3-14. 自由党系の分裂3.補論

14. 自由党系の分裂

自由党系の分裂は、大正期(≒桂園時代の終焉)までは、3つの時期に集中しているといえる。なお、自由党系は3つの時期における分裂による議席の減少を、分裂が終わってから2回目の総選挙を待たずに、約半数から大部分、回復している(註1)。これは総選挙による議席の増加と、入復党者による(同註1)。自由党系の、薩長閥に近いという有利な立場、または衆議院における優位性に起因していると思われる。

ここでは、離党後に同じ会派を結成する、あるいは同じ会派に参加する3名以上の離党を、それが互いに無関係の動きでなければ、同時でなくても集団離党とする。自由党系の規模では、3名の離党を分裂と呼ぶことは適当だとはいえない。しかし、そのようないくつかの小規模な集団離党が短期間に集中している場合、分裂と呼んで差し支えないと考える。実際には、以下で記すより多く、離党者がいることがある。しかし、ここでは無所属となった議員については触れない(そのような離党者が多かった場合は、参考として付記する)。

3つの時期に自由党系から集団的に離党した衆議院議員達は、薩長閥政府に寄った者達、自党の薩長閥政府への接近に否定的であった者達、そのどちらともいい難い者達に分けることができる。それは以下のようになる。それぞれのⅰ~ⅲは時系列となっており、()内は既成の政党、会派に参加した、または結成時の会派に含まれる、自由党系からの離党者の数である。下記の①は、②、③と比べると、期間がやや長い。しかし自由党の変化を巡る、一つの流れだと捉えることができる。また②と③の狭間にあった憲政党(自由時系)からの、議員同志倶楽部を結成する3名の議員の離党は省略した(このうちの1人である岡野寛は憲政本党の出身であり、約11ヶ月、自由党系の憲政党に属したに過ぎない)。

 

① 1890年~1893年

ⅰ 薩長閥政府に寄った議員達の離党

・・・国民自由党を結成した議員(3名)、自由倶楽部を結成した議員(29名-結成後1ヶ月以内にさらに4名-)、無所属として協同倶楽部に参加した議員(5名)

ⅱ その他の議員達の離党

・・・巴倶楽部を結成した議員(3名)、東洋自由党を結成した議員(3名)

ⅲ 自党の薩長閥政府への接近に否定的であった議員達の離党

・・・同志倶楽部を結成した議員(18名―結成した月の間にさらに3名―)、第3回総選挙後に離党し無所属となった議員(当時離党した5名のうちの少なくとも3名)

ⅳ 上のⅰ~ⅲに含まれない離党者の数(対象とした期間に復党している議員は除く)

・・・9名(独立倶楽部―第2回総選挙後―に2名、芝集会所に1名)

 

② 1896年~1897年

ⅰ その他の議員達の離党

・・・議員倶楽部を結成した議員(3名-結成の約10ヶ月後にさらに1名が自由党から議員倶楽部に移動-)

※この3名は、自由党の伊藤系への接近や妥協に反発していた議員達の一部であったが、それは党を主導していた土佐派に対する反発であり、彼らもまた、薩摩閥に接近した(註2)。そのため、その他の勢力であると考えた。

ⅱ 薩長閥政府に寄った議員達の離党

・・・新自由党を結成した議員(12名-うち3名が、自由党を離党して議員倶楽部に加盟後、新自由党の結成に参加した。彼らは②ⅰの3名ではない-)、新自由党が参加した公同会に、新自由党を経ずに参加した議員(3名)

※第2次伊藤内閣とは提携した自由党が、第2次松方内閣とは対立したことに否定的であった議員達が自由党を脱して新自由党を結成したものとみられる(註3)。新自由党には自由党関東派からの参加もあったため(註4)、駐米公使への就任による星亨の不在によって党内で土佐派に対して劣勢となったことに不満を持った関東派の一部が、土佐派に対抗して薩摩閥と接近し、自由党を離党、新自由党を結成したという面もある。

※第2次松方内閣期に自由党を離党して富山県知事となった石田貫之助は新自由党と近かったため、このⅱに準ずるものとして、ⅰとⅳには含めないこととする。

ⅲ 自党の薩長閥政府への接近に否定的であった議員達の離党

・・・東北同盟会を結成した議員(4名)

※この動きの中心人物であった河野広中は、薩長閥政府と提携しても利用されるため、一大政党を組織しなければならないとした(註5)。

ⅳ 上のⅰ~ⅲに含まれない離党者の数(対象とした期間に復党している議員、第2次伊藤内閣期、政府に役職を得たために自由党を一時的に離れた2名は除く)

