変わらない1強2弱、1990年代に準備された2012年体制

今回の総選挙は、立憲民主党(立共両党)の一人負けであった。この10年間、自公が大勝、第2党の中道左派政党が100にも届かない不振、第3極が一定の議席、という状況が続いている。大まかに見れば「1強2弱」の、2012年体制とでも呼ぶべき状態だ。

これではもちろん、政権交代はとても起こらない。かといって第2党が入れ替わるほどの結果にもならない(維新の会がまた動揺したりしない限り、今後は確かに分からない面もあるが)。その中で、第3極が離合集散を繰り返して、第3極としては弱体化すると、今度は自民党のごくごくわずかな離党者が新党を結成する事になり、その新党への【中道左派野党内の保守系】のみの吸収が試されて失敗、中道左派野党は結局再統一に動いた。一方、権力を握る自民党の方は、ほとんど割れないばかりか、動揺すらしにくい事が改めて確認された。

密接な協力関係にある自公両党を前に、野党がバラバラに戦う方法、第2党と第3極が連携する方法が共にうまくいかなかった。後者は民主党と維新の党の合流に至ったが、大阪派が離脱した。こうしてできた民進党にも、自民党と対等になる見込みはほぼなかった。この民進党が希望の党騒動で分裂した後、再統一の動きがあったが、今度はこれに一部が参加しなかった。そして、今後は最後の選択肢(と筆者は思っていた)として、左派野党の共闘が試された。これが最後の選択肢だと、筆者は思っていた。

しかしやはり結果は出なかった。失敗の原因を、やり方の中途半端さや民主党系に対する評価の低さに求め、過去の路線から改めて一つを選ぶか、複合案を、無理を承知で推し進めるか、何らかの打開策を考えざるを得ない。王道が重要で、奇策は成功し難いものだとは思うが、今までにないような発想も、求めるべきかも知れない。

それは今後考えていくとして、まずは現状を確認したい。2012年以後の総選挙の、第1党から第3党の獲得議席は次の通りだ。

2012年 自民:294  民主:57 維新:54(みんなの党を合わせれば民主以上)

2014年 自民:290  民主:73 維新:41(みんなの党は解散)

(この間、維新の党が民主党に合流して民進党になるも、希望の党結成の影響で分裂)

2017年 自民:284  立憲:55 希望:50(維新を合わせれば立憲以上)

(この間、民進党離党者による立憲に、民進党の残留派、希望の党参加者の多くが合流)

2021年 自民:261  立憲:96 維新:41(国民民主を合わせても立憲以下)

2012年の総選挙は、民主党政権が国民に落第を言い渡された選挙だ。約3年間に過ぎない、しかも途中から希望の光も見えて来た野党暮らしでは、自民党は弱らなかった。維新はかなり人気があったが、国会で最も右のたちあがあれ日本を吸収するなど、支持者を限定する面もあった。自民党の政権奪還が確実視され、優位政党のイメージも残っていたことから、野党共倒れ、あるいは保守共倒れによって民主党が得をするのではなく、非自民共倒れで自民党が得をする形になっていた。だから2019年の総選挙は、自民党が勝って当然の選挙であったのだ。

しかし10年もたてば、普通は下野した政党が刷新され、与党は疲れる。そして再び、政権交代の季節になる。少なくとも近づいていく。

ところが日本はどうだろうか。自民党1党優位の国らしく、今も同じような選挙結果になっている(中道左派が増えたり減ったりはしているが)。そこには、なかなか復活できない民主党系の、そして野党第1党にはなれない維新をはじめとする改革派保守新党の、至らなさも表れている(維新は2012年、総選挙の前であっても後であっても、みんなの党と合流していれば、間違いなく野党第1党になっていた。しかしどちらも主導権を握ろうとしたため、それは実現しなかった)。それらを不問とするつもりはなく、次節以降で述べていくが、やはり構造的な問題もある。ここでは分かりやすい2012年以降の結果を見ているが、それ以前にも、隠されていただけで、実際には存在していたとも言える、1強2弱の構造だ。

