日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極の2極化

第3極の2極化

2大政党(自民党と民主党)が共に新自由主義的だとは言えない状況下、日本の政界に、新自由主義派として、第3極が復活した。みんなの党の誕生である。

小泉政権によって自らの支持基盤を削った自民党が、安倍内閣以降、新自由主義から利益誘導政治へと、先祖返りをする傾向を見せると、行革担当大臣として挫折した渡辺喜美が、自民党を離党、かつて官僚として橋本行革に携わった無所属の江田憲司らと、みんなの党を結成したのである。その結成は2009年、民主党への政権交代の直前であった。しかし安全保障等でも左旋回をし、改革のブレーキとなる面を持つ労働組合(特に公務員の組合だが、脱原発については原発に関係する産業の労組が反対するため、その支持を受ける民進党は積極的になれなかった)に依存する体質を維持する民主党とも一線を画す政党として、みんなの党は一定の支持を得た。それが民主党政権に対する失望が大きくなると共に、人気を高めたのである。

みんなの党より3年後に誕生した日本維新の会も、同様に、自民党に対して不満を、民主党に対して不安や不満を持つ有権者の、受け皿となった。みんなの党が中央で改革に尽したが守旧派のために挫折した経験を持つ勢力であるなら、日本維新の会は、規模がより小さい地方の政治において、守旧派の影響力を弱め、改革を実現した勢力であった。この2種類の経験は、互いを補完し合えると筆者は思ったが、そうはならなかった。また改めて述べるが、簡単に言えば、仲良くできなかったのである。

それでも結局、新自由主義的な政党が第3極の主流を占める状況は変わらなかったが、ややこしいことに第3極にはもう2つ、異なる潮流が現れていた。

1つは真の保守を自認する勢力である。新自由主義的になった自民党を離れた議員達によるものである(実態は権力闘争に負けて追い出されたという面が大きいが)。それは2005年に結成された国民新党と新党日本であった。後者は、当時人気があった改革派の田中康夫長野県知事を党首としたことで怪しくなった(田中は新自由主義的改革には批判的であったが、保守派だとは言い難かったし、2003年の総選挙の際には、民主党の、政権交代後の入閣予定者に名を連ねていた)。

両党とも、小沢が党首となった民主党の陣営に移り、両党に入らなかった郵政民営化反対派のほとんどは、自民党に戻った。

そのような状況下、自民党にも戻らず、民主党の陣営にも移らなった郵政民営化反対派の平沼赳夫が、野党に転落した自民党を離党した議員達と新党、たちあがれ日本を結成した。これもまた、真の保守を自認する政党であった。同党は、民主党政権に嫌悪感を持つ、自民党支持層の中の右、自民党より右の有権者から支持されたのである(支持層は厚くはなかったが)。ちなみに同時期、新党日本を離党した新井広幸と、自民党によって民主党から切り崩された議員達による改革クラブ、そして野党に転落した自民党を離党した舛添要一らによる、新党改革も誕生した。

さらに、鳩山由紀夫内閣が倒れて右旋回を見せた民主党を離党した議員達、同党に同調した国民新党を離党した議員などが、日本未来の党を結成した。民主党の右旋回とは、格差是正を最も重視する姿勢から、財政規律を優先して早期に消費税を増税する方針、農業の保護を最重要視する姿勢から、TPP参加に舵を切ったことを指す。民主党を離れて名古屋市長に当選した河村たかしは、それより前の2010年に減税日本を結成、民主党を離党した衆議院議員1人を加え、その後さらに同様の議員を加え、国政にも足がかりを得ていた。同党は、たちあがれ日本→太陽の党と合流することで合意したものの、太陽の党が日本維新の会に合流する際に、日本維新の会に政策が違うと拒まれ、日本未来の党の結成に参加した。

補足すると、民主党の離党者によって2011年の暮れに新党きづな、新党大地・新民主が結成され(後者は離党者と新党大地が合流)、さらに2012年に民主党を離党した議員達が国民の生活が第一、みどりの風、反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党を結成した。最後のものは国民新党を離党した亀井静香との合流であり、総務省への届け出がなされないまま、減税日本と合流した。是等が全て合流し、嘉田由紀子滋賀県知事を担いで日本未来の党を結成したのである(みどりの風は参議院議員のみとなって存続)。やはり民主党の離党者が加わった日本維新の会の結成と太陽の党の合流なども同時期にあったことを考えると、国民が、とてもついていけない、あまりに目まぐるしい再編であったといえる。