・・・5名(うち2名が国民協会、1名が日曜会へ)

※ⅱ、ⅲと同時期に、他に4名が自由党を離党し、1名が公同会の結成に参加した。

 

③ 1902年~1903年(立憲政友会結成後)

ⅰ 薩長閥政府に寄った議員達の離党

・・・政友倶楽部を結成した議員(5名―結成後1ヶ月以内にさらに1名―)

※政友倶楽部は、立憲政友会の革新運動を行っていた議員達の中で、第1次桂内閣との関係を疑われて同党を除名された議員達が、御用候補として総選挙に立候補しようとしたとして立憲政友会を除名された(註6)川越進ら無所属議員の一部と結成した会派であった。

※1903年3月1日の第9回総選挙の前の除名が5名、総選挙後の除名が3名である。前者のうち3名は第9回総選挙に当選しておらず政友倶楽部のメンバーではなかったが、ⅰに準ずる離党者と考え、ⅲ、ⅳには含めないこととする。

ⅱ 自党の薩長閥政府への接近に否定的であった議員達の離党

・・・同志研究会を結成した議員(15名)

※彼らは、伊藤総裁が独断で桂総理(第1次内閣)と、地租増徴継続によらない海軍拡張について合意したこと、公債による海軍拡張で合意したことに反発した(註7)。

ⅲ その他の議員達の離党

・・・交友倶楽部を結成した議員(10名)、自由党を結成した議員(23名)

※自由党の議員達の離党の理由は、同志研究会のそれと同様であった(註8)が、自由党は山県-桂系に寄った(註9)ため、その他の勢力とした(ただし2名は除名処分を受けている―註10―)。自由党結成者には上記の他、立憲政友会を離党し交友倶楽部を経た参加者4名、旧政友倶楽部系の参加者9名、無所属の2名(うち1名は元立憲政友会で繰り上げ当選となった山本幸彦)も参加し、結成時(衆議院解散後)は前議員が38名であった(同註8)。前者の交友倶楽部は第1次桂内閣寄りの傾向が見られた中立であった(註11)。後者の9名のうち、3名は③のⅰの5名に含まれる議員、1名は政友倶楽部に、その結成後に加わった議員である。交友倶楽部の結成には同志研究会の離脱者2名(うち1名がaに該当する立憲政友会の離党者)、同志倶楽部(新潟進歩党中心の会派)系7名、無所属7名も参加している。

ⅳ 上のⅰ~ⅲに含まれない離党者の数(対象とした期間に復党している議員、1902年、ⅰの最初の除名の前に離党した2名を除く-2名のうち1名は無所属に、1名は壬寅会へ-。1902年12月28日の衆議院の解散から1903年3月1日の第9回総選挙の間の前議員の離党はないと思われる)

・・・13名(このうち6名が後に大同倶楽部に参加しており薩長閥寄りとなったが、どの段階でそうなったかが不明であるため、自由党結成者と同様、ⅰ、またはⅰに準ずるものとはしなかった)

※ⅱとⅲについては、以下のように離党時期が重複している。そこで、早期の離党者が多く、会派の結成も早いⅱを、より早期の動きであったと捉えた。

立憲政友会からは、1903年5月12日から5月28日にかけて17名(aとする)が、1903年6月6日から12月1日までに33名(bとする)が、1903年12月3日から11日までの間に16名(cとする)が離党した。ⅱの同志研究会結成者はaのうち12名、bのうち3名、ⅲの交友倶楽部結成者はaのうち1名、bのうち7名、cのうち2名、ⅲの自由党結成者はbのうち18名、cのうち5名である。

 

これを見ると、薩長閥に寄った議員達が離党した後に本体が薩長閥に寄り、それに反発した議員達が離党するという経過が、間隔を開けて繰り返されていることが分かる。薩長閥に寄ったというのは、①では星や土佐派等の主導により自由党が伊藤系(第2次伊藤内閣)に接近したことである。②では新自由党が支持した第2次松方内閣から進歩党が離脱する前後、土佐派が伊藤に接近したことである。後者の当時、伊藤は閣僚ではなかった。しかし、自由党系は伊藤の首相就任の可能性を見込んで接近したのである。また、自由党九州派の松田正久らは薩摩閥と接近し、進歩党の政権離脱後には、第2次松方内閣との提携に動いた。③はⅲに付記した通り、立憲政友会総裁の伊藤博文が総理大臣であった桂太郎と、地租増徴継続によらない海軍拡張について合意をしたことである。これは、立憲政友会と第1次桂内閣が歩み寄ったものだということができる。