上の総選挙の結果を見ると、中道左派(平等重視の社民系)の野党第1党に、中道右派(競争重視の新自由主義系)の第3党がある程度迫る結果になっている。これこそが1党優位の国の、野党の限界なのだ。

議席数が大きくは変わりにくい中選挙区制下でも、野党間の競合はあった。だが、衆参とも小選挙区(1位のみ当選)が勝敗を分ける現在は、それ以上に、野党第1党が第3極に足を引っ張られる。第3極は第3極で、第2党を倒して自らが第2党(野党第1党)になってからでないと、政権争奪戦に参加できない。比例代表制が中心の国では、第3党から第1党に浮上する事は可能だ。しかし1党優位+小選挙区中心の日本では、優位政党に批判的な人々、政権交代を望む人々の票が多く、野党第1党に入る。野党第1党の分裂でもない限り、一足飛びにはいかないのだ。そして野党第1党が入れ替わっても、新たな野党第1党と、新たな第3極(新党の場合もあるだろうが、まずは以前の野党第1党)の対決は続く可能性が高い。政権交代は実現するとしても、この果てなき2位争い・準決勝の後で、ということになる。そしてよほどのことがない限り、2位争いを制した野党第1党であっても、小選挙区制の下ではずっと、他の野党に非自民票を削られる事態に悩まされる。例えば維新が第2党(野党第1党)になっても、左の(少なくとも「日本的な左」の)需要は残るから、左派野党に票を削られる(無党派層を奪い合う)ことになる。時代と共に左の重要はなくなっていくという見方もあるが、そう単純な話ではない。

民主党系は少しずつ左傾化している。第1党が右傾化し、自分達(第2党・野党第1党)以外に有力な野党が誕生した上に、それが保守であり、自民党よりも自分達を敵視しているのだから当然だ。なお、便宜上第3極を「中道右派」の「野党」としたが、中道なのか(特に維新がたち日系を吸収し、石原慎太郎に代表を任せた2012年)、本当に野党なのか(特に2017年、2021年)、疑わしいところもある。後者については改めて述べる。

2012年より前にさかのぼっていけば、自民党vs民主党の2大政党化を経て、自民党、新進党(中道右派)、民主党(中道左派)という構図にたどり着く。これも1強2弱に近いが、新進党は「弱」とするほどには弱くなかった。この時は左右の野党の大きさが、非社会党勢力の合流によって逆転していたのだが、その後新進党は消滅し、その多くが民主党に合流した。それで解決すれば良かったのだが、もとの3極構造に戻っているから、1強2弱が、一時的に覆い隠されていただけだとも言えるのだ。

なぜこのような構造ができたのか、もっとさかのぼって見る必要がある。

それは1993年、総選挙で社会党(中道左派~左派)が激減し、新生党(自民党離党者)と日本新党という、改革派の保守政党が生まれ、伸びたためだと言える(日本新党は1992年結成)。この時、非自民・非共産の連立政権ができたものの(自民党は結成後初の下野)、これは社会、さきがけ両党(左派)と、新生党(右派)等に割れた。「自民vs非自民」という構図の中の「非自民」が、明確に2つに割れたのである。保守政党が加わっていたからだとも言えるが、与党になっていなければ、あそこまで衝突することはなかったであろう。そう考えると、非自民連立ができたからこそ、皮肉にも、非自民が2つに割れたのだとも言える(保守系が加わっていなければ、非自民連立は実現しなかったであろうし)。

前者(社さ両党)は後者(新生党側)への反発から、自民党と連立を組んだ。しかしそれでは展望が開けず、再び離れた。その過程で、民主党を生んだ(社さ両党の離党者が民主党を結成)。その前に後者、つまり新生党などが合流、新進党になった(新生党、公明党、民社党、日本新党、自民党離党者による新党、会派が合流)。こうして迎えたのが、上で触れた1996年の総選挙である。その結果は、自民党239、新進党156、民主党52議席というものであった。自民党とまだ連立を組んでいた社民党(社会党が改称)の残留派が15、同じくさきがけの残留派が2、独自路線の共産党が26、全体の定数は500であった。

