2大民党制・第3極(⑦)~全院委員長選に見る対立構図の変化~
12月6日付の読売新聞は、2大政党の領袖が、予算委員長を大岡育造(立憲政友会―国民協会出身―)、全院委員長を尾崎行雄(同志研究会)とすること、常任委員を2大政党で独占することを計画しているとする(1903年12月6日付読 …
12月6日付の読売新聞は、2大政党の領袖が、予算委員長を大岡育造(立憲政友会―国民協会出身―)、全院委員長を尾崎行雄(同志研究会)とすること、常任委員を2大政党で独占することを計画しているとする(1903年12月6日付読 …
立憲政友会の離党者が結成した会派は、3つある。第19回帝国議会開会前の、12月を待って結成された、同志研究会、交友倶楽部、そして自由党だ。自由党だけは衆議院解散後の結成であり、会派として現れるのは第9回総選挙後である。こ …
自由党は、交友俱楽部とは別の意味で単純ではない。同志研究会を結成した議員達、交友倶楽部を結成した議院達の大部分などを除く、立憲政友会の離党者達による新勢力であり、政党であったとは言い難い。自由党の中心となったのは、立憲政 …
交友倶楽部は中立とされていたが、分かりにくい勢力である。同派の結成に参加した立憲政友会離党者の大部分は、神奈川県、愛知県、広島県内の選出であり、他も隣接する東京府、岐阜県の選出であった。広島県の離党者は、第1次桂内閣寄り …
立憲政友会の革新運動をしていた議員達、あるいはそうではなくても、第1次桂内閣(山県-桂系)との妥協に本当に反対の議員達が結成したのが、同志研究会であったと言える。対外強硬派の議員も含まれていたが、薩長閥への対抗、総選挙で …
中立派との連携が強まるという、吏党系(帝国党)が望んできた展開となる中、そこにさらに立憲政友会を離党した土佐派等による、自由党となる勢力も加わった。立憲政友会が他をある程度引き離してはいたが、山県系が望んできた、どの勢力 …
当時、帝国党が対外硬派に名を連ねて立憲政友会に対抗するという状況があった。具体的には1900年9月24日結成、1902年4月27日解散の国民同盟会への参加、1903年7月27日結成の対外硬同志会への参加である。これは自由 …
山県-桂系が、憲政本党内も含めた対外強硬派、可能な限りの立憲政友会離党者を糾合して民党連合に対抗していたならば、政界は拡大吏党とも、かつての吏党系とも呼べるもの(第9、10章参照)と、民党(2大政党残留派と新民党)に2分 …
立憲政友会の優位性の低下は、第3党以下にとっても、チャンスであった。立憲政友会が過半数を少なからず下回ったことで、まとまれば衆議院のキャスティングボートを握ることができた。実際にそれらは連携を策した。第18会帝国議会の会 …
立憲政友会(自由党系)は第1党ではあったものの、過半数を割る野党となり、離党者が続出ていた。過半数までの距離が遠くなるほど、当然ながら、同党の優位性は弱まった。離党者がいつまで出続けるのかわからない状況も、同党の優位性を …