1列の関係・2大民党制・第3極(⑧⑨)~1列の関係を崩し得るもの~
憲政本党の議席数の少なさは、組織化の程度がとても低かった、第3会派以下の勢力を事実上吸収する再編によっても、たとえその全てを吸収することはできなくても、かなり改善される可能性があった(その後、総選挙でそれを維持するという …
憲政本党の議席数の少なさは、組織化の程度がとても低かった、第3会派以下の勢力を事実上吸収する再編によっても、たとえその全てを吸収することはできなくても、かなり改善される可能性があった(その後、総選挙でそれを維持するという …
第1次西園寺内閣の軍拡、積極財政に否定的で、行政整理、公債整理を重視していた大隈は、総理(党首)を辞任する前から、改革派と対立関係にあった。改革派が主導した党大会準備委員会の、党宣言案を作り直させている。しかし政務委員と …
猶興会の全員が、1907年度予算案に反対であったのかは分からない。しかし同派の三輪信次郎が、予算案がずさんを極めたものであり、再編成をするべきだという立場から、全部に反対をして返上するという動議を提出し、同派の島田三郎が …
1907年度予算案は、軍備偏重だという批判もある中、立憲政友会と大同倶楽部、そして姿勢を変えた憲政本党の賛成によって、衆議院を通過し、成立した(この際桂は、貴族院から衆議院に回付された修正案について、大同倶楽部が賛成する …
1906年8月27日付の大石正巳の日記には、次のようにある(大石正『大石正巳日記』117頁) 政黨を改善し議會の勢力を刷新するは目下の急務なり。地方の與論を喚起して代議士たる者の無籍を許さしめざる方法を講ずべし。政治家に …
第23回帝国議会が開かれてから約1ヶ月後の1907年1月20日、憲政本党の改革派は、首相になる見込みがない大隈を総理(党首)辞任に追い込んだ。彼らは党の役員の公選、憲政本党を土台とする新党の結成を求めていた。薩長閥への接 …
第23回帝国議会(1906年12月25日召集、同月28日開会、1907年3月27日会期終了)の召集日、前議会の会期終了日(1906年2月28日)に解散していた政交倶楽部の議員達が、猶興会を結成した。大同俱楽部に加わってい …
政交倶楽部は、減債基金の設立と非常特別税の継続に反対し、行政整理による国民の負担軽減を唱えていた(1906年1月28日付萬朝報)。これは憲政本党(の主流派→非改革派)と同様の方針であった。しかし政交倶楽部では、鉄道国有化 …
第22回帝国議会において重要なのは、立憲政友会が、第4次伊藤政友会内閣期に挑戦し、第1次桂内閣に、同じ野党の憲政本党と共に唱えていた、行政整理の路線を放棄した(註)ことである。経済情勢に合わせた転換を、非合理的なものだと …
第22回帝国議会では、内閣提出の、以下の法案などが成立した。予算案も含め、基本的には立憲政友会と大同倶楽部が賛成し、憲政本党と政交倶楽部が反対するという構図であった(ただし、投票していない議員も少なからずいた)。政交倶楽 …