2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係・2大民党制(③④⑥)~非優位政党に働く遠心力~

桂・伊藤合意が明るみに出ると、裏切られる形となった憲政本党の内部では、立憲政友会との連携に否定的であった対外強硬派が、反主流派として、勢いを強めていった(もちろん、ロシアが満州から撤退せずにいたことが、対外強硬派の勢いを強めていた)。対外強硬派の動きを利用して多数派形成を策してきた立憲改進党の系譜が、反自由党系から親自由党系となったために、対外強硬派の動きによって、危機に瀕したのである(自由党と進歩党が合流して憲政党を結成した当時は、自由党も対外強硬派も、反第3次伊藤内閣でまとまることができた―第5章参照―)。分裂してしまえば、かつての立憲改進党の水準に議席数が落ちてしまい、それはつまり、第2会派の地位(再編によっては第2党の地位すら)、保証されなくなることを意味した。優位政党の存在、動きに規定されることと、優位政党に対抗するために、政策等が異なる勢力と合流すること、この非優位政党の2つの宿命と呼べるものによって、改進党系はまた動揺した。しかし今度は、分裂するには至らなかった。このことについて、もう少し詳しく見たい。

木下恵太氏は、桂・伊藤合意の後、憲政本党内が、立憲政友会との提携を巡って次の3派に分かれ、犬養らの路線が採られたとしている。このため、同党は第18回帝国議会において、正副議長選、全院委員長選、常任委員長選挙で立憲政友会と協力をせず、委員を減らしたのだという(木下恵太「「民党連合」形成期における憲政本党(1)」236頁)。

・鳩山を中心とする提携継続派:鳩山和夫、高田早苗、関直彦ら(尾崎行雄を支持した議員達による矢来倶楽部の系譜で、犬養に反発、立憲政友会に親近性)

・非提携藩閥接近派:平岡浩太郎ら(親英・対露強硬派で、長州閥の曽祢蔵相と連絡)

・独自路線派:犬養毅ら、院外の勢力(立憲政友会が政府と妥協する限りは提携断絶も辞さない)

※以上は、筆者が要約した。

 

改進党系は、第2次伊藤内閣期、第1次大隈内閣期、第1次桂内閣期と、3度までも、自由党系との連携(第1次大隈内閣期は合流)を、自由党系の離反によって崩されていた。しかし、1列の関係の劣位にあった改進党系の憲政本党は、政界のキャスティングボートを握っていた(第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)参照)立憲政友会と、連携するしかなかった。第1次桂内閣が、立憲政友会ではなく憲政本党を、自らの衆議院における陣営の中心にしようとすることが、あり得なかったとまでは言えない。立憲政友会を切り崩しても、同党を敵に回す以上は、帝国党や中立派だけではなく、憲政本党をも味方にしなければ、過半数を上回ることはあり得なかったはずだ。しかし、中立派と無所属には、野党的な議員もいたから、そもそも立憲政友会の本体を除外して、山県-桂系に近い勢力が過半数を超えるということは、少なくとも同党の離党者の数が、同党が過半数を大きく下回るほどになるまでは、考えにくいことであった。伊藤の総裁辞任が決定的になると、憲政本党では解党論が浮上した。伊藤だけでなく大隈も党首を辞任させて、2大政党の合流を果たそうというものであった(註1)。憲政本党は、その新党の中において、自らの議席数以上の影響力を確保しようとしたのだと考えられる。伊藤も板垣も星もおらず、動揺していた自由党系の優位に立てると考えても、議席数の差はなお小さくなかったとはいえ、おかしくはない。しかし立憲政友会は、直ちに西園寺を新総裁とし、憲政本党の大石らが持ちかけた合流話には、乗らなかった。憲政本党の対外強硬派は、後述する通り、立憲政友会との連携にすら反対していたのだから、合流を容易に受け入れるはずがなかった。2大政党の合流が決まっていれば、立憲政友会の離党予備軍に離党のきっかけをあたえることにもなったであろうが、憲政本党の方に、より深刻な分裂が起こっていた可能性が高かったと、筆者には思われる。

