日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
投稿者: <span>伊吹健</span>

2大民党制・第3極(⑧)~日露戦争後の2ブロック化~

第1次西園寺内閣の成立時にはすでに、第22回帝国議会が開かれていた(1905年12月25日召集、28日開会、1906年3月27日会期終了)。大同倶楽部の協力を得た立憲政友会が、入閣によって辞任した松田衆議院議長の後任を得 …

1列の関係・野党の2択(⑧⑨)~政友会中心の新内閣と各党派の位置関係~

第1次西園寺内閣初期の状況を整理すると、図⑨-Cのようになる。   図⑨-C 第1次西園寺内閣期の衆議院における諸勢力の位置   右の勢力から順に並べたのだが、憲政本党①の方が、立憲政友会のとなりの憲 …

補論⑩註

註:安在邦夫『立憲改進党の活動と思想』序章「立憲改進党研究史・研究の現状と課題」の、第2次大戦終戦前の研究を扱った部分による。ただし同書では実業家ではなく商業資本家となっている。終戦後を扱った部分では別の視座による研究が …

補論⑮註-2

註6:1902年4月26日付の東京朝日新聞によれば、菊池、徳佐、奈須川の復党が決定したという。他にも復党する方向だと報じられている議員が少なからずいるが、当時は憲政本党の党報が発行されておらず、同年8月には総選挙があり、 …

補論⑮註-1

註1:1899年3月16日付の萬朝報には、久米が知友に送ったという書面の大要が記されている。そこで久米は、立憲政友会が内閣の増税、追加予算を了承し、鉄道国有化と議員歳費の増額を主張したことを批判している。しかし同12日付 …

補論⑭註-5

註21:立憲国民党の結成は1910年3月13日、又新会に属していた同志研究会結成時のメンバーの離党は、富島暢夫が1909年8月2日、尾崎行雄が1909年12月22日、小川平吉が1910年3月7日、山口熊野は1910年3月 …

補論⑭註-4

註16:『鹿児島懸政黨史』287~288頁に次のようにある。「當時」とは第3次伊藤内閣、第12回帝国議会において衆議院が解散された当時である。 當時鹿兒島縣選出議員は、進歩黨を立場として薩派と稱せられ、他縣選出議員も其内 …

補論⑭註-3

註11:1903年12月8日付の東京朝日新聞は、「中立議員中の一派幷に新潟同志會其他の人々」が交友倶楽部を組織したとしている。ここでの「中立」は無所属という意味に近いのかも知れないが、新潟進歩党系は特にどちらかに明確に与 …

補論⑭-2

註6:1903年2月14日付東京朝日新聞、『原敬日記』第2巻続篇70頁(1903年4月18日の記述)。なお総選挙後に除名された議員のうち、少なくとも板倉中については、その理由が公表されていなかたったようだ(1903年4月 …

註⑭註-1

註1:①については、分裂が始まる前、自由党系の会派であった弥生倶楽部の議席数は133程であったと考えられる。同志倶楽部に加盟した最後の離党者が出た後の議席数は76であったと考えられる。間に議席を減らした第2回総選挙もあり …

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