①の同盟倶楽部については『キーワードで考える日本政党史』第2章で述べた。②の鹿児島政友会は同第4~5章で見たように、鹿児島県の薩長閥政府支持派と民党の陣営が合流したものであったが、第3次伊藤内閣と対立した。

③の加藤高明は、三菱の社員を経て外交官となった。入社後には岩崎弥太郎の長女と結婚している。岩崎は、三菱の商業上の後ろ盾であった大隈の、立憲改進党と近かった。しかし、加藤は外交官として陸奥宗光の下にあり、外務大臣となった大隈の秘書官も務めたものの、第4次伊藤内閣に外務大臣として入閣するなど、より立憲政友会に近かった。また彼は、第2次山県内閣期に、山県からの外務次官就任の要請を断り(伊藤正徳編『加藤高明』上巻367頁)、その後第4次伊藤内閣の次の第1次桂内閣への留任を固辞した(同460~461頁)。政党内閣を志向する加藤(註12)と山県系との関係は、決して良いものではなかったのである。加藤は、立憲政友会と憲政本党の連携を目指していた。そして第7回総選挙で初当選をしてから、第8回総選挙後の1903年12月に同志研究会に加わるまで、2大政党のどちらかに属することを避け、無所属の立場を採っていた。この③の場合には、同志研究会の結成に奥田義人が参加していることにも注目すべきである。奥田は伊藤系の官僚であったが立憲政友会には参加せず、法制局長官を務めていた第1次桂内閣において、行政整理を進めようとして挫折、第8回総選挙で初めて衆議院議員(無所属)となった。加藤を同志研究会に入れたのは、この奥田であった(1903年12月5日付の読売新聞が、加藤が奥田の紹介で加入したと報じている。また、伊藤正徳編『加藤高明』上巻510頁)。

以上から、自由党系を脱した新民党の合流相手は、いずれも薩長閥政府に批判的になった、非民党の勢力であったことが分かる(ただし鹿児島政友会には、民党からの離脱者が含まれており、あくまでも、時の内閣に批判的であった)。

民党を脱してきた新民党と、その合流相手は、共に2大民党、つまり自由党系と改進党系を結び付け、薩長閥政府に対抗しようとした。

①の場合は、同志倶楽部が河野広中の衆議院議長就任を支持して(註13)、民党連携から伊藤系との接近への転換を進める星や土佐派に対抗しようとした(自由党は河野を第1候補とした)。そして同盟倶楽部がそれ以前から、自由党と立憲改進党の間を取り持っていた(註14)。

②の場合は、東北同盟会が1897年11月30日、自由、進歩両党に合同を勧告した(佐々木隆「第二次松方内閣の瓦解 (下)」146頁。1897年12月2日付読売新聞。これは両党の容れるところとはならなかった)。『鹿児島懸政黨史』によれば、(鹿児島県内選出議員等の)薩派の議員は、第12回帝国議会解散の3日後に自由、進歩両党の合同に賛成することを決めたのだという(『鹿児島懸政黨史』288頁)。衆議院の「薩派」とは、当時は同志倶楽部を指す言葉であった(例えば1898年5月13日付読売新聞)。この決定は、憲政党結成のわずか9日前であった。しかし、鹿児島政友会が民党系の議員を多く含んでいた(註15)こと、進歩党とやや近かった(註16)こと、河野広中の東北同盟会と会派を共にしていたことを考えると、鹿児島県内選出議員(鹿児島政友会所属議員)の多くは、それ以前から2大民党の連携を策していたか、少なくとも支持していた可能性が高いと考えられる。薩摩閥の高島鞆之助は、自身が「民黨合同の必要を首唱」していたとした(1898年6月18日付読売新聞)。新自由党については、駐米公使となっていた星が帰国して、憲政党の旧自由党系と旧進歩党系(改進党系)への分裂に動くまでは、自由党内の土佐派への対抗心もあり、親薩摩閥の姿勢を維持し、鹿児島政友会と行動を共にしたと、想像するしかない。1898年5月9日付の読売新聞は、進歩党、連携していた自由党と国民協会、そして中立派のそれぞれの議長候補とは別に、新自由党が河野広中を擁立しようとしていると報じている。

③の場合は、加藤高明が同志研究会結成以前から、立憲政友会と憲政本党の連携に重要な役割を果たし(註17)、同志研究会も、両党の連携維持を目指した(註18)。両党の合流を志向する議員も多くいたと考えられる(註19)。

