日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党の2択・野党に対する懐柔・切崩し・政界縦断・離党者の性質・野党第1党の分裂(⑥⑧⑨)~野党が真っ二つに割れる時~

野党の2択・野党に対する懐柔・切崩し・政界縦断・離党者の性質・野党第1党の分裂(⑥⑧⑨)~野党が真っ二つに割れる時~

政権を離脱する時、あるいは政権側に寄るか対抗するかが党内の争点になる時というのは、日本の政党が最も大きく割れる時である。それが政党政治家にとって、最も重要な分岐点であるという事だろう(主語を日本の政治家にしたいところだが、それいついては他国のケースを改めて整理してから考える必要がある)。政権側に寄る政治家は、その動機として、考えの近さや人間関係を理由にする(そのような記述を報道や回顧録、伝記で目にする事が多い)。しかしそれは、政治家やその支持派が、なかなか自分(達)からは、権力を得るためだとは言えないためでもあるだろう(ただし所属、支持する党派の不振、行き詰まりが理由に挙げられる事はある)。権力と結び付く事は、政策実現や他党に対する優位性の獲得に結び付く。総理大臣は衆議院の解散権を事実上持っていたし、内務大臣は選挙を所轄していたから、それに寄っていたほうが議員の地位の獲得、維持に有利だという事もある。この当時について言えば、第3次桂内閣に逆らって衆議院を解散され、不利になる事を恐れて内閣に寄ろうとする議員もいたと考えられる(原敬の1913年1月29日付の日記には、共に立憲政友会の衆議院議員であった武藤金吉と板倉中が原を訪れ、解散を恐れる議員が増えていると伝えた事が記されている―『原敬日記』第5巻178頁―。なお、犬養は総選挙で立憲国民党が多少増えるとしていたが―この当時の野吹秀太郎宛の書簡『犬養木堂書簡集』137頁―それは少しは増やせるとしても、友人の実業家達が桂新党びいきであり、資金面で苦しいという話だから、虚勢かもしれない。そうでなくとも、内閣に対して強硬姿勢を採り続けられればということなのだろう)。桂はここまで見て来たように、自らが総理の時に衆議院を解散しておらず、野党であった立憲政友会に政権を渡し、その政友会内閣が衆議院を解散するという事が続いていた。桂が立憲政友会に頼らない姿勢を固めたのだとしたら、確かに自身の支持勢力に有利になる時に、なるように衆議院を解散する可能性はあった。しかしその場合、いくら追い込まれたとしても、その支持勢力の核となるべき新党が、ある程度整ってから衆議院を解散する必要があっただろう(でないと結局規模が小さくなったり、総選挙をうまく戦えなかったりして立憲政友会が勝つ)。あるいは衆議院の解散をまずは事実上予告しているような状態にしてから、新党参加者を募る事が、桂にとって有利であった(これは自らの支持勢力を優遇する事も疑われるような、露骨過ぎるやり方であったし、政党に批判的で、本来最低でも総理を辞してから政党を結成すべきだと考える山県らも強く反対するであろうから、事実上不可能であったかも知れない)。もちろんそれでも桂総理が追い込まれ、辞職よりも衆議院の解散を選ぶ可能性はあった。

さて、政党が大きく割れるのは、政権を離脱する時、あるいは政権側に寄るか対抗するかが党内の争点になる時であるとした、その代表例は以下である。これらでは皆、政党が半々に近い規模で割れた。

・立憲国民党からの無所属団→立憲同志会(桂新党)参加者の分裂

・立憲政友会からの新政倶楽部→政友本党(清浦内閣支持)の分裂

・国民民主党の野党派と連立派(吉田民主自由党内閣と連立)への分裂(参議院は野党派が大多数)

・社会民主党・新党さきがけからの民主党(橋本連立内閣から離脱へ)の分裂

・自由党(森連立内閣を離脱へ)からの保守党(同残留)の分裂

・維新の党(野党共闘路線へ)からのおおさか維新の会(自民党政権寄り)の分裂

これに該当しない同規模の分裂は以下の通りで、いずれも、もともとは別々の政党であったのが、元通りに近い割れ方をしているケースである。

・憲政党の憲政党(自由党系)と憲政本党(進歩党系)への分裂(政権獲得後に分裂。薩長閥側からの切崩し工作もあり、上の例に近い面もある)

