいわ新選組は、立憲民主党が野党第1党でさえあり続ければ、やがて弱るということである。しかしこれらの党から、立憲民主党が学ぶべきことはないのだろうか。何でも敵視していれば良いというわけでは当然ない。もし維新の会の支持率が下がっても、立憲は維新を軽視すべきではない。もはや大阪では、維新は仮に何か失敗しても、全体的には感謝されるほどの状況だと考えるべきだ。それに維新の会が消滅しても、左派野党が多くの人にとって魅力的な存在にならなければ、また足を引っ張る政党は必ず現れ、一定の力を持つ。それは、政策の需要のためだけではない。その需要は自民党が担い得るし、左派野党に対するそれ以外の点での不満が、まだあるのだ。

「維新の会は自民党に逆らえるか」で述べた「フリーライダーの問題」について、もう一度述べておく。民主党系が自民党を批判すれば、それを目にした国民の一定数が自民党を支持できないと考え、その一部が民主党系に票を投じるのだが、また別の一部は、民主党系を批判ばかりだと捉え(実際にどうであったとしても)、維新の会に票を投じる。そうなれば、自分達は民主党系のように無駄に政権の足を引っ張らないとする維新の会が、相対的に浮上し、または意図的に民主党系を批判して浮上し、フリーライダー状態となる。これではしかし目立つための決め手には欠ける。だからコロナが蔓延しなければ、これほど維新の会が注目されることはなかった。単独では自民党を倒せない民主党系を批判することは、権力をほとんどずっと握り続けている自民党を批判するよりも、リスクが小さい。

これはアンフェアなだけではなく、事態をさらにいびつにしかねない。そうであれば、民主党系と維新、双方に得となるように、効率的に役割分担をした方が得だ。

まずは、提案と対案は両方とも重要だが、片方がどちらかを担当するというのではなく、追及または提案の内容ごとに、党の特性に合わせて割り振る。例えば維新は癒着、利益誘導政治を批判し(そのためには維新がクリーンでなければならない)、問題があると考える規制の撤廃を提案する。民主党系は格差の拡大を批判し、改善策を提案する。

選挙の時に民主党系と維新が対立し、左右に分かれて自民党をたたけば、自民党が漁夫の利を得る。「中道でちょうど良いもかもしれないし」と、支持を得る可能性すらある。しかし、問題点を指摘する場である国会では別だ。自民党の「何でもあり」のあいまいな、先送りの姿勢を国民にさらすことになる。「どっちなんだ?」、「どうする気なのか?」と迫るのだ。そして選挙の時には、「そんな自民党をまずは倒さないと何も始まらない」として、民主党系と維新の会が協力をする。このような協力は、自民党に利用されないためにも重要だ。

自民党に利用されるというのは、主に次のことだ。自民党政権が、民主党系の追及がわずらわしい時には維新の会をかわいがり、維新の会の提案(改革の要求)がわずらわしくなれば、民主党系をかわいがる、自民党中心の「三角関係」だ。

自民党と維新の会は、安倍総理や菅義偉官房長官と、橋下や松井代表が通じている。自民党と、野党第1党の民主党系は、それぞれの国会対策委員長等によって通じ得る(国対政治)。そして双方が、「あいつは政権と通じている」、「あいつのせいで政権交代が起こりにくくなっている」と批判し合っている。これでは自民党が笑うばかりだ。

こうして民主党系と維新が選挙で共倒れをすると、そしてその状況を見て国民民主党が自民党側に寄ると、その先には1党優位のさらなる強化、さらなる1強多弱化が待っている。1強多弱とは、必ずしも弱い政党の数がやたらに多いということではない。政党の「弱さ」が深刻な状況であるということもある。

日本には普通の組織政党がない(組織政党は宗教団体を基盤とする公明党と社会主義の共産党だけだと言える)。しかし自民党がそれでも強い政党であることは、これまで見て来た通りだ。公明が創価学会の利害を、維新が大阪の利害を、国民民主党系(≒民社党の流れ)が民間労組、さらには立憲民主党(≒社会党の流れ)が公務員の利害を、それぞれ自民党に向かって代弁するというように、第2党以下の多くが単なる利益団体になってしまうことを、本当に心配する。利益団体では嫌だという議員はいるだろうが、彼らは自民党への移籍を目指すだろう。

時代の変化に合わせて改革を進めるべき維新。弱い立場になった、なりうる人々を守るべき左派野党。これらが死闘の末に共倒れし、何色かもわからなくなっている自民党が表面を取り繕いながら殿様政治を続ける。しまいには経営者層と被用者層が、一部は間接的にであっても、同じ自民党の基盤となる(経営者である人物と被用者である人物が、共に同じ政党を支持することは十分あり得るが、経営者の主な連合体と被用者の主な連合体が同じ政党の支持基盤となるのは異常である)。これでは日本人の生活が、取り返しのつかないことになる。

世界的な競争が激しくなる時代なのだから、経営者層と被用者層が団結しなければいけないという面はある。しかしそればかりになると、人間のする仕事が減るであろう中で、少数の強者に都合の良い国、さらには世界になってしまう(社会主義革命ではないが、資本家や経営者ではない、世界中の人々の連携はどうしても必要になるだろう。それはつまり、各国の社民系、あるいは左派ポピュリズム系政党の連携という形になるべきであろう。また改めて考えたい)。

日本の未来は今、野党にかかっている。だからこそ枝野は、新自由主義は自民と維新にくれってやると、左派政党になろうと、腹をくくったのだと思う。そう信じたい。そうでないのなら、野党第1党(の党首)という地位だけを守ろうとしているのだということになると思うが、そんなことでは、その地位も守れないだろう。かつての社会党のようになってはいけないが、今さらそんなことはないだろう。それでは支持が全く広がらない。小選挙区中心の選挙では生き残れない。

社会を変えてしまう力がある政治だからこそ、アクセルとブレーキの両方が求められるという面もある。それを強く踏む、あるいはそもそもの路線を変えるという、(比較的)大きな変化は、政権交代を通してなされていくべきだ。政権交代が繰り返されれば、2大政党の間の競争もリアルなものとなり、優位政党に多くの利益団体や政党が恒常的にぶら下がることにはならず(より明確な取引になる)、各党が政策を競うようになる。

最後に誤解を恐れずに言うと、第3極はつぶさなければいけない。ただしそれは2大政党制にすることとイコールではない。政党を左右の2つのグループ(ブロック)に分け、その2つのグループ(ブロック)がが対立するのでも良い。いや、筆者はその方が良いと考えている。現状で言えば右のブロックは自公維、左のブロックは立国共れ、ということになる。各ブロック内では、支持率等に応じて、各党が発言力を持つ。左右それぞれが、理念や政策を競う。これについては近く改めて述べることにする。

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