日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
15. 改進党系の分裂

15. 改進党系の分裂

⑭自由党系の分裂で見た期間における改進党系についても見ておきたい。薩長閥への接近について、自由党系に遅れをとることが多かった改進党系には、当初、分裂はあまり見られなかった。進歩党の解散まで、衆議院議員の集団離党は、第2次松方内閣期以外には確認できない。

進歩党が明確に薩長閥に寄った第2次松方内閣期には、薩長閥との妥協、猟官運動に批判的な議員達、進歩党が薩長閥の積極財政志向に妥協する姿勢を見せたことに反発して同党を離党した旧帝国財政革新会系の田口卯吉(塩島仁吉編『鼎軒田口先生傳』85頁)ら(やはり旧帝国財政革新会系の須藤時一郎も田口と同じく進歩党を離党して同志会の結成に参加した)が、同志会を結成した。これは結成時8名の勢力であり、衆議院の解散と共に、事実上4日で消滅した。1898年1月26日付の読売新聞が同志会の意見としたところによれば、同志会は政党ではなく、衆議院の解散と同時に自然消滅したといえるが、記事によれば、その所属議員達は、総選挙の結果再選されれば、同志会を継続して存立させることを申し合わせた。

1897年1月7日付の読売新聞によれば、田口の一派は償金特別会計法の廃止、葉煙草専売法の廃止と耕地反別に煙草税を課すことなどをとなえる団体の形勢に動いていた。また、1898年1月26日付の東京朝日新聞によれば、新内閣が以前の伊藤内閣の施政方針であれば賛成できないが、井上馨が税制当局者となって大いに財政整理を行えば、充分賛成し得るという姿勢であった。これを見ると、同志会に中立実業派と同様の面があったようにも思われるが、中立実業派のような、内閣寄りの傾向があったとは言い難く、同志研究会の系譜の新民党に近かったという方が正確であろう。

しかし彼らに、2大民党を結びつけようとする動きがあったことは確認できない。これは新民党らしくない。同志研究会の系譜は、自由党系と改進党系の連携、合流ではなく、非政友会(非自由党系)の再編に進むのだが、それは自由党系と改進党系との野党共闘を断念した後のことであるし、同志会が再編に積極的であったようには見えないから、同志会と同志研究会の系譜が同様であったとするわけにはいかない。同志会は、他の新民党の傾向の一部を持たない、新民党であったとする。

この間、進歩党が第2次松方内閣の倒閣に動いたことに反発した、鹿児島県内選出の議員3名が、同党を離党した。他の鹿児島県内選出議員達と鹿児島政友会を結成したと見られる。鹿児島政友会は第5回総選挙後、自由党離党者による東北同盟会、同様の新自由党と会派、同志倶楽部を結成した。

つまり改進党系の場合は、薩長閥政府への接近に反発した離党者達ではなく、薩長閥政府寄りの離党者達が民党連携に与したことになる。これは、薩摩閥も、鹿児島政友会も、鹿児島政友会と合流した東北同盟会も、薩長閥や民党において、長州閥、自由党土佐派、進歩党旧立憲改進党系等の主導を許した、いわば相対的には劣勢に立たされていた勢力であったからだと考えられる。新自由党も、星亨の一時的な失脚、駐米公使就任によって影響力を弱めた、自由党関東派の一部が中心であった。同志倶楽部に参加した諸勢力は、長州閥優位の薩長閥に対抗し、自らの影響力も強めるため、2大民党の合流に加わる必要があったのだろう。彼らは、これが憲政党の分裂によって失敗に終わると、指導者であった星が自由党系における影響力を回復した新自由党系を除いて、一旦は憲政本党に参加するものの、同党を離れて新たな道を模索する。鹿児島政友会系は立憲政友会の結成に参加し、東北同盟会の指導者であった河野広中は衆議院議長となったものの、1903年12月、第19回帝国議会における衆議院の開院式で、天皇の勅語に対して読まれる形式的な奉答文に、政府批判を加えて衆議院の解散を招き、憲政本党を離党した。そして1904年3月、同志研究会系と会派、無名倶楽部を結成した。

さて、改進党系にほとんど分裂が起こらない状況が変化したのが、1898年11月である。この当時の改進党系、つまり結成されたばかりの憲政本党は、上述した自由党系と類似する分裂を、1901年2月までの間に見せた。次の通りである。

 