この変動期の前の五十五年体制とは、保守vs革新の、1対1の時代であった。しかし左派が強い野党第1党(社会党)は、社会主義政党からの脱皮に手間取り、国防についても非武装中立という、高い理想であると共に、社会主義国の敵になることに抵抗するものでもある、非現実的な路線に留まった。このため、もともと様々な点で非常に有利であった自民党は、優位政党としての地位を磐石なものとした。野党はおおまかには革新の枠内において、中道に寄った社公民路線(右派中心の社会党、+公明党・民社党)か、左の社共路線(左派中心の社会党、+共産党)かで、揺れたりした。終いには、公明、民社両党が自民党に寄りる、「自公民路線」にたどり着いた。

その間、自民党の癒着・利益誘導政治はついに限界を迎え、その反対を行く勢力、なあなあの調整型・先送りの政治を改める勢力として、新自由主義政党の需要が高まった。自民党は自らは変わらないものの、いや変わらないからこそ、新生党や大阪維新の会など、新自由主義的な政党を生み出す。このときは小沢一郎らの自民党離党・新生党結成、非自民・非共産連立への政権交代がもたらされたわけである。しかしそれには社会党の手を借りなければならなかった。

社会党は一度は協力したものの、自民党の残部(議席数は過半数にこそ届かないものの、他党を圧倒)と共に、新自由主義的な小沢ら(さらに新進党を結成)を倒した。こうしてできたのが自社さ連立である。しかし社会党系は支持を失い、ここからも離れた(まず社さ両党の離党者が民主党を結成して自民党と距離を取るようになっていき、社さ残部も連立を離脱)。こうして自民党1党優位の政治に戻ったのである。自民党の離党者の多くや公明党は、自民党にすり寄った。小選挙区中心の選挙制度にしたのに、自民党のライバルとなるべき非自民勢力から、社さ両党が自民党側に移り、彼らが自民党から離れると、今度は、非自民勢力の他の一部が自民党側に移ったのである。これでは選挙制度はむしろ、自民党に非常に有利に働く。

実際には、感情的な面も離合集散に大きく作用していたが、ともかく自民党政治は結局あまり変わらず、新自由主義的な路線は、基本的には野党に期待される形になった。

一方で、自民党のような不確かでクライエンテリズム(票や資金の見返りに利益を与える)的ではない格差是正(拡大阻止)・貧困解消に取り組む社会民主主義的な路線も、野党には期待される。そして、新自由主義と社会民主主義はなかなか相容れない。本来、別々の野党が担わざるを得ないものであり、今そうなっている。これが1強2弱の閉塞状況である。

しかしいくらこのような日本であっても、小選挙区制を採用した以上、政党の統合は進む。かつての新進党は結成後わずか3年で崩壊したが、バラバラでは生き残れなず、その多くが民主党に合流していき、ついには、【一体化していく自公vs 民主党】という形になった。社民党残留派と共産党は、ごくわずかな議席となった。

社民的なものにたいする需要がなかったわけではないが、社会党が上述したような状態であったことから、日本ではそのイメージが悪く、また格差の拡大もまだ深刻ではなかったから、社会党のように非現実的、変化に消極的ではない、穏健な改革派というイメージで、非自民の大部分をフォローすることができるようになった(小沢のような強引な改革派も、全体的にはあまり好まれなかった)。

なお、新進党崩壊後、小沢は自由党を結成したが、これは自民党と連立を組んだものの、結局自民党に切り崩され、残部が民主党に合流した。今の維新の会のように、第3極として踏ん張る事をなぜしなかったのか。今後改めて双方を比較してみたいと思っている。

話を戻すと、民主党の拡大と社共両党の不振によって、ほぼ1対1の構図ができたが、それでも民主党には、人口の割に多くの議席が配分されており(人口移動と一票の格差是正の時間差。参院は意図的な放置という面が特に大きい)、変化に比較的慎重な農村部では勝ちにくい、都市型政党という限界があった。多くの選挙区で、当選の見込みのない候補者を擁立する共産党にも、苦しめられていたと言える。