➀~③の全ての場合、後に状況が変わり、さらに②と③では新民党の働きかけもあり、自由党系は再び薩長閥政府と対峙し、改進党系と手を組んだ。民党的な勢力の共闘を重視していたためか、自由党系を脱してきた新民党はどれも、拡大前か後のいずれかの会派名に、「同志」という言葉を含んでいる。

薩長閥に寄って自由党の系譜を脱した勢力は、多くの場合、独自の有意義な動きを見せないまま、短期間で政党、会派を解消している。①の国民自由党は1890年12月結成、1891年9月解散、自由倶楽部は1891年2月結成、同年12月解散、②の新自由党は、1897年2月結成、遅くとも1898年6月には消滅している。③の政友倶楽部は1903年5月結成、翌月解散と、存続期間は長くても1年4ヶ月、その後は雲散霧消しているのである。

①の国民自由党は、当時中立的な面を持っていた吏党系に合流しようとして失敗、③の政友倶楽部は、中立各派と無所属の連携の動きに関わり(1903年5月17日付東京朝日新聞)、解散の理由を、「将来益々同志を集め有力の團体を爲さんが爲」だとしたものの(1903年6月4日付東京朝日新聞)、再編の具体的なビジョンを示さずに解散した。①の自由倶楽部だけは、その際に脱落者が出た(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば3名が復帰に反対し、第2回総選挙後も自由党以外の会派に属した)ものの自由党と合流(再統一によって自由党に復帰)し、自由党内の有力派閥に戻った。他は有利な形で再編に進んだとは言い難い。②の新自由党は唯一、存続したまま総選挙を経験した。しかしその第5回総選挙の結果は、10議席から2議席への激減であった。

国民自由党、無所属から協同倶楽部に参加した議員達は、院内会派ではなかったと見ることもできる同倶楽部の解散後、完全なる無所属となり振るわなかった。新自由党に属したことのある13名のうちの、第5回総選挙以降に衆議院議員を経験していない者を除いた5名は全員、自由党系に復帰した。しかしそれは母体の要請を受けた上での復帰ではなく、影響力を持ち得なかった。彼らの後ろ盾でもあった星は、帰国後、1901年6月に殺害されるまで活躍したが、新自由党参加者が復帰後に自由党系において重きをなしたようには、とても見えない。

新自由党から自由党系に復帰した議員の、離党から復帰までの期間も見ておきたい。田村順之助、中村克昌、濱名信平の3名はいずれも憲政党の結成に参加し、第6回総選挙以後当選していない中村を除く2人と、第5回総選挙では当選しておらず、第6回総選挙で憲政党所属として当選した重野謙次郎は、憲政党が分裂した際、旧自由党系による憲政党に参加している。3人とも自由党からの離党は1897年の1月1日から3日、復党は遅くとも1898年10月29日(旧自由党系が旧進歩党系を排除して憲政党を結成した日)である。事実上の復党は、早ければ1898年6月22日に憲政党が結成されて間もなくであったと考えられるから、離党から復帰まではおよそ1年半から1年9ヶ月である。自由党系に復帰した5名のうち、まだ触れていないのは森久保作蔵である。彼は1897年1月27日に自由党を離党し、次の当選が1904年3月1日の第9回総選挙であり、立憲政友会からの当選であった。

政友倶楽部に属したことのある14名のうち、第9回総選挙につながる第19回帝国議会における衆議院の解散までに、立憲政友会に復党したのは1名のみであった。その1名を含め、結成以後の初めての総選挙であった第9回総選挙以後の総選挙に当選しているのは10名である。10名中5名が立憲政友会に(うち2名が大同倶楽部、1名は同攻会~猶興会を経て)復帰、その5名のうちの2名を含む7名が大同倶楽部に参加した。政友倶楽部の議員達は進む道を分け、影響力を減じた。後者のうち立憲政友会に復帰、加盟しなかった5名の会派の変遷は、大同倶楽部か、その後継の中央倶楽部で終わっている。

政友倶楽部は全員が立憲政友会を離れた議員達ではないから、立憲政友会を除名されて離れた5名に限って見る必要もある。第8回総選挙の前後に立憲政友会を除名された議員達の変遷は次の通りである。

