1党優位の傾向(⑩)~「神聖なる優位勢力」を前に野党がいがみ合う~
又新会(残部)の存続、再編、解散が問題になった時、存続に反対した花井は、次のようにも述べている(1910年12月21日付読売新聞)。 國民黨は政友會を罵り政友會は國民黨を罵り在野の政黨政府を向つて戦ひを挑むの氣力なく政府 …
又新会(残部)の存続、再編、解散が問題になった時、存続に反対した花井は、次のようにも述べている(1910年12月21日付読売新聞)。 國民黨は政友會を罵り政友會は國民黨を罵り在野の政黨政府を向つて戦ひを挑むの氣力なく政府 …
山県-桂系と立憲政友会、上院と下院ですみ分け~:貴族院の伯、子、男爵議員の互選は情意投合の後であった。山県-桂系は立憲政友会の協力に助けられたこともあってか、自らが政権の中心を担っている時期に、つまり有利な時期に、有爵議 …
1911年度予算案には、海軍からの要求が強まっていた海軍拡張費が含まれていた。第26回帝国議会期、地租軽減を0.8%に抑える理由として、所得税の減税を挙げていた桂であったが、その余裕はなくなり、政策的な取引、駆け引きでは …
衆議院における1強2弱を改めるためには、あるいは政界全体における2強化(薩長閥と自由党系―立憲政友会―が対等に近くなくる状況)の中で、その一方である薩長閥が、唯一の民選の機関であった衆議院にまともな基盤を持っていない状況 …
※当時の再編に関しては図⑩-Q参照。 1910年11月9日の原敬の日記から、立憲国民党の非改革派の領袖であった犬養が、立憲政友会との合流を主張していたことが分かる(『原敬日記』第4巻110~111頁)。しかし原は、立憲国 …
憲政本党、又新会だけはでなく戊申倶楽部にも、単にまとまりがないというのではなく、明確な亀裂が入っていたことは特徴的である。確かに前二者の不統一と、戊申倶楽部の不統一とは異なる。政党でない会派を巻き込んだ再編が進むにつれ、 …
又新会残部には存続を唱える議員達がいたが、同派は結局、非政友会再編(2つの小合同の実現)の約9カ月後の1910年12月21日、再編後初の帝国議会(第27議会)開会を迎えることなく、解散した。解散時の議席は18議席であった …
ここで、戊申倶楽部と又新会の議員達の分化について見ておきたい。まず、それぞれの議員がどの政党、会派へ移動したかを見る。議員の氏名(分化の時点で離脱している場合は氏名の次に「×」を付した)、選挙区、職歴(地方議員を「地」、 …
第10回総選挙における立憲政友会の獲得議席は187議席であった(定数は379。190議席で過半数となる)。それが第26回帝国議会開会時には200となっていた。その2日前、尾崎行雄は又新会を離れ、立憲政友会に復党していた。 …
旧又新会系、旧戊申倶楽部系のうち、中央倶楽部にも立憲国民党にも参加しなった議員達が、合流して会派を結成する可能性はあった。しかしその人数は30名程度(※)であり、非政友会勢力が当時、立憲国民党と中央倶楽部に整理されたとい …