それでも民主党政権が誕生したのは、奇跡的に様々な条件が重なったからだ。それを並べるのはやめておくが(『続・政権交代論』「合流するならとりこぼすな」参照)、ここで大事な一つを挙げたい。それは、小泉内閣期に自民党が強めていた新自由主義路線に失望した国民、そしてそれとは正反対に、その路線の後退に失望した国民の、双方が民主党に期待したことだ。それはつまり、都市部と農村部の双方で、民主党が自民党と戦えるようになったということだ。「とにかく自民党はダメだ。一度政権を代えなければ」という消極的な民主党ブームのようなものもあったが、双方の支持を得られなければ、民主党の上昇も、民主党を勝利に導いた投票率の上昇も、なかったであろう。

なぜそんな矛盾する支持を得られたのか。それは次の通りである。

2000年前後に主要政党が皆で改革競争をすることになったが、そこにおいてすら、野党は自民党に勝てなかった(自民vs新進vs民主 → 小泉自民vs民主党)。もっとも、これは当然のことである。(自民党が改革に本当は消極的だとしても)改革を支持する票は、各党に分散する。一方で改革に抵抗する人も、自民党に反発するわけにはいかない状況がある。そのような人々こそ、従来の自民党政治の恩恵を受けており、万年与党の自民党に見捨てられては困るからだ。

ところがその後、格差の拡大、特に非正規雇用の増加が問題にされるようになり、状況は混とんとしたものとなった。農村部も、小泉自民に本当に見捨てられたと、さすがに反発もするようになっていった。その中で民主党は、左に舵を切った。それは民主党内の本来の左派ではなく、新自由主義を捨てた小沢によってなされた。

小泉総理が辞任し、自民党の新自由主義路線が再び後退すると、民主党は、以前からの改革派のイメージと、新自由主義に対峙する社民系のイメージを両立させた。

この両立は実際に可能である。票や資金を提供してくれる団体、人々を助ける事による格差是正から(これでは弱い声は届かない)、制度によって普遍的に進める格差是正へと変えることはできるからだ。ただしその先でいつかは、平等と競争、そのどちらをより重視するのかなど、国家像の提示は求められる。野党が一つにまとまるということは、その矛盾を抱えるという事だ。この点で2009年の民主党は、格差拡大、リーマンショックの影響があったから、平等重視の立場で手当てをするという路線の提示ですんだのだ。コロナ禍で経済が心配される今の、維新もこれに近いところがある。

しかしこの状況を経ている日本、政権交代のリスクを思い知った日本では、ただでさえ奇跡的であった2009年のような状況はもう、絶対に再現されないだろう。再現されることが良いというわけでもない。こうして新自由主義的改革を求める声と、社民的な政策を求める声が双方挙げられている。それを受けて維新とれいわが躍進したのだ。

維新は確かに、以前の民主党のような位置にいるようにも見える。しかし民主党には、左に強敵がいなかった。右の自民党との1対1に持ち込めた。しかし維新には、左に強敵がいる。そこまで持ち込むのは非常に難しい。

そう考えると維新は、1996年の新進党により近い。新進党は小沢が仕切る新自由主義的な政党であり、国防、日米同盟強化にも前向きであったと言える。一方で公明、民社両党も合流していたから、それらに配慮して、福祉を重視する振る舞いなども見せていた。そして左には、一定の人気を誇る民主党があった。

この新進党が、野党第1党の地位にありながら崩壊したのは、結果を急いだため、野党暮らしに耐えられなかったためだ。それは維新についてはないだろうし、左の立憲民主党には、民主党以上に左派のイメージが強い。これらの「小さな違い」が歴史の繰り返しを防いで、展望を開くのか、それともやはり繰り返すのか、これについても今後、考えていきたい。

今回の総選挙は、日本の真の民主主義国化を阻む壁を、再認識させるものであった。政権交代の定着など、先の先、日本には無理な事であったと、あきらめたくはない。これは個々の政党の良し悪しを超えるテーマである。

 

待っていても良い野党は生まれない、日本国民は野党の「先生」になるしかない→