板倉中   愛国公党→立憲自由党→自由倶楽部→自由党→立憲政友会→政友倶楽部→政交倶楽部→猶興会→立憲政友会→大正倶楽部(未結成)→中正会

久保伊一郎 立憲政友会→政友倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部

関信之助  自由党→憲政党→憲政党→立憲政友会→政友倶楽部→自由党→大同倶楽部→立憲政友会

龍野周一郎 自由党→憲政党→憲政党→立憲政友会→政友倶楽部→自由党→立憲政友会

持田若佐  立憲政友会→政友倶楽部→自由党→大同倶楽部

立憲政友会に衆議院議員として戻っているのは、5名中3名である(うち1名は大同倶楽部を経ている)。その3名を見ると、関が1902年12月19日の除名、1907年3月2日の復党、板倉が1903年4月18日の除名、1907年9月22日の復党である。1903年4月18日に除名された龍野は、自由党の結成に参加して以後、第14回総選挙で当選するまで衆議院議員を務めておらず、1920年5月10日の同選挙で立憲政友会から当選している。彼らの復帰の動きは、まとまったものではなく、彼らが立憲政友会において一定の地位を得たということもない。

薩長閥政府に接近した離党者達に対して、薩長閥政府への接近に反対して自由党系を離党した議員達は、比較的良くまとまりを維持しながら、力を削がれることなく改進党系との再編へ進んだ。

①の同志倶楽部は、立憲革新党、進歩党の結成に参加した。この間の同志倶楽部系議員の離脱は自由党に復党した長谷川、中江、二位、議員倶楽部に参加した小林と蒲生、鹿児島政友会に参加した長谷場のみであり、二位は立憲革新党に加盟、つまり事実上の復党をしている。同志倶楽部結成時、結成後の加盟者、第3回総選挙で当選した同志倶楽部員の所属政党、会派の変遷をみても、脱落が少ない。議員を続けているメンバーは、公同倶楽部(同盟倶楽部との統一会派)、この公同倶楽部を政党化した立憲革新党、そして進歩党、憲政本党、立憲国民党と、彼らが合流した改進党系の本流から外れていないのである。次の通りである。同志倶楽部の本流を外れた移動に下線を付した。

・同志倶楽部結成時の参加者

荒谷桂吉  自由党→同志倶楽部→憲政本党→立憲国民党

岩崎萬次郎 自由党→立憲自由党→自由党→同志倶楽部

小野吉彦  自由党→同志倶楽部

折田兼至  九州同志会→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

菊池九郎  大同倶楽部→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党→三四倶楽部→憲政本党

工藤行幹  大同倶楽部→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党→三四倶楽部→憲政本党

小林樟雄  愛国公党→立憲自由党→自由党→自由倶楽部→自由党→同志倶楽部

小林乾一郎 自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→議員倶楽部→公同会→憲政党→憲政党→立憲政友会

坂本理一郎 自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

榊喜洋芽  大同倶楽部→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

朝長愼三  九州同志会→立憲自由党→自由党→同志倶楽部

中島祐八  自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲国民党

野出鋿三郎 自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

長谷川泰  自由党→同志倶楽部→自由党

長谷場純孝 九州同志会→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→鹿児島政友会→同志倶楽部→憲政党(分裂前)→立憲政友会

東尾平太郎 大同倶楽部→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党

藤田孫平  愛国公党→立憲自由党→自由党→自由倶楽部→自由党→同志倶楽部

前田莞爾  自由党→同志倶楽部

・結成後、第三回総選挙前までの加盟者

蒲生仙   九州同志会→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→議員倶楽部→公同会

武石敬治  大同倶楽部→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲政友会

鈴木萬次郎 大同倶楽部→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→憲政党→憲政本党→立憲国民党→無所属団→立憲同志会

・第四回総選挙にいて新たに同志倶楽部から当選した議員

木内信   同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→中正倶楽部

渋谷禮   同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

武富時敏  立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲国民党→無所属団→立憲同志会→憲政会

中江豊蔵  同志倶楽部→自由党

二位景暢  同志倶楽部→自由党→立憲革新党→進歩党

野田常貞  同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

源晟    同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党→進歩党

安田愉逸  九州同志会→立憲自由党→自由党→同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

山口半七  同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

横山勇喜  同志倶楽部→公同倶楽部→立憲革新党

先に述べた6名以外に本流を外れたのは、立憲政友会に移った武石、長い非衆議院議員時代を経て中正倶楽部に参加した木内、三四倶楽部を結成した菊池、工藤だが、菊池と工藤は復党した。2人の動きにはまた別の意味があるが、後述する。

ともかく、復党した議員を除けば、本流を外れたのは、上に挙げた全31名中の7名である。大政党よりも流動的であった第3党以下、第3会派以下の勢力としては、まとまりを良く維持したというべきである。