・日本社会党の左派と右派への分裂(野党の分裂。議員数では分裂時は右派優勢)

立憲国民党のこの頃の分裂も前者に当てはまる。戦後であれば政権とはすなわち自民党である。例外となる時期もあるが、そう言わざるを得ない状況が長く続いている。その点この当時は、政党とは異なる薩長閥という勢力が、政権の担い手であった。その内部にも派閥はあったが、一つの勢力と捉える事もできる。薩長閥、つまり特定の地域の出身者(と彼らに連なる者達)が優位勢力であるというのは、自由民主主義、議会制民主主義、議院内閣制が定着した現在から見れば、自民党1党優位以上に違和感を覚えるものだろう。しかし当時は日本が民主化していく過程にあったと言える。また、政党でない勢力が権力を握り続けるのは、選挙を戦う政党がほとんど敗けること無く政権を握り続けている事よりも、ある意味では納得しやすいのではないだろうか(当時は薩長閥内閣から政党内閣への移行期であり、政権交代が定着する可能性もあった。今は政党内閣の時代になってもそれが長くできていない事が、確定していると言えるわけである)。戦後とのこのような違いは、政権に寄るか対峙するかで党派が分裂するリスクを、第1党にも当然負わせた(第1党が野党になる事は、現在でもあり得ないわけではないが)。むしろ最も多くの議席を持つ政党(≒立憲政友会)こそ、非政党内閣が味方に付ける対象として、あるいは切り崩す対象として、魅力的である(もちろん場合にもよるが、第1党であった立憲政友会に対する切り崩し工作は何度もあったし、同党が明確に分断される出来事が、後に実際に起こる。上に挙げた、立憲政友会からの政友本党の分裂がそれである)。この当時(大正政変の頃)も、立憲政友会への切崩し工作はあったようである。まずは直接的な切崩しとは言えないが、1月31日付の原の日記に、若尾民造(実業家。元甲府市長)が立憲政友会に新党参加を薦めた事、同党の望月(右内衆議院議員)が、桂に会う事を警視総監に頼まれた事が記されている(『原敬日記』第5巻179頁)。そして2月2日の日記において原は、桂総理に辞職の意思がなく、むしろ立憲政友会に切り込むように思われる事、早川鉄治が会合を開いて衆院の解散を避ける事について述べた事を記している(同182頁。解散を避けるというのはつまり、桂総理に反発しないという事になる。早川は桂新党の結成に参加する事になる)。2月3日の日記には官僚と通じて軟化を唱える日向輝武を除名した事を記されている(同183頁。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば3月25日にも復党)。結局立憲政友会から桂新党に参加する議員は3名にとどまった。早川龍介は天皇に対する姿勢(詔勅に反する結果となったり、尾崎が詔勅の利用を批判した事を理由に、「涙を揮て」離党したとしている―原宛の1213年2月7日付けの書簡。『原敬文書』第2巻618~619頁―)。

上と同じ2月2日付の原の日記には、桂が立憲政友会の野田卯太郎に、同党内に硬軟の2派が生じて、(内閣不信任を)上奏できなくなるという状況にする事が可能かどうか、聞いた事が記されている。立憲政友会を硬軟に割る(柔軟派を切り崩す)工作は、第8回総選挙後になされた事がある(第8章②④、補足参照)。政党の分断を、比較的近い関係にあったとはいえ、その分断する対象の所属議員に語っているのは印象的だ。これは桂が立憲政友会を、自らと似た立場の西園寺、原らと、(信用できない存在である)一般の政党員とに分けて見ていた事を示しているとも言え、興味深い。しかし立憲政友会は割れなかったし、野田も、そして原も、桂に対抗した。それには理由がある。それは同党が動揺しないくらい強くなっていたという事(註1)、すでに桂側に切り崩された過去があり、政権(と言うより薩長閥全体)が国民の反発を招いたように見える中、短期間で同じような分裂を繰り返すのは気が引けるという事(上述した第8回総選挙後の切崩し工作、その頃の第1次桂内閣との距離についての党内対立により、立憲政友会は1903年、大量の離党者を出した―第8章②、④、補足参照―)、第1次護憲運動が国民の支持を得ていた事である(これは少なくとも衆議院議員は気にするだろう。原も、桂総理と妥協して党の人気を落とす事を避けようとしていた)。もちろん党執行部も経験を積んでいたことだろう(それをはっきり確認することまでは、筆者にはできないが)。

