日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~中立3会派分立の経緯~

補足~中立3会派分立の経緯~

第3回総選挙によって、多くの新たな中立と見られる無所属議員が誕生した。長州閥伊藤系には彼らをまとめる必要があった。実業家等の、無所属の中立議員を1つの会派にまとめようとしていた第2次伊藤内閣の動きを、総選挙後の書簡を用いて追う。まずは、1894年3月17日付伊藤宛の伊東の書簡(『伊藤博文関係文書』二274~275頁)である。

檜山本日午後面会、昨夕之事も委細聞受申候。稲田は何分不安心なりとて外方より屢々注意を受候へとも、小生との関係は何人も承知不致所より、右様懸念致候事とは存候へとも、万一にもと存し一昨夜深更呼寄篤と敎誨を加へ置、於当人も決して弐心無之旨相誓候に付深く将来を約束仕置候。昨夜末吉の提議に対し、稲田一人は却て他よりも明亮に断言致し候由に付大に安心仕候。高梨も柴四郎〔朗〕之勧告より内々応諾致し候筈に相成居候間、此義は何人にも御漏し被下間敷候。先是に而東京五人組は慥に団結可致候。

岐阜県之準備は党中小生の知人岸小三郎昨夜来訪、先日小生之手先に而一時之窮難相救候事を深く恩とし、今度之議会に於ては必す相弁可申とて、同県選出之議員取纏之事に尽力可致約束致し、一両日中には是も好結果を得可申と存候。

中立議員取纒の事は案外の好結果を得可申候に付ては、自由党との提携如何は実に刻下之急務に有之、今朝中島氏との御面議夫々御運被下候義と奉存候。追々形勢切迫に及候間、此際時機を失し候ては忽ち彼我対敵之地歩を占め候事に相成、当分和協の道難相立歟と懸念仕候。陸奥も頻に心配致居候ものと相見へ、今朝小生を呼寄られ此際充分尽力可致呉との事に有之候。

中立の当選者達は、伊藤系が努力もせずに当てにできる存在ではなかったようだ。「東京五人組」が誰を指しているのかということについては記されていない。しかし東京1、2、3、5、6、8区の無所属の当選者6名のうち、末吉忠晴(本章第3極実業派の動き1列の関係(①)参照)をのぞく5名であるはずだから、伊藤系が1~8区のうち、無所属の当選者のほとんどを固めたと考えていたことは確かだろう。

次に岐阜県について、第2区選出の無所属、岸小三郎が中立の取りまとめに尽力することを約束したことが記されている。岸は総選挙後、大垣区裁判所において選挙法違反として罰金刑に処せられた(1894年4月1日付読売新聞)が、控訴し、岐阜地方裁判所で無罪となり、当選無効を免れた(1894年4月26日付読売新聞)。伊東は上に引用した書簡において岸の窮難を救ったとしている。3月と推定される17日付の書簡であるから岸に対する判決より前だということになるが、総選挙に関して何らかの支援をしたのかも知れない。東京朝日新聞は、岸の反対者として、前郡長で国民派(国民協会系)の鈴木徹が運動を開始し、岸が不意を打たれて狼狽したと報じている(1894年2月27日付東京朝日新聞)。

岐阜県内の選挙区は、第1回総選挙において、全7区のうち6区を吏党が得て、1891年10月に起こった震災から約4ヶ月後の第2回総選挙においても、吏党が全議席を得て、自由党が唯一の議席を失っている。そして同県では、震災に対する国からの補助金が被災者の救済にはほとんど使われず、被災者等の反発を受けていた小崎利準知事が第2次伊藤内閣期に事実上辞職させられている。その小崎は、震災当時の品川内務大臣の対応に感激したとして、国民協会に加わっている(小崎利準『國民恊會に入會するの趣旨』)。このような状況では、第2次伊藤内閣が、吏党の系譜に参加した候補者達を支持してきた岐阜県の有権者にどう評価されていたのか、判断することが難しい。第3回総選挙の結果を確認すると、無所属が4議席、国民協会、自由党、立憲革新党が各1議席を得た。書簡を見る限り、伊藤系はこの無所属4人の取りまとめにも自信を持ったようである。