②の東北同盟会は、同志倶楽部、憲政党の結成に参加した。この間離脱者はない。東北同盟会は第5回総選挙で勢力を4議席から2議席に減らしたが、結成時の4名中、結成以後初めての総選挙である第5回総選挙において当選しなかった3名のうち、2名が後に憲政本党から当選した。東北同盟会から同志倶楽部に参加した河野広中は、後に憲政本党の総務委員となった。鹿児島政友会系は憲政本党を早々に脱したから別として、同志倶楽部系の、河野派であったともいえる東北同盟会系は、自らが結成に参加した新政党の中で、一定の地位にあったということができる。

③の同志研究会は、会派名を変えた上での再結成を繰り返しながら、事実上は長く存続した。その存続期間は、又新会までとすれば約7年、公正会までとすれば約13年である(両会を挙げた理由については『キーワードで考える日本政党史』第11章~第13章で見る)。同派の系譜にある又新会の約半数は、第2党の憲政本党と合流し、立憲国民党の結成に参加した(註20)。この時、同志研究会以来のメンバーであった5名中、鈴置倉次郎を除く4名は参加せず、立憲国民党の結成前後に立憲政友会、つまり自由党系に復帰している。だから同志研究会は例外となる。

立憲政友会を離党して同志研究会を結成した議員達は、再編をめぐる会派内の意見対立のために、同志研究会の系譜から離れたと考えられる。それを直接示す史料はないが、又新会を脱した時期は基本的に再編(立憲国民党結成)の少し前から直後であり(註21)、彼らが野党再編に否定的であったとも考えにくいからである。しかし、同志研究会の系譜は憲政本党と合流して立憲国民党を結成した。その際の不参加者(又新会残留者)も、新民党の性格を持つ会派として、その系譜を存続させた。そしてその残留派からは、7名が立憲同志会に(註22)、多くが憲政会に(註23)参加した。自由党を離党した議員達が有利に再編に進んだとは言い難いこと、まとまりを維持できず、所属議員の道が複数に分かれたことは確かだ。しかし、器自体は決して不振の内に消滅したわけではなく、比較的長く存続し、少なくない議員達がまとまって第2党に合流することで、その強化、つまり日本政治の2大政党制への接近を助けたのである。

中正会系の尾崎行雄と早速整爾は憲政会において総務を経験している。尾崎は同志研究会から又新会へと歩み、立憲政友会に復党したものの再度離党、政友倶楽部を経て又新界の系譜に再度合流している。早速は無名倶楽部以後の、同志研究会の系譜を一貫して歩んでいる。同志研究会の系譜は、合流した改進党の系譜において、一定の地位を得ていたといえよう。なお、無名倶楽部以後の同志研究会の系譜に所属し、立憲国民党の結成に参加、やはり憲政会で役員を経験した河野広中は、同志研究会結成者と同じく、自由党系から離れた議員であった。

以下は補足である。又新会に属したことのある49名の衆議院議員達のうち、23名が立憲国民党に属したが、うち9名が立憲同志会に参加し、4名が立憲同志会の衆議院議員を経ず、憲政会に参加している。立憲国民党の衆議院議員を経ずに立憲同志会に参加した議員も3名いる。立憲政友会に属したのは、いずれも、もともと立憲政友会の離党者であった5名であった。

確かに、そのいずれにも該当しない議員は18名と多い。しかしこの中で憲政会に属した3名を除いた15名中、5名が第11回総選挙以後当選しておらず、2名が第12回総選挙以後、3名が第13回総選挙以後、4名が第14回総選挙以後当選していない。同志研究会の系譜の本体は、やはり改進党系に行ったというべきである。ただし、遡って同志研究会の結成時のメンバーを見ると、話は変わってくる。改進党系に行った議員は4名と少なく、立憲政友会に行った議員は8名と多く(小崎と中西は双方に数えた)、その他の議員は10名と、もっと多い。その他の議員が多いのは、以後の総選挙に立候補、当選する者が少ないからだ。立憲政友会に行く議員が多いのは、立憲政友会の離党者に、復党を志向する者が多かったからだろう(尾崎と小川が自ら述べた復党の背景に就いては『キーワードで考える日本政党史』第11章で見る)。その中には当然、結成時の又新会のうち、立憲政友会に移った者として数えた議員達も含まれている。それでも総合して見れば、同志研究会の系譜は、他の無所属の議員等と合流し、自由党系に戻る者、既成政党に属さない者も少なからずいたものの、やはり器としては、改進党系に交じっていったのだといって良いだろう。

以上から、同志研究会を結成した議員達のケースは、薩長閥政府への接近に反発して離党した議員達の3つのケースの中では例外となるものの、薩長閥政府に接近した離党者達のケースとは大きく異なっているといえる。