その点立憲国民党は、立憲政友会のようにキャスティングボートを握っていたわけではない。政党の力は衆議院にしか及んでいなかったし(註2)、衆議員では前述の通り、立憲政友会が単独で過半数を上回っていた。しかし桂側には当初、立憲政友会を切り崩せるという見方もあった(これについては今後見ていく)。そうなると立憲国民党を一人でも多く切り崩す事で、新党が衆議院の過半数を上回るという可能性もある。その点では、立憲国民党がキャスティングボートを握っていたと、言えなくはない。また、立憲政友会の切崩しが絶望的になっても、新党の結成自体を断念するのでない限り、一人でも多くの参加者、特に新党の印象を良くするような参加者を求めるのが自然だ。吏党系の中央倶楽部は、山県が新党結成に消極的とは言え、参加が確実であった。そうなると立憲国民党(の議員達、特に有力議員)の価値は高まっていたと言える。また、立憲政友会が切り崩される事も、第3次桂内閣寄りになる事も考えられなくなっていった事で、改進党系の有力者が多く含まれていた立憲国民党出身者は、桂新党・桂系の中で、優位に立てる可能性が高まった(註3)。その立憲国民党には、非改革派も含めて全体的に、軟化工作が仕掛けられていた(升味準之輔『日本政党史論』第3巻109頁)。それは豊川良平(第10章野党の2択野党再編新民党(⑩)1列の関係野党の2択(⑪)参照。政治活動のために三菱を離れていた)、三菱と近い議員であった片岡直温、仙石貢を通したものであった。片岡、仙石は立憲国民党の議員ではあったが、第10章で見たように、改進党系の出身ではなく、戊申倶楽部(中立実業派の会派)から立憲国民党の結成に参加していた。改革派より薩長閥に強硬的であった犬養毅にさえ、1912年8月に新党計画がうち開けられていたという(桂寄りになっていた秋山定輔―『咢堂回顧録』下巻67頁。交友倶楽部等に属した元衆議院議員。第9章②、③、補足で触れた―、同様の坂本金弥―1913年1月25日付読売新聞。進歩党出身で又新会党にも属していた対外強硬派―より。季武嘉也『大正期の政治構造』110頁)なお、切り崩されたという事ではないだろうが、かつて改進党系を率いており、薩長閥への接近について障害となる事から、改革派に憲政本党総理(党首)の座を追われていた大隈重信(第9章⑨参照)も、この頃には桂に期待するようになっており、第1次護憲運動には批判的であった。それは立憲政友会への反発、治安警察法の廃止や選挙権の拡大のために権力を握る必要があり、そのために接近すべき桂にも、その先進性に期待できると考えるようになったためだと考えられる(真辺将之『大隈重信』343~346頁。大隈について、そして立憲政友会と桂のどちらに対抗すべきかという問題については本章で見ていく)。大隈も立憲国民党を桂に近づけようと、働きかけをしていた。

ただし桂に対する期待については、その先進性だけでなく、やはり権力という面を軽視はできないだろう。現役の総理、しかも戦後と違って議席数によって手に入れられるわけでもない総理の座を手にしている人物に、接近したいという面はあったはずである。薩長閥よりも立憲政友会を問題視するのであっても、その立憲政友会に、桂系に与して対抗しようとするのである以上、桂系の強さの源である、明治維新を起こし、その中枢にあり続けた薩長閥の力に寄るという面は大きい。これは桂が総理を辞しても、また山県が桂新党に反対していても、変わらないと言えるだろう。伊藤がそうであったように、政党を結成したからと言って、そしてそれが薩長閥において反発を受けたからと言って、薩長閥の要人という地位や、他の薩長閥要人とのパイプがなくなるわけではないのだ。伏見岳人氏は、斎藤宇一郎を初めとする秋田県選出の議員団や、福島県選出の平島松尾など、後藤新平(桂新党の中心人物の一人。桂の死を受け、結党式を前に離脱する)の鉄道政策に刺激された鉄道要求の噴出過程において立憲政友会と対決した議員の多くが桂新党に集う傾向があったとしている。(『近代日本の予算政治』245頁。本書は実際の彼らの鉄道建設に関する要求や、その立憲政友会との相違、対立について取り上げている)。鉄道を、特に自らの選挙区、地盤に有利になるように建設するには(全てが利益誘導的な目論見であったとまでは言わないが)、後藤の手腕も、そして何より政権、薩長閥の力は魅力的であったと想像する。なお東北地方という事で見ると、立憲政友会と立憲国民党は第11回総選挙の当選者が共に16名であった。改進党系(~立憲国民党)には東北地方で強かった時期があり、両党の力の差を考えればこの当時もなお、改進党系は東北で強かったと言える。そのうち13名(改革派も非改革派もいた)が桂新党に参加し、1名が政友倶楽部の結成に参加する。立憲国民党には東北地方の議員がほとんど残らなかったのである(もっとも立憲国民党残部は、東京府と犬養の出身地である岡山県に偏った構成になるが)。

