日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第11章前編 1912年5月 第11回総選挙(前)第2次西園寺内閣~第3次桂内閣期

第11章前編 1912年5月 第11回総選挙(前)第2次西園寺内閣~第3次桂内閣期

立憲政友会1減の205、立憲国民党5増の91、中央倶楽部18減の29。無所属21増の56、計381(初めて沖縄県で総選挙が行われたため、定数が379から同県郡部-市部選挙区は無し-の2議席分増えた)

 

①選挙結果

議員の任期満了によって、1915年5月15日に行われた第11回総選挙では、立憲国民党が議席を増やした。しかしわずかであり、全体的に大きな変化はなかった。沖縄県でもようやく総選挙が実施され(定数は郡部選挙区が2、市部選挙区は無し)、議席数は法定通りの381となった。中央倶楽部は、無所属当選者などとの合流で大きく増やした議席を、大きく減らした。これは同派の前身である大同倶楽部と同様であった。吏党系は、再編で増やした議席を選挙で減らすという事を、繰り返したのであった。かわりに新たな無所属候補達が当選した。無所属の当選者には新民党系(当時の衆議院、自由派の最左派。補論⑥等参照)の議員であった者達もが含まれていた。

 

②明治から大正へ

1912年7月に天皇が死去し、1912年は明治45年から、大正元年に入った。天皇の崩御、新天皇の即位は、日本が近代化へと本格的に歩みだしてから初めての出来事であったと言える(当然ながら帝国議会が設けられてからも初めてであった)。

 

③桂の内大臣兼侍従長就任

総選挙後初の第29回帝国議会(臨時会、1912年8月)は、明治天皇の大喪費の協賛を得るための臨時会であった。各党派の合意によって、各党派が合意して、衆院議長に第1党であった立憲政友会の大岡育造(再選。吏党系の国民協会出身)、副議長に第2党であった立憲国民党の関直彦(協同倶楽部、独立倶楽部、紀州組を経ている)が選ばれた。桂太郎が8月に内大臣兼侍従長となったことで、非政友会勢力の合流は、総理大臣となり得る要人に連なっているという利点を失い(有力な党首候補も失い)、遠のいたかのように見えた。

 

④第2次西園寺内閣の総辞職

陸軍は二個師団増設の要求を強めていた。消極財政を維持しようとする西園寺政友会内閣と陸軍の対立は深刻さを増し、1912年12月、ついに陸軍大臣が辞任した。陸軍は西園寺内閣への反発から、後任を出そうとしなかった。これによって第2次西園寺内閣は総辞職を余儀なくされた。1900年に陸、海軍大臣が現役軍人に限られるようになっていた(軍部大臣現役武官制)が、それが実際に倒閣に利用されたのは初めての事であった。立憲政友会中心の内閣が2回続けて(双方とも西園寺内閣)、総選挙での勝利の後、早期に総辞職するという事態でもあった。

 

⑤第3次桂内閣の成立

西園寺は桂太郎前総理(長州山県系・陸軍出身)の他、山本権兵衛(薩摩系・海軍)、松方正義(薩摩系・消極財政志向)を後継に推薦した。西園寺に留任を固辞された元老も、これに同意した。しかし松方、山本、平田東助(山県系)が固辞した。背景には、厳しい財政状況の中、陸、海両軍の軍拡の狙いや、山県系-陸軍における主導権争いがあった(総理になれば自派に有利な反面、自派を犠牲とする調整も余儀なくされかねない。総理になりたくても、厳しい状況下、政治生命を失いかねない)。結局、総理に就く事となった。こうして1912年12月、第3次桂内閣が成立した。桂は新天皇を支える内大臣兼侍従長に就いており、宮中と府中(政府)の区別が問題にならぬよう、内閣組織について天皇に勅語を出させた。貴族院から同内閣には、茶話会から内務(大浦兼武)、大蔵(若槻礼次郎)、文部、逓信(後藤新平)大臣、無所属(1次)から農商務大臣が出された(公爵であった桂総理も純粋無所属の貴族院議員)。茶話会からの入閣者や、加藤高明(駐英大使から第3次桂内閣の外務大臣に-1913年1月に駐英大使であった加藤が帰国するまで外務大臣は桂総理が兼任-)は、後に桂の結成する立憲同志会に参加する。自身の出身である陸軍との関係が基本的には悪くない桂総理は、第3次桂内閣成立前に、陸、海軍の拡大を1年凍結し(海軍の一部は例外)、国防会議を設置する事とした(西園寺政友会との違いは減税に消極的)。桂は行政改革も進め、消極財政路線を維持する方針を固めていた。海軍は凍結に反発し海軍大臣の留任を拒否する事態となった。このため桂は、内大臣堅侍従長という宮中の要職から内閣総理大臣という行政(府中)の要職に移ることを正当化する際と同じく、天皇に勅語を出させる事で、斎藤海軍大臣を留任させた。天皇の権威を借りて状況を改善しようとする桂の傾向には、憲政に反するものだという批判があった。

 