3月17日付の書簡からは、第2次伊藤内閣が、中立会派と自由党を共に、自らの支持基盤としようとしていたことも分かる。自由党は第3回総選挙において119議席を獲得したから、第2次伊藤内閣が衆議院に過半数の支持基盤を得るには、少なくとも、あと32議席が必要であった。自由党の全衆議院議員の支持を得ることは、それほど容易なことではなかったから、実際は32議席でも安心はできない状況であった。国民協会は大敗したといっても32議席を得たから、合わせてちょうど過半数に達する自由党と国民協会、それに無所属の一部の支持を得ることができたならば、過半数を一定程度上回る基盤の形勢は容易であった。しかし国民協会を除いた場合には、対外硬派を切り崩さない限り、少な目に見ても35議席程度の支持派を、無所属の当選者の中から得なければならなかった。

第3回総選挙における無所属の当選者は50名であった。無所属に薩長閥政府寄りが多いとはいっても、国民協会すら野党となっていた当時、このうちの35名を固めることは、容易なことだとはいえなかった(当時の無所属議員の立場を知るには、本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-Dにまとめた上奏案に対する賛否が参考になる)。国民協会を大敗させることに成功しても、これを敵とする以上、伊藤系が衆議院に過半数の支持基盤を形成することは、困難であったのだ。このため、伊藤系は国民協会の切り崩しに動いたのだと考えられる。その動きは、すでに第3回総選挙の前から始まっていたようである。

1893年11月30日付(『伊藤博文関係文書』二260~261頁)、12月17日付(『伊藤博文関係文書』二264~265頁)の伊藤宛の書簡において、伊東巳代治は国民協会の分裂、つまり第2次伊藤内閣に敵対的な姿勢を採ることに否定的な議員達の離脱を期待し、同会の情勢を伊藤に報告している。前者には次のようにあり、伊東が実際に切り崩しを行っていたこと、阿部浩が伊藤系と近かったことを窺わせる。しかし伊東が想定したような分裂は起こらなかった。

尚年来提携したる四五友人も有之、内閣之御方針次第にては此際脱党可為致と存候。阿部浩等も至極同感に而、先刻内務大臣之御面前に而内々着手之順序相談仕置候次第に御坐候。

そして第3回総選挙後、切り崩しへの再挑戦が行われた。1894年5月2日付の伊藤宛伊東書簡(『伊藤博文関係文書』二280頁)の、以下の部分からそれを確認することができる。

昨二日〔ママ―編者―〕午前十時後藤伯は板垣伯を今井町に訪ひ、第六議会に対する運動上之事に付長時間密談せられたり云々、今朝警視より報告有之候。一両日中後藤伯へ御面会之折も可有之と存候に付御含迄奉申上候。今井磯一郎は取引所許可之当時後藤伯とは堅く約束致居候事と兼々及承居候間、此際国民協会を脱して中立団体に投すへく様後藤伯へ御内談被下候義相叶間敷哉、是又申上試候。

結局今井は国民協会に留まった。しかし、高橋守衛、佐藤昌蔵、粟屋品三、原弘三が国民協会を離脱、高橋と佐藤が中立会派に所属し、他は無所属となった。当時の報道によれば、佐藤は対外硬派に反対の言動があったために除名となり(1894年5月6日付読売新聞)、粟屋は条約励行等の、国民協会の(対外硬派としての)姿勢に反対して離脱した(1894年5月5日付読売新聞)。吏党系の分化は、薩長閥の不統一の下で進んだのだといえる。第6回帝国議会において衆議院に出された上奏案について、佐藤と粟屋は完全に第2次伊藤内閣支持派としての投票行動を、高橋は最初から、原は途中から、対外硬派と同じ投票行動を採った(本章第3極実業派の動きキャスティングボート(①③⑤)の表③-C、表③-D参照)。佐藤と粟屋、そして当初は原も、第2次伊藤内閣寄りであったのだ。