立憲国民党には、第2極(衆議院第2党、第2会派)としての分裂に、第3党(薩長閥、立憲政友会―自由党系―に続く勢力)としての分裂が重なっていたと捉えるべきだが(立憲政友会は第1党としての強さで、第2党としての分裂を回避したという事になる)、このような見方とは別に、第1、2党が参加した第1次護憲運動そのものも、大きな意味で第2極と言える。その際、第2極の中心はどこかと言えば、運動の基盤となった勢力(日露戦争後の講和条約に反対した勢力―第1、2党に入っていた者達を含む新民党系―を含む)、今回の運動の火付け役とも言える交詢社-福沢諭吉らが結成した社交クラブ-)ではなく、それに乗った第1、2党(立憲政友会と立憲国民党)であったと言うべきだ。両党とその中心人物達(の参加)には、それだけの重み、インパクトがあった。そして第1次護憲運動における立憲政友会と立憲国民党の連合においては、たとえ議席数で劣ろうとも、さらには分裂の可能性が高まっていても、国民民主党(の犬養ら非改革派)が中心にあったと捉えられる(註3参照)。それについては次の事を考えても想像がつく。それは同党非改革派のトップであった犬養毅が立憲政友会に合流を申し込んでいた事だ(後述の通り原が断っている。この頃の笹原定治郎宛の犬養の書簡においても犬養が合流を主張していたことを確認できる-『犬養木堂書簡集』136頁-)。立憲国民党非改革派は、大規模な離党の動きによって党が弱体化する事を避けようとしたわけだが、そうであるなら、立憲国民党が存続したまま弱体化するよりも、立憲国民党よりずっと議席の多い立憲政友会と合流するほうが、自分達(少なくとも犬養個人)にとって有利だと、犬養(非改革派)が考えられるだけの状況であったという事になる(立憲政友会に入っても、派閥的なまとまりとして生き残れると考えていたのだと想像する。あるいはむしろ、民主党に合流した小沢一郎系ほどにとは言わなくても、選挙における新たな候補者擁立、当選者吸収で、大きくなる事すら考えていたのかも知れない。確かに立憲国民党後継の革新倶楽部は、立憲政友会に吸収されるように合流した後、派閥的な勢力として残っていたと捉える事もできる)。実際に犬養は、立憲政友会に合流した後、消極的な理由によるとは言っても(註4)、同党の総裁、さらには総理大臣になるのである。

なお立憲政友会の原敬は、同党と立憲国民党の合流に反対し、阻止した(『原敬日記』第5巻173頁。1913年1月23日付)。そして犬養に、合流できない事、攻守同盟として進みたい旨を伝えた(同183頁。2月4日付)。原は合流するとその党内において、立憲国民党系の非改革派と立憲政友会系の急進派が結び付き、それが台頭する可能性があると、恐れたのだと考えられる(第1次山本内閣成立後、立憲政友会の急進派の一部は離党して政友クラブを結成し、立憲国民党ではなく、新民党―又新会―の系譜と合流する。立憲国民党後継の革新倶楽部が立憲政友会に合流したのは、原の死後であった。そもそも立憲政友がまさに真っ二つに割れるなど、事情は大きく変わっていた。それについては第15章で見る事になる)。