⑥第1次護憲運動

総選挙で過半数を上回っていた立憲政友会中心の第2次西園寺内閣が倒され、非政党内閣である第3次桂内閣が成立した事について、憲政に反するという批判が広がっていた。これは第1次護憲運動(憲政擁護運動とも呼ばれる。第2次は清浦内閣期)西園寺が後任に桂を推薦したにもかかわらず、第3次桂内閣が立憲政友会に特に提携を依頼しなかったことは、同党の反政府感情を強めた(第2次西園寺内閣成立時とは逆だと言えるような状況であった―第10章⑬参照―)。

 

⑦同志会の結成

第30回帝国議会(1912年12月~13年3月)から、衆議院で25名以下の会派に常任委員を割り当てないことになっていた事もあり、議会開会前に、小会派、無所属の再編が進んだ。10月から12月にかけて、5名の無所属議員が立憲政友会入りした。残る41名の無所属議員のうち、36名が同志会を結成した(会派だと言える。その後結成される桂の立憲同志会とは別の勢力。立憲同志会結成後には亦楽会と改称する)。その中には又新会出身者も少なくなかった。新民党が衆議院に復活したのであった。

 

⑧無所属団の結成

桂総理は、以前から考えていた新党の結成に、本格的に乗り出した。1913年1月20日に新党の結成を発表した。山県有朋は桂の新党結成に同意していたが、桂が党首となることには否定的であった。桂総理は2月7日に立憲同志会の結成を宣言した。2月15日には、その衆議院議員の参加予定者が会派として、無所属団を結成した。この会派には中央倶楽部が丸ごと、立憲国民党からは、以前から桂を総裁に新党を結成しようとしていた改革派等(このため立憲国民党の議席は半減した。非改革派は政党御結成時?過半数が参加へ)、同志会の一部であった。新党には官界、財界などから、桂系、桂を支持する者達が参加を決めた。貴族院の山県-桂系(同院の多数派であったと言える)は、新党結成に理解は示したものの、かつてからの政党を認めない立場から、まとまっては参加しない事となった(官僚出身者等、個々の貴族院議員の参加はあった)。

 

⑨第3次桂内閣の総辞職

第3次桂内閣の成立に反発するする立憲国民党非改革派、同志会、記者や実業家(商業会議所の中小の商工業者。西園寺内閣の消極財政を支持し、軍拡に反発)や民衆による第1次護憲運動(憲政擁護運動)が広がった。当初この運動と距離を置いていた立憲政友会の原敬も、桂が新党結成に動いたことで、運動への参加を意図的に容認した(1月24日の憲政擁護大会への出席について、自身の参加は回避しつつ、松田正久の参加については同意した。なお尾崎行雄らは個人としてすでに運動に参加していた)。立憲政友会と立憲国民党は2月5日、内閣不信任決議案を提出した。桂は衆議院を2月9日までの停会とし、2月9日に、立憲政友会の西園寺総裁に対する、天皇の意を汲んで助けろと言う趣旨の、つまり事態を収める事を求める勅語を、天皇に出させた。しかしそれでも、同党の内部は収まらなかった。西園寺は翌10日、同党の総裁を辞することを上奏し、同党は2月5日に提出した内閣不信任決議案(第3次桂内閣が宮中と府中の別を混同しているとするもの)を取り下げない事を、議員総会で決定した(単独で過半数を上回っている立憲政友会と立憲国民党が賛成するだけで、両党から105ほどの反対者が出ない限り可決は確実)。第3次桂内閣は10日にも衆議院の解散を閣議決定したが、桂は一転、天皇に辞表を奉呈し、議会を12日までの停会とした。しかしまず議会の停会だけを知った人々は、繰り返される停会に反発した。政府寄りの新聞社や内務大臣官邸、交番、警察署が襲われる事態となった。内閣の交代は2月20日となった。桂の総理在籍日数は合計で最長となっていたが、第3次桂内閣自体は約2か月しか持たず、歴代最短となった。

 

補足~貴族院の会派~

木曜会の残部は10名ほどの少数会派となり1913年1月に解散して、研究会、土曜会に合流。

交友倶楽部:1912年12月、西園寺政友会内閣期に任命された勅撰議員、互選の多額納税議員の立憲政友会系、立憲政友会寄りの勅撰議員が結成した会派。

 

補足~無産政党関係~

1912年8月、労働者の共済組合という性格が強い、友愛会が結成された。日本で唯一の労働者の全国的組織であり、労働組合の中央組織へと発展していく。

 

1党優位の傾向(準)与党の不振(①⑦)~変わらない結果~

 

実業派の動き選挙制度の影響(①⑦)~市部もほぼ現状維持~

 

1党優位の傾向野党再編(①)~変化のためには不可避であった政界再編~

 

群雄割拠(③)~山県と桂の間の溝~

 

政界縦断群雄割拠(④)~縦線のねじれ~

 

1列の関係・1党優位の傾向・政界縦断(⑤)~桂の立場と備え~ 4.17 new

Translate »