薩長閥政府に寄って自由党の系譜を脱した勢力は、彼らが離党した後、より規模の大きな母体(自由党系の本体)自体も薩長閥政府に接近したのだから、存在意義を失っても不思議ではなかった。ただし①の自由倶楽部については、すでに述べた通り、分裂が母体を大きく変化させ、必要とされて復党したのだから、他とは異なる。②と③の場合も、自由倶楽部の例ほどではないにしろ、薩長閥政府に切り崩しを受けて、除名となった者を含めて離党者が出たことで、自由党の系譜を多少なりとも動揺させ、展望なき対立を終わらせる意図と合わせて、薩長閥との接近に向かわせたという可能性はある。いずれにせよ、自由倶楽部を除けば、薩長閥政府に寄った離党者達は、不利な立場となった(そうではない自由倶楽部の系譜も、後に立憲政友会を離脱して自由党を結成した後には、不利な立場となった)。

薩長閥政府への接近に反発して離党した議員達を見ると、①の同志倶楽部、②の東北同盟会に前述の通り母体に復帰した議員が少なく、同志研究会の結成に参加し、その系譜から立憲政友会に復党した議員達(所属した全21名のうち、立憲政友会を離党した議員15名中の8名)も次の通り、その復党は比較的遅い。立憲政友会に入復党していない議員も、21名中13名おり(うち7名が立憲政友会離党者)、その中の3名は同志研究会の後継会派を歩んでいる(うち2名が立憲政友会離党者)。また1名は、新民党ではなく吏党系の、大同倶楽部へと歩んでいる)。

小川平吉  1903年5月27日に立憲政友会を離党

→1910年3月17日に又新会から立憲政友会へ

尾崎行雄  1903年5月21日に立憲政友会を離党

→1909年12月22日に又新会から立憲政友会へ

齋藤和平太 1903年5月26日に立憲政友会を離党

→1904年3月1日の第9回総選挙に立憲政友会から当選

富島暢夫  1903年5月28日に立憲政友会を離党

→1909年8月2日に又新会から立憲政友会へ

※交友倶楽部を経て、同攻会という新民党の系譜に戻っている。

中西新作  1903年5月26日に立憲政友会を離党

→1908年1月20日に猶興会から立憲政友会へ

日向輝武  1903年5月27日に立憲政友会を離党

→政交倶楽部の結成に参加せず、1906年1月20日に立憲政友会へ

望月圭介  1903年6月26日に立憲政友会を離党

→1908年5月15日の第10回総選挙に立憲政友会から当選

山口熊野  1903年5月24日に立憲政友会を離党

→1910年3月23日に又新会から立憲政友会へ

一方で、薩長閥政府に接近した①の自由倶楽部は大部分が約10ヶ月、②の新自由党は、大部分が最も長く見て1年10ヶ月(前述の通り実際にはそれより短いはずである)で復帰している。③の政友倶楽部の立憲政友会除名者は5名中3名が復党しているが、離党から復党までの期間は同志研究会系からの復党者と、あまり変わらない。これは立憲政友会から大量の離党者が出て、母体が動揺し、また再編等の機会に恵まれていたためだと考えられる。全体的には薩長閥政府に寄った議員達の復党は早いといえる。彼らが変化を生む一因とはなっても、その変化を主体的に担う勢力になり得なかったことは、そのような姿勢に起因するのではないだろうか。

薩長閥政府に寄った離党者達は、新たに結成した会派に、いずれも母体名の一部を使っている。このことは彼らの関心の範囲が、薩長閥への接近に反対して離党した勢力のように、新たな再編を主導しようとするまでには広がらず、母体と自派、または切り崩しを仕掛けていた相手に留まっていたことを窺わせる。比較的短期間で母体に復帰した議員が多いことは、それを示しているといえる。

再度の離党の動きに触れたところで、①~③のうち、薩長閥政府に寄った離党者、薩長閥への接近に否定的であった離党者で、2大民党の系譜の一方に復党、または移りながら、後に再度離党した議員達を見ておきたい。それは以下の通りである。人数は少ないが、現在よりも総選挙における議員の入れ替わりが多かった時代であり、有名な議員も含まれていて、有用な例であると考えられる。

 

①ⅰ自由倶楽部(薩長閥政府に寄った議員達):林有造、片岡健吉、鈴木重遠

→自由党:林(結成前に死去した片岡は不参加)

※自由党は山県-桂系の帝国党と接近し、第1次桂内閣末期に同党と合流した。この時、林は参加せず無所属となったが、自由党自体は前述の通り、結成前から第1次桂内閣側に接近していたといえる(『キーワードで考える日本政党史』第9章参照)。