ここからは、立憲国民党の離党者達(≒立憲国民党改革派)の方を見る。改革派の5領袖(大石正巳、島田三郎、河野広中、箕浦勝人、武富時敏)と呼ばれた者達の声明書は、せっかく政党(立憲政友会)中心の内閣ができたのに、それが減税もしないし、外交等においてすべきこともしないと、批判するものであった。彼らは当時、基本的には軍拡より減税という立場であったと言えるが、外交がうまくいかない状況で軍拡してもどうにもならないというスタンスをとる事で、山県系・陸軍に連なる桂系との不一致を避けたのだと考えられる。改革派の中には政権にすり寄りたい者も当然いたであろうが、立憲政友会を優位勢力と見て(衆議院とその選挙では実際にそうであった)、対抗しようとする者も多かったと、大石正巳の日記などを見ても、想像できる(第9章1列の関係(⑧⑨)参照。改進党系の大石は立憲政友会への対抗心を強めていったが、同時に、伊藤博文新党としての立憲政友会の結成への自由党系の参加が、自由党系にとって有効である事を認めていたと考えられる―第9章野党の2択(⑨)参照―。そうであるなら、自由党系・立憲政友会への対抗と、薩長閥の要人を中心とする新党結成が一体化した桂の動きへの傾倒は、当然のものと捉えられる)。桂が見せた先進性への支持も、当然あった(本章政界縦断(⑤~⑦)参照)。この当時は政界の優位勢力が、薩長閥から立憲政友会に代わる可能性が出てきた時期であり、立憲国民党は当然ながら地方を含め、選挙戦と+衆議院を活動の舞台としていたから、目の前で優位に立ち、横暴であると感じるのが、つまりもっとも対抗しなければいけない相手というのが、立憲政友会であっても不思議ではない。しかし同じ立憲国民党内の対立派閥を率いる犬養が立憲政友会に接近しようとすることが以前からあった(第10章1列の関係野党の2択(⑪)参照)。それを見れば、自分達立憲国民党が立憲政友会に切り崩されるという、犬養らとは逆の心配(註5)するのも当然である。立憲政友会に立憲国民党を切り崩す意思がなくても、その議員数は、立憲政友会が薩長閥に切り崩される可能性も考えれば、不要なものとは言えないのだから(特に個々に合流してくるのなら、立憲政友会には議席数が増える以外の影響はほとんどなく、歓迎すべき事であったはずだ)。

島田三郎(改進党系であったが一時新民党系に入り、立憲国民党の結成に参加)も、当時陸軍を問題視しつつも、薩長閥よりも立憲政友会を主敵と捉えていた。同党を、憲政の健全な発達を阻害した元凶と見なし、立憲国民党内の一派が、2大政党の対立ではなく政国合流を夢想して、立憲政友会の1党専制を持続させようとしているという批判をしていた(武藤秀太郎『島田三郎』218~219頁)。

しかし、桂新党には立憲国民党の非改革派からも参加者が続出する。それについては改めて述べるが、桂系の手は、犬養にまで伸びていた。立憲政友会に頼りたくなかった桂にとっては、一人でも多くの議員が必要であり、立憲政友会の多くを切り崩せるという保証がない限り(そこまでいくと、今度は反政友会であった立憲国民党の改革派を味方につけるのが難しくなる危険も、出てこないとは言えない)、立憲国民党を丸ごと吸収しようとするのは自然なことであった。第28回帝国議会招集(1911年12月)の頃、犬養派と見られていた坂口仁一郎が片岡直温、藤沢幾之輔、坂本金弥、添田飛雄太郎と意思疎通会を開き、桂を引き出して新政党をつくらせ、立憲国民党が中堅となって活動するという話がまとまった。犬養の説得を坂本が引き受けたものの犬養は応じなかったらしい(櫻井良樹『大正政治史の出発』169~170頁。坂口仁一郎「予が脱党せる顛末」『新潟新聞』1913年2月8日―『新潟県史』資料編15・近代三政治編Ⅰ―)。この夏には秋山が立憲政友会の尾崎(元々は改進党系)を新政党に誘っている(同。尾崎行雄「人物回顧録」『尾崎咢童全集』七巻545~546頁公論社1955年)。この頃の犬養は、桂が行財政改革、文官任用例をやる可能性を認めた上で、閥族打破に専念すべきだと主張、また二個師団増設の軍事的根拠を認めた上で、根本方針が定まらないから賛成できないと主張していた(「憲政擁護の真意義」1912年12月19日、「憲政の破綻と我党の覚悟」1912年12月。川崎克編『木堂政論集』。五百旗頭薫「進歩政党 統治の焦点」北岡伸一監修『自由主義の政治家と政治思想』222-223頁)。これは表面的な政策(各勢力に理念に伴う路線はあっても、様々な状況に応じて変化もする)以上に、当時の薩長閥中心の政治(大政党であっても、薩長閥とのパイプによって政権を担おうとするという傾向も含め)を変えなければいけないという主張である。それは、政権交代を単なる手段とする捉え方に対して、「政策で選んではいけない。政策で選べるようにしなくてはいけない」と、政権交代の定着を唱える筆者にとって、共感できる姿勢である。