整理すると、民主党政権下、新自由主義のみんなの党、右翼的で新自由主義的改革に否定的なたちあがれ日本、社会民主主義的な国民の生活が第一が存在し、そこに新自由主義的な日本維新の会、さらなる社会民主主義的な諸政党が誕生し、再編を経て、右よりで新自由主義的な日本維新の会、同様に新自由主義的なみんなの党、社会民主主義的な日本未来の党に整理されたのである。この間、自民党の総裁は中道的な谷垣禎一から、右寄りの安倍晋三に代わった。

2大政党の変化は当然、第3極として存在意義のある政党をも変える。2009年の政権交代後は、中央に寄った自民党の右、自民党が失った新自由主義の政党に存在意義があった。かつて野党が多党化したように、今度は「新野党」自民党が「多党化」したように見えた。しかし民主党が右旋回すると、民主党の左(それまで民主党がいた位置)が空いて、民主党離党者が陣取った(しかし結局、評価されたのは最左派の共産党であった)。左に寄っていた主要政党が短期間で右に寄ったことも、第3極の変化を激しいものにしたのだといえる。しかしそれでも、また総選挙で自民党1党優位の状況が強化されて再来し、民主党が左によっても、いや左に寄ったから、第3極の中心は新自由主義政党であり続けたといえる(民主党の議席が多かったためにその離党者も多く、日本未来の党は結成時60を上回っていたが、それだけの支持を得ていたわけではない)。この2012年の総選挙における負けっぷりを見ると、本来は社会民主主義的であり、安倍自民党の前ではそこに立ち返るしか道がなかった民主党と、新自由主義的な日本維新の会とみんなの党が、自民党に対する挑戦者の座をかけて戦うことが予想された。再度の政権交代は、実現するとしても、その後、遠い未来のことなのだと、筆者には思われた。

つまりは、2大政党がフラフラする中、最も右(新自由主義派も今日では最右派といえる)と最も左として、姿勢が明確な政党が求められたのだといえる(1996年と2014年の共産党の躍進には、左派勢力の消滅を回避する策という面もあった―1996年の場合は社民党がボロボロになり、そこから誕生した民主党も、社民党より左派色を弱めた政党になったという背景があった―)。

これは欧米で、中央に寄る2大政党に対する不満を、極右、極左の政党が吸収した事と似ている。ただし日本では2大政党が中央に寄ったというよりは、フラフラしていたことで、「極右と極左」と言うよりは随分穏健な、新自由主義(右派)、社会民主主義(左派)の政党が求められたのだろ言える。社会民主主義の政党は、民主党内紛の悪印象のために壊滅したが、現在、立憲民主党が支持されていることから、やはり求められていたのだということが分かる。

例えばドイツでは、キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟と自由民主党が右のブロック、社会民主党と同盟90/緑の党が左のブロックを形成していた。さらのその左に左翼党(旧東ドイツの独裁政党の後継であった民主社会党と、右に移動した社会民主党の離党者が合流)が存在し、右にドイツのための選択肢が誕生した。極端な左翼と右翼(ドイツでは右翼)の伸張が見られることも合わせて、ヨーロッパの議会の勢力分野の、スタンダードのような面を持っているのがドイツだと言って良いだろう。

同じように4極化、右翼的な政党と左翼的な政党が見られる日本だが、このような型とは明確に異なる。やはり1党優位であるからだ。野党は左側が国民民主党、立憲民主党、日本共産党と、ドイツのように一定の勢力が存在しているのに対して、右側は、たちあがれ日本~日本のこころも日本維新の会~大阪派による日本維新の会も弱体化し(前者は日本維新の会と合流していた時に議席を増やしただけで、元々弱かったといえるのだが)、自民党だけが太っている。極端な政党の躍進を心配する必要はないものの、野党の弱さと自民党の右傾化と権威主義化を心配しなければならない。1党優位制は、過去の欧米のような状況も、ここのところの欧米のような状況も、飲み込んでしまう魔物なのである(自民党がなぜそのような強い魔物であるのかは、次に述べる)。

 

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