→同志会:鈴木(鈴木は自由倶楽部、巴倶楽部、同盟倶楽部、立憲革新党、進歩党と歩み、同党を離党して同志会を結成、進歩党に復党したものの、憲政本党を脱して三四倶楽部を結成)

 

ⅰ協同倶楽部(薩長閥政府に寄った議員達):井上角五郎、佐藤里治

→中立倶楽部:井上(井上は大同倶楽部の結成に参加し、立憲政友会に復帰したが、再度離党し、非政党内閣であった清浦内閣を支持した政友本党の結成に参加した)

→大同倶楽部:佐藤(佐藤は第2回総選挙後、中央交渉部、有楽組、同盟倶楽部に属し、その後は立憲革新党、実業団体を経て改進党系に入り、憲政本党を脱して議員同志倶楽部を結成した。そして甲辰倶楽部に参加し、吏党系の帝国党等と大同倶楽部を結成した。)

 

ⅲ同志倶楽部(薩長閥政府への接近に否定的な議員達):菊池九郎、工藤行幹、

長谷場純隆、武石敬治

→同志倶楽部(第5回総選挙後、新民党):長谷場

→立憲政友会:武石(武石は進歩党の結成に参加したが、憲政本党を脱して立憲政友会の結成に参加した)

→三四倶楽部(新民党):菊池、工藤

 

②ⅱ新自由党(薩長閥政府に寄った議員達):田村順之助

→自由党、政友本党:田村(田村は全部で3回、自由党の系譜を脱している。自由党結成後は、帝国党等との大同倶楽部の結成に参加している)

※政友本党は、清浦非政党内閣に対し野党の立場を採る立憲政友会を脱した議員達によって結成され、清浦内閣を支持した。

ⅲ東北同盟会(薩長閥政府への接近に否定的な議員達):河野広中

→無名倶楽部(新民党):河野

※河野は、東北同盟会、同志倶楽部、憲政党を経て憲政本党に参加し、同党を離党した。

 

③ⅰ政友倶楽部(薩長閥政府に寄った議員達):板倉中、関信之助

→大正倶楽部(未結成):板倉、関

ⅱ同志研究会(薩長閥政府への接近に否定的な議員達):日向輝武

→大正倶楽部(未結成):日向

※大正倶楽部とは、第2次大隈内閣の陸軍二個師団増設案に、立憲政友会の党議に反して賛成して離党した議員達が結成しようとしたものである(註24)。

 

ここには、ある傾向が表れている。薩長閥政府に寄って離党した議員は、再び時の権力に寄って、復帰した自由党の系譜を脱しているのである。そして薩長閥政府への接近に反対して離党した議員は、改進党系に移ったが、その改進党系が野党色を薄めたことに反発したか、独自に野党的な立場を貫こうとして離党しているのである。政党が変化する中、彼らこそが、自らの姿勢を維持したのだという見方ができる。

例外は鈴木重遠、武石、日向である。ただし鈴木は、立憲自由党の離党者であるものの、自由倶楽部を脱した後、巴倶楽部、同盟倶楽部という新民党に参加し、改進党系を2度脱している。そしてそれぞれ、やはり新民党の会派の結成に参加している。長谷川は親薩摩閥となったものの、同志倶楽部に参加したことで、結果として例外になっていない。蒲生仙、小林乾一郎は①の期間の同志倶楽部の参加者であったが、後身の立憲革新党が進歩党の結成に参加する直前、これを脱し、時の政権の中心であった薩摩閥に寄った。彼らは自由党系を脱した後、2大政党に属さなかったのだが、例外的な動きに目をつぶらないために、挙げておくべき例だと考えた。

政党の分裂は、党内の対立感情と政策・理念の相違等が合わさって起こる。対立感情の比重が大きくなり、信条が後ろへ下がるということがあっても、不思議ではない。薩長閥政府側には複数の実力者等を中心とした派閥があり、その1つが政党に譲歩する姿勢を示したり、議員を買収しようとしたりすることがあった。以上を踏まえれば、例えば伊藤系との接近には反対であっても、薩摩閥との接近には賛成だということも当然あり得る。推測の域を出ないが、これらの要素が合わさって、例外的な動きは生じたのであろう。もちろん、例外的な動きが起こり得るほど、長州閥、薩摩閥、自由党系、改進党系の間の差異が小さかったということもできる。また、離党者が結成した勢力の多くは対外強硬派であり、薩長閥との関係については一貫性がなくても、外交姿勢では一貫性があった議員もいる。これらの点については、改めて検証したいと思う。