1列の関係・2大民党制(⑧⑨)~鳩山和夫の移動~
他の党派に直接協力を依頼せずに郡制廃止法案を衆議院で可決させたことだけを見ても、衆議院の主導権を立憲政友会が握っていたことは明確だが、それを示し、政界全体に占める立憲政友会の重みをも示す出来事が、大同倶楽部の分裂と、憲政 …
他の党派に直接協力を依頼せずに郡制廃止法案を衆議院で可決させたことだけを見ても、衆議院の主導権を立憲政友会が握っていたことは明確だが、それを示し、政界全体に占める立憲政友会の重みをも示す出来事が、大同倶楽部の分裂と、憲政 …
衆議院を通過した郡制廃止法案ではあったが、貴族院では否決され、またもや成立しなかった。しかし多数派工作を一つの契機に、原が貴族院への影響力を強めたことは、確かであった。郡制廃止案に関して原は、山県系が運動したにもかかわら …
1907年2月13日付の萬朝報は、大同倶楽部において、塩専売を廃止し、代わりの財源を調査し、議会に提出すべきだとする建議案を、代議士会の議を経て、議会に提出する運びであることを報じている。これは、大同倶楽部の野党化を示す …
猶興会の島田三郎は、公選制であった郡会(~第6章⑦参照~)を廃止して郡役所を残すことは、郡役所を県庁の出張所として、議員選挙を支配しようとするものだという批判をした(『帝国議会衆議院議事速記録』22第23回帝国議会152 …
郡制廃止案の委員会の委員長について、大同倶楽部は自派から出したいと要求し、立憲政友会が内務省の提案であることを理由に応じないと(立憲政友会の原が内務大臣であった)、憲政本党と組んで、同党の肥塚龍を当選させた(1907年2 …
大同倶楽部の野党化は、第1次西園寺内閣の衆議院における基盤の過半数割れを起こさせる、大きな出来事であった。大同倶楽部はその結成当初から、内部対立によって揺れた。結成直後に参加を了承していない議員等が離脱、以後も離脱者が続 …
9月28日に佐々友房が死去したのは痛手であった。佐々は、第1回総選挙から連続して当選を続けていたベテランであり、熊本国権党の中心人物として、同党が第1回総選挙後の協同倶楽部(吏党系―大成会―との重複参加も多く、もう一つの …
1906年3月8日付の読売新聞によれば、鉄道国有化法案の特別委員会の、大同倶楽部所属の委員9名のうち、法案に賛成であったのは安達謙蔵(帝国党出身)、石塚重平(自由党~立憲政友会、甲辰倶楽部出身)、反対であったのは大戸復三 …
憲政本党の議席数の少なさは、組織化の程度がとても低かった、第3会派以下の勢力を事実上吸収する再編によっても、たとえその全てを吸収することはできなくても、かなり改善される可能性があった(その後、総選挙でそれを維持するという …
第1次西園寺内閣の軍拡、積極財政に否定的で、行政整理、公債整理を重視していた大隈は、総理(党首)を辞任する前から、改革派と対立関係にあった。改革派が主導した党大会準備委員会の、党宣言案を作り直させている。しかし政務委員と …