自由党と合わせて過半数を見込める規模の勢力を直ちに確保することは困難であったとしても、伊藤系は、中立議員の取りまとめに一定の手応えを感じていた。しかし実際には、事はそう甘くはなかった。先に結論をいえば、中立議員の取りまとめは失敗に終わった。

1894年5月8日付の東京朝日新聞によれば、中立派にはまとまった会派を結成しようという動きが起こった(上述した、実業団体を結成するという動きであろう)。しかし、発起人の1人であった檜山が、伊東巳代治、末松謙澄らの協議に基づいて作成された宣言書を、会派の主義、方針にしようとした。そして、それに反発した議員達が参加を取り止めた(記事では土居、前川、河上が即時に脱盟し、原亮三郎、岸、高木が脱盟する決心だと書かれている。実際に、前者の三名が湖月派の、後者のうち岸と高木が独立倶楽部の、結成時の参加者である。原亮三郎は第3回総選挙では当選していない)。記事の内容と『議会制度百年史』院内会派衆議院の部を照らし合わせれば、当初予定されていた会派が5月6日に中立倶楽部として結成され、最初に参加を取り止めた議員達が湖月派を、次に参加を取り止めた議員達が独立倶楽部を、同じ5月9日に結成したのだということになる。その際、中立倶楽部を脱して独立倶楽部の結成に参加した議員が3名おり、後に中立倶楽部を脱して独立倶楽部に移った議員も1名いた。前者の3名はいずれも岐阜県内選出の議員であり、前述の通り伊東が当てにしていた岸も、その中に含まれていた。

1894年5月6日付の読売新聞によれば、稲田政吉、原善三郎、土居通夫、奥三郎兵衛、竹村藤兵衛、村野山人、小島相陽、阿部孝助、佐藤昌蔵、目黒貞治、檜山鉄三郎の11名の議員を発起人とする無所属の会合が、5月5日に催された。発起人のうち湖月派に参加した土居以外が、中立倶楽部に参加している(阿部は独立倶楽部に移動)。奥と竹村は発起人であったものの会合に出席せず、発起人以外で出席したのは前川槙造、河上源一(ここで用いる報道、伊藤宛伊東書簡では川上だが、引用する場合以外は正しいと思われる「河上」とする)、高木貞正のみであったという。このうち高木は中立倶楽部に、河上と前川は湖月派の結成に参加し、高木は独立倶楽部に、前川は中立倶楽部に移動した。5月8日の東京朝日新聞で最初に参加を取りやめた議員として報じられているのは土居、前川、河上、次に取りやめた議員として報じられているのが高木、岸だ。つまり発起人以外の参加者は全員参加を取り止めたこととなる。

会合の発起人は、政治上の団体を組織するための会合ではないとした。また、檜山は楠本を議長に推すべきではないとし、原は、中立団体が衆議院の解散とならないように運動し、民吏両党の間を操ることを説いた。解散の回避とは、内閣を追い詰めないということと同義であったといえる。この2人の発言からも、両者が第2次伊藤内閣寄りであったことが分かる。解散を回避したいのは議員一般の心理であるが、少数勢力は解散に至る過程に深く関わることができず、事態に翻弄されてしまう立場であった。

6日付の読売新聞には、5日に他に別の無所属議員の会合があり、対外硬派の政党と提携して運動することを協議したことを報じる記事もある。衆議院の対外硬派に寄った無所属議員達が存在していたことが分かる。

5月9日付の東京朝日新聞は、5月6日付の読売新聞と同様に、中立議員2派の動きを2つの記事で記している。そこには、実業団体を組織しようとしていたと見られる無所属議員の会合が、中立倶楽部を組織するかどうかについて亀裂が走っていたこと、檜山が望月右内の参加に反対したことが記されており、檜山が振りまいた「奇妙なる宣言書」で分裂が助長され、場合によっては稲田も脱盟の心算だとある。そして、中立団体を脱した前川槙造、河上源一が秋山忠夫らと提携し、他の無所属議員を訪問して、各派に左右されない独立の結合を謀っていることを伝えている。なお、檜山がなぜ望月の参加に反対したのかは分からないが、望月は結局檜山と共に、中立倶楽部の結成に参加した。