ⅰ その他の議員達の離党

・・・議員同志倶楽部を結成した議員(5名-他に憲政党を経た1名-。第2次山県内閣側に切り崩された議員を含む地価修正賛成派であり、「薩長閥政府に寄った議員達の離党」に近い面がある。ただし、久米民之助はむしろ立憲政友会の第1次桂内閣への同調に反発して同党を離党したから―註1―、同党離党者の事情は異なっていた)

※議員同志倶楽部の結成が立憲政友会の結成より早いこと、全体的には議員同志倶楽部結成者の離党の方が立憲政友会参加者のそれより早いことからⅰとしたが、ⅱのうちの2名の離党が、ⅰの最初の離党者の離党より早期に起こっている。

・・・中立倶楽部を結成した議員達の離党

※次のⅱとⅲの間の、立憲政友会結成前後の離党者のうち、3名が中立倶楽部の結成に参加した(背景は様々である―註2―)。

ⅱ 準与党であった帝国党に加わった議員達、伊藤博文の新党結成に加わろうとして、これに参加しようとしなかった憲政本党を後にした議員達の離党

・・・帝国党の結成から約4週間後に同党に加わった議員(3名)、立憲政友会に加わった議員(立憲政友会結成時13名―別に2名が憲政党、1名が議員同志倶楽部、1名が帝国党を経て立憲政友会へ―)

※1番目から7番目の離党者が憲政本党を離れた時には、まだ第2次山県内閣と憲政党の提携が実現していなかった。しかしその6名のうち5名は鹿児島県内選出議員であり、提携が実現する前から、提携への動きに与していた(註3)。他の離党者についても、政権を失った改進党系(憲政本党)を離党し、第2次山県内閣側の憲政党、帝国党、または薩長閥の要人であった伊藤の新党に、中心的な勢力として参加した憲政党、伊藤新党が実現したものである立憲政友会に参加したから、全て、自由党系における「薩長閥政府に寄った議員」に準ずる離党者達であるといえる。確かに、伊藤は内閣のメンバーではなく、結成時の立憲政友会は与党ではなかった。しかし同党は薩長閥の要人であった伊藤が結成した政党であり、且つ結成後約1ヶ月で第4次伊藤内閣が成立し、与党となった。

ⅲ 憲政本党の増税容認に反対した議員達の離党

・・・三四倶楽部を結成した議員(34名)

※北清事変に関する経費の捻出を大義とした酒造税、麦酒税、砂糖消費税、海関税の増税法案に対して、憲政本党は賛成した。同党はそれまで地租、郵便税、醤油税の増税前への復旧を唱えており、何らかの増税を自ら打ち出していたということはないから、法案への賛成には方針転換という面があった。一方で対外硬派が合流した政党であるという点では、北信事変に関する増税に完全に反対することは、不自然であった。当時は、立憲政友会を与党とする第4次伊藤内閣期であり、貴族院、衆議院の山県系の議員は、政界縦断への反発から法案に反対していた。第4次伊藤内閣を薩長閥内閣と見ることは当然ながらできないから、憲政本党の転換は薩長閥(政府)への接近だとはいえない。しかし増税の容認は、民党的な姿勢を採ることの限界を認めるという点で、薩長閥への接近を可能とする変化であり、その後憲政本党内では、山県-桂系に接近しようとする改革派が台頭する。

ⅳ 上のⅰ~ⅲに含まれない離党者の数(対象とした期間に復党している議員を除く)

・・・6名(うち1名が日吉倶楽部に加盟)

 

この改進党系の分裂の傾向が、自由党系のそれと異なる点は、改進党系、つまり憲政本党の薩長閥への明確な接近が見られない点である。この差異は、薩長閥への接近について改進党系が自由党系に先行され、主体的に状況を動かす機会に恵まれなかったために生じたといえる。

薩長閥への接近に反発して自由党を離党した議員達に近い面を持つ、改進党系(憲政本党)の離党者達(ⅲ)を見ても、三四倶楽部は前述の同志会と同じく、第3極の他の勢力と連携して、2大民党を結び付けようとする動きを見せなかった。そして不振に苦しんだ。以下の通りである。

同志会は8名中4名の議員が第5回以後の総選挙で当選をしている。そのうちの2名が母体の進歩党か憲政党の進歩党系として当選している。そうでない2名は有志会(『キーワードで考える日本政党史』第9章④参照)を結成した。有志会は積極的に再編に動くことはなく、所属議員が自らに近い勢力に参加すべく解散した(註4)。