憲政本党と立憲政友会の合流が実現しなかったこと(しそうになかったこと)、立憲政友会から多くの離党者が出たことで、2大政党の中心部を外した多数派形成の難易度は、一定程度下がった。桂は憲政本党にも本格的に切崩しを仕掛けた。それは、ロシアの条約不履行、つまり同国が満州からの撤退を渋っていた状況下、強まった対外強硬派の運動によって、憲政本党を分断するというものであった(註2)。憲政本党内の対外強硬派は、外交に関して強硬的ではない上に、自党を裏切って桂と合意した立憲政友会と連携することに、不満を持っていた。平岡は、政府の教唆で出された市町村基金蓄積法案(中正倶楽部の水登勇太郎らが提出するも撤回)に対する、自由投票を主張した(木下恵太「「民党連合」形成期における憲政本党(1)」245頁)。これは、地租を10年間増徴して市町村に蓄積し、政府の募債に応じさせるための法案であり、憲政本党は反対であった。地租を引き上げて一般歳入に充てることと、根本的には変わらなかったから、平岡らの第1次桂内閣への接近は、明確であった。憲政本党の対外強硬派には、木下恵太氏が指摘している(註3)ように、立憲改進党出身者が皆無であった。つまり、憲政本党内反主流派が、主流派に対抗しようとしていたと見ることもできる。対外強硬派には、以前同党を離党して三四倶楽部を結成したものの復党した、工藤行幹、菊池武徳もいた。その三四倶楽部に立憲改進党出身者が少なかったことは第6章で見た(第6章⑯、『中小会派の議員一覧』第6回総選挙参照。対外硬派の要人であった神鞭は、三四倶楽部結成のきっかけとなった、同党の第4次伊藤内閣増税案支持に、彼自身によれば反対であったものの、賛成に決まった党議に服従した-1901年2月15日付読売新聞)。消極財政・低負担も、対外強硬姿勢も立憲改進党出身者中心の党執行部に対抗するための、旗として有効であったということである。双方を志向することの矛盾は重要視されていなかったといえる(基本的に軍事費以外を節約することで歳出を抑えるというのは、予算に占める軍事費の割合を考えれば、容易なことではなかった)。これはかつて、民党が抱えた矛盾でもあった。

なお、原は4月26日の日記に、憲政本党の大石正巳が合意をやむを得ないとし、弾劾上奏というような手段はとらず、「極めて穏和なる趣旨を以て決議をなすべし」としたことを記している(『原敬日記』第2巻続篇72頁)が、そのようにはならなかった。地租増長の継続を支持しようとしたこと(本章野党再編(④⑤)参照)と共に、ここからも、後に党内改革派の領袖となった、大石の傾向を見て取ることができる。

註1:例えば1903年7月17日付東京朝日新聞(同党は、他の野党との合流を意味する門戸開放を決議した)。原奎一郎編『原敬日記』第2巻続篇101~102頁。1903年7月16日付の、原が憲政本党の大石正巳、箕浦勝人、河野廣中と会食したことを記した部分に次のようにある。「彼」は大石を指している。

彼に於ては大隈伯を退隠せしめて政友會と合同するも妨なしと云ふ決心をも有せしが如し、

註2:酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』261頁。帝国党の議会報告書について報じた、1903年8月18日付の『日本』を根拠としている。それは新政党の結成、小党分立、その帝国党等との接近を予想し、また期待しているといえるものであった。小党分立を各国に表れた趨勢であるともしている。自由党系が、小党分立を、政党の政権獲得を阻むものとして否定的に見ていた(自由党の『黨報』第28号36頁)ことと好対照である。

註3:木下恵太「「民党連合」形成期における憲政本党(1)」253頁。対外硬同志大会、対露同志九州大会に出席したことが分かる憲政本党員、対露同志東北大会の発起人となった憲政本党員を挙げ、根拠としている。挙げられている党員は次の通りである。()内は筆者が、憲政本党、進歩党以前の所属会派を基本的には一つ、記したものである。

・対外硬同志大会:神鞭知常(政務調査所)、柴四朗(同盟倶楽部)、工藤行幹(同志倶楽部)、平岡浩太郎(国民協会)、桜井静(なし-第7回総選挙で初当選-)、右田古分(山下倶楽部)、相沢寧堅(東北同盟会―第4回総選挙後―)、菊池武徳(なし-第八回総選挙で初当選-)、菊島正宜(なし-第8回総選挙で初当選-)、山田猪太郎(なし-第7回総選挙で初当選-)、星松三郎(なし―進歩党から初当選―)、増田義一(なし-第11回総選挙で初当選-)

・対露同志九州大会:武富時敏(同志倶楽部)、佐々木正蔵(国民倶楽部、山下倶楽部)、神崎東蔵(なし-第7回総選挙で初当選-)、古川黄一(なし-第7回総選挙で初当選-)、

・対露同志東北大会:安部井磐根(政務調査所)、佐治幸平(立憲革新党)、斎藤宇一郎(なし-第7回総選挙で初当選-)、菊池九郎(同志倶楽部)