中立議員の結集が失敗に終わる兆候は、すでに4月26日付の東京朝日新聞の記事に表れている。遠からず組織される実業団体を原、奥、稲田、阿部らの結合と説明し、党派新聞から自由党の伏兵、政府党と攻撃されているが、関係者が、そのような者がいないわけではないものの、多数の決心が中立を守ることにあるとしたと報じている。

5月11日付の東京朝日新聞は、7名の衆議院議員が、柳屋組と称する10名の議員達と新中立団体を結成するだろうと報じている。7名の衆議院議員は全て、その苗字が挙げられている。それは『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部が9日に湖月派を結成したとする議員達である。10名については、4名のみ苗字が挙がっているが、そのうちの秋岡義一、岸小三郎、高木貞正の3名は、同様に9日に独立倶楽部を結成したとされている議員達である(岸と高木は中立倶楽部を離脱)。残る山口は、長崎2区選出の山口新一だろう。彼は無所属に留まった。柳谷組とは柳屋に集まった議員達であろうから、5月6日付の読売新聞が対外硬派とした議員達である。

以上の報道から、中立派の分解が大分はっきりしたといえよう。簡単に言えば、中立派にまとまる動きが見られ、そこに関わっていた、伊藤系の意を汲んだ議員達(→中立倶楽部)と、そうでない、中立志向のより強い議員達が袂を分かち、後者も中立性を重視する議員達(→湖月派)と、対外硬派の議員達(→独立倶楽部)に2分されていたということである。

もちろん、湖月派と独立倶楽部には、最初から中立議員の結集に参加する意思のない議員達もいたであろうし、それぞれの会派の議員達が全て、ここで述べた志向でまとまっていたわけではなかったのかも知れない。しかしどうであれ、10議席前後の中立的な会派が3つ結成されたということには変わりはなく、伊藤系による中立議員の取りまとめがあまりうまくいかなかったことは、伊東巳代治の書簡と合わせて見れば確かである。既存の対外硬派を減らしても、新たに同様の議員の当選を許し、自らの味方にしようとしていた議員達を少なからず奪われたのだから、それらの数が多ければ多いほど、伊藤系の失敗の度合いも強かったということになる。そして、対外硬派の議員が多かったと見られる独立倶楽部の議席数は、中立倶楽部のそれを上回った。

中立的な会派が3つ出来た経緯について詳しい1次史料は見当たらない。関連性のあるものとしては、中立倶楽部結成の3日前、5月3日付の、伊東巳代治の伊藤博文宛書簡(『伊藤博文関係文書』二281頁)がある。ここで伊東は以下の通り、檜山の軽率さを憂慮している。書簡からは、伊藤系が1名でも多くの議員をまとめようとしていたことも、窺うことができる。

檜山へは昨日相渡置申候。中立連中之一団も愈明後三日〔ママ―編者―〕公然打出候由、檜山之挙動往々軽卒に渉り仲間の感触を害し候事も不尠、稲田も其一人に有之、先日来彼是苦情申居候へとも、彼是説諭之末大に納得致候由に而、別紙之通友人より申来候。檜山へも一昨日内々諷諫仕置候。中立之一団公然打出候迄は、他之無所属議員糾合之運動上不便不尠処、愈前文之通相運候に付ては是より一人も多きを要し候事と存候へは、百方手を廻し相纒可申と存居候。

中立会派の分立には、第2次伊藤内閣に対する姿勢の相違だけでなく、檜山個人に対する他の議員の反発もあったと思われる。5月9日付の東京朝日新聞が稲田の離脱の可能性を報じた背景には、このようなことがあったのである。

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