三四倶楽部は、結局は、同派に比して消極財政志向を弱めていた憲政本党と妥協に至らなかったとはいえ、後にして来たばかりの同党との、再統一を策した(註5)。また、同派と立憲政友会との接近すら報じられた(1901年11月21日付東京朝日新聞)。どちらも実現していないのであるが、憲政本党に復帰する議員が目立つ(註6)。

三四倶楽部(残部)は、第7回総選挙において当選者を6名しか出すことができなかった。同派の一部は総選挙前に新潟進歩党を結成し、同派を離れていた(阿部恒久氏は、旧立憲革新党系が多数派であったことが、三四倶楽部の新潟県内選出議員が独自行動を採るようになった一因だとしている―阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』276頁―)。その新潟進歩党は7名の当選者を出した第7回総選挙後、三四倶楽部と会派、同志倶楽部を結成した。しかしその議席数は13と、結成時の三四倶楽部の議席数34を大きく下回っていた(衆議院の全議席が300から376に増えたにもかかわらず)。

三四倶楽部の結成にはまた、日本の1党優位の傾向を良く表しているという面がある。同派所属議員のうち、第1回総選挙から第4回総選挙で当選したことのある議員は、以下の17名である。

秋保親兼    山形2  立憲革新党→進歩党

石原半右衛門  京都5  大成会→巴倶楽部→芝集会所→政務調査所→大手倶楽部→進歩党

市島謙吉    新潟2  立憲改進党→進歩党

大東義徹    志賀3  大成会→巴倶楽部→溜池倶楽部→同盟倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

加藤六蔵    愛知10 大成会→協同倶楽部→独立倶楽部(1)→独立倶楽部(2)→溜池倶楽部→同盟倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

金岡又左衛門  富山1  進歩党

喜多川孝経   京都4  大手倶楽部→進歩党

菊池九郎    青森3  立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

工藤行幹    青森2  立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

塩路彦右衛門  和歌山3 独立倶楽部→紀州組(共に第2回総選挙後)

鈴木重遠    愛媛4  立憲自由党→自由倶楽部→巴倶楽部→同盟倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

高岡忠郷    新潟3  立憲自由党→山下倶楽部

高木正年    東京12 立憲改進党→進歩党

竹内正志    岡山2  中国進歩党→進歩党

奈須川光寳   青森1  立憲自由党→進歩党

初見八郎    茨城4  独立倶楽部(第3回総選挙後)

室孝次郎    新潟8  立憲改進党

立憲改進党の衆議院議員であったのは、わずかに3名だ。三四倶楽部が主に、改進党系の本流を歩んできたのではない議員達によって、結成されたことが分かる。進歩党内における彼らの不満は、以前から報道でも指摘されていた(註7)。

優位政党に対抗するために、非優位の諸政党が合流し、そのために統一性を弱めるという傾向は、後にも度々見られる。憲政会と政友本党が合流した立憲政友会からは、政友本党の領袖であった床次竹次郎ら多くの議員が離党したし、日本社会党は何度も大きな分裂を経験した。新進党は合流前よりも細かく分かれるような分裂をしたし、民主党も大分裂をし、そうでない時も、具体的な政策を示すのに苦労するほど、統一性が弱かった。政党等が合流する際の問題点としてだけではなく、1党優位制の悪影響として認識されるべき問題でもあるといえる。

さて、第7回総選挙において新潟進歩党は、自由党系と改進党系が議席を分け合っていた新潟県内の、市部と郡部の計9議席のうちの、7議席を得た。ただし大竹貫一が返り咲くなど、当選者全員が入れ替わった。総選挙後は、7名中、立憲改進党出身の2名を除く5名が国権派であり(阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』274頁)、同党では国権派の影響力が強まったと考えられる。大竹ら国権派は大隈系との間に溝があったから、新潟進歩党は憲政本党に復帰しようとする志向を弱めた(註8)。しかし新民党は対外強硬派と親和性が高かったから、それによって同志倶楽部の姿勢が、結成時の三四倶楽部と大きく変わるということはなかった(註9)。

同根である三四倶楽部も新潟進歩党も、他の勢力と積極的に合流することはなかった。同志倶楽部が第8回総選挙後に再結成された際、そこに、当選者を1名しか出せなかった三四倶楽部系の姿はなかった。ここでいう三四倶楽部系とは、第7回総選挙の同派の当選者のうち、憲政本党に復党しなかった議員を指す。復党したのは2名である(第7回総選挙後に憲政本党に復党した菊池九郎と、第7回総選挙後に三四倶楽部を脱しており、憲政本党から当選した工藤行幹)。憲政本党に復党していない三四倶楽部系唯一の当選者であった竹内正志は、同志研究会系や河野広中と合流して無名倶楽部を結成した。三四倶楽部結成時のメンバーで、第7回総選挙に当選せず、第8回総選挙に当選した者はいなかった。

