日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
政界縦断・群雄割拠(④)~縦線のねじれ~

政界縦断・群雄割拠(④)~縦線のねじれ~

第2次西園寺内閣は緊縮財政を貫こうとして、引きずりおろされたという事になる。しかし、坂野潤治氏の研究等に詳しくあるように(坂野潤司『大正政変』79~115頁)、内実はそう単純ではなかった。桂との協力関係によって党内で力をさらに増していた原に対抗して、西園寺公望、九州派を率いる松田正久は、薩摩閥と接近した。立憲政友会は鹿児島県の議席を独占していたし、薩長閥内で落ち目であった薩摩閥も、政権党と組むことで挽回をしようとしていた。これが成功し、薩摩閥に連なる海軍が優遇される一方、原の積極財政政策、山県-桂系の陸軍増師は排除されたのである。「山県-桂系」としたが、桂はむしろ財政再建路線に寄っていた。だから消極財政志向になった立憲政友会の内閣を、消極財政を捨てた桂が倒したというような話ではない。桂は第2次西園寺政友会内閣の外交に失望していた。また同内閣・立憲政友会では、桂と利用し合うものではあっても、一定の協力関係にあった原の影響力が落ちていた(第10章群雄割拠(⑬⑭)参照。利用価値が低下していたという言い方もできるわけである)。そのため上原陸軍大臣が強硬姿勢をとるように、桂が仕向けていたという面もある。山県も上原も立憲政友会に否定的であり、同党を警戒していたから、それは容易であったはずだ(第1党を敵に回すなどして衆議院に拒否権を行使される可能性のある薩長閥内閣と違い、政党内閣は、軍部や貴族院に拒否権を用いて倒される事がある。軍部の拒否権とは、軍部大臣が現役の軍人でなければならない軍部大臣現役武官制を利用し、その大臣を出さない事で、内閣の成立、存続を不可能にする事、貴族院の拒否権とは、貴族院における予算案や法案の否決である。今回はその拒否権が明確に行使された初めての例であった)。なお、上原は陸軍の要人ではあったが、出身は薩摩藩という複雑な立場であった。ただし日本の軍部はセクショナリズムの傾向が強く、上原は陸軍≒山県系という状況には思うところがあっても、海軍とは一線を画していた。

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