1902年10月3日付の東京朝日新聞によると、新潟進歩党内では、坂口仁一郎(1903年5月28日に同志倶楽部を離脱)が憲政本党への復帰を志向しており、大竹貫一は復帰に反対であった。当時、憲政本党の地租増徴、海軍拡張問題に対する態度が判明していなかったため、当分復帰を見合わせることとなった。そして第8回総選挙後、新潟進歩党系(同志倶楽部8名のうちの7名が所属)は、1903年12月1日に一度憲政本党に復帰し、それに反発した大部分の衆議院議員がすぐに憲政本党を脱するという事態に陥った(註10)。そして憲政本党を脱した議員達は、立憲政友会の離党者の一部と同月6日、交友倶楽部を結成した。同派は、少なくとも全体的には薩長閥寄りの中立会派であったといえる(『キーワードで考える日本政党史』第8章⑤、補足等参照)。この7名中、第9回総選挙で当選したのは2名のみであった。その2名(大竹貫一と萩野左門)が、交友倶楽部系や中正倶楽部系による甲辰倶楽部に参加せず、無所属を続け、結局は政交倶楽部の結成に参加したことは興味深い。直ちには新民党に加わらなかったものの、結局は加盟したという点にも、薩長閥政府との接近に反発した自由党系の離党者とは違う一面が見える。大竹と萩野は衆議院議員として憲政本党を脱したわけではないが、参考にすべき例だと考える。

交友倶楽部は、立憲政友会と憲政本党が提携して第1次桂内閣に対抗しようとした際、憲政本党内の対外強硬派と共にこれを阻もうとした。この動きは新民党の路線とは全く異なるものであった。背景には、同志倶楽部内の新潟進歩党系が、国権派を多く含んでいた越佐会(新潟県の改進党系と国権派が合流したもの-『キーワードで考える日本政党史』第4章第3極実業派の動き(①②)等参照-)の流れを汲んでいたこと、国権派等の対外強硬派が政友会内閣の外交に批判的であったことがある。

結局、この妨害は仕敗に終わった。薩長閥政府と対決しない大規模な対外硬派の形成は、2大民党の系譜が圧倒的多数を誇る野党であった衆議院においては、その2大民党を結びつけようとする新民党の構想よりも、難度が高かったのである。

民党的な路線を採った三四倶楽部系には、憲政本党以外に連携相手がなかった。同派以外に新民党は存在しなかったのである。それは、改進党系に分裂をもたらすような変化が起こったのが、自由党系が薩長閥に接近した、その後であったためだ。三四倶楽部を結成した議員達が憲政本党を離党した時期には、自由党系が長州閥伊藤系との合流を済ませており、自由党系にありながら薩長閥への接近に反対であった議員達はすでに離党し、当時は改進党系と合流していた。

また、伊藤系や自由党系の合流による立憲政友会は、当時衆議院の過半数を上回っていた。三四倶楽部が望むと望まざるとにかかわらず、2大政党の野党共闘を実現させることは、非現実的であった。薩長閥政府への接近に否定的な議員達が展望を見出せる状況ではなかったのである(それ以外の改進党系の離党者達にとっても、ほぼ同様であった)。

なお、三四倶楽部の結成者には以前の自由党の離党者、菊池九郎、工藤行幹、そして同志会の結成者でもあった鈴木重遠が含まれている。彼らは再度、所属政党が民党的な性格を弱めたことに反発し、離党した。上で、「自由党系にありながら薩長閥への接近に反対であった議員達はすでに離党し、当時は改進党系と合流していた」とした。そのうち、菊池と工藤の2名は、再度離党してまでも、民党的な姿勢を貫いたということになる。

改進党系は薩長閥への接近について自由党系に先行され、一時的に勢いを見せることはあったものの、自由党系と渡り合うことはできなかった。そのため、改進党系からの離党者達が与えた影響は、自由党系、その離党者達と比べ、小さかった。特に立憲政友会の結成後は、同党が、1924年に真っ二つに割れるまでは、基本的には優位政党の地位をほしいままにし、改進党系が状況を主導する機会は少なかった。

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