ただし、改革派が間違っていて犬養が正しかったと言うつもりはない。物事はそう単純ではなく、両面がある。そこで最後に、黒須龍太郎の『立憲同志會加入の理由』を見たい。黒須は小学校校長、弁護士、地方議員を経て第11回総選挙で初当選したばかりの議員であった。黒須は、当時尾崎行雄と並んで「憲政の神様」として支持を得ていた犬養毅の資金面に関する疑念を述べ、犬養の人格、言動を批判している。そして、離党者が変節したか買収されたように言われる事への反発を述べている(犬養が自分を正義硬骨とし、離党した5領袖を官僚党、変節漢と吹聴していると批判している。高潔として知られていたり資金力があったりする5領袖には買収される理由がないという事を主張し、官僚党と言うのなら、第一は立憲政友会で、第二は犬養だとする)。黒須は犬養について、政敵である立憲政友会と通じているとしており、やはり薩長閥ではなく立憲政友会を主敵としている。ただしあくまでも主敵を立憲政友会にしているだけで、薩長閥を支持しているわけではない。桂については薩長閥を離れ、政党を結成するというイメージを持っているようだ(そうでない面を認識しつつ、自らの正当性をアピールするためにそう主張しているだけかもしれないが)。黒須は犬養が立憲国民党の党大会を蹂躙したとする一方、5領袖が他者を誘わず、5人で離党したとし、犬養と比べ彼らがいかに立派かを強調している。黒須は自身について、内閣不信任案に賛成した事から、第3次桂内閣が瓦解するまで立憲国民党に残ったとしている。そして分裂後の立憲国民党を魂の抜けた抜け殻とし、同党の本家が立憲同志会参加者であることを強調している。立憲政友会については、伊藤や山県と妥協や提携を重ねることで党勢を拡大し、桂に見限られると薩摩閥に私通し、かろうじて統制を維持しているとする。そのような面は確かに大きいが、立憲政友会の強さを、(いくら、桂に与党として総選挙をやらせてもらっていたという面があるとしても)低く見すぎているとも言える。それに立憲国民党がそうではなかったとしても、それは同党の議席の少なさからも機会がなかっただけで、同党の議員達の桂新党への参加についても、自由党系(新・憲政党)の、伊藤博文新党(立憲政友会)への参加と同じく、薩長閥との妥協だと、見ることもできる(自由党系は丸ごと参加したのだと言ったとしても、それは単に改革派が立憲国民党―改進党系―内で政争に敗れただけだと言われれば、それまでである)。黒須は立憲同志会(桂)について、政費5千万円の削減を立憲国民党が議会で言うだけだったのに対して、浮いた分の利用を含め具体的に政策として掲げたこと、社会政策を掲げたことを評価している。そして尊敬すべき大浦兼武(吏党系―中央倶楽部→立憲同志会結成に参加―の指導者)、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸らの官僚出身者が、立憲国民党を離党して参加した5領袖と組むという、人材面での質の高さを誇っている(桂が死去し、後藤が去った後でも誇っている)。そして政党内閣の実現には2大政党の対立が必要であるとする。確かに第1、2次、特に1次西園寺内閣には、政党内閣とは言えない面がある。どちらも政党内閣を公的には自認してできなかったし(最初の政党内閣ともし得る第1次大隈内閣-隈板内閣-も、憲政党内閣ではなく、あくまでも大命が降下した大隈と板垣の内閣とされていた)。桂ら薩長閥の協力を得て組閣、運営されている面があった。しかし筆者はこれらが政党中心の内閣である面を重視し、政友会内閣であったと捉えている。大日本帝国憲法下では最後まで、直接政党の力(国民や議員による選挙)で総理を出す事はできなかったし、軍部大臣を軍関係者(≒薩長閥)から出してもらわなければならず(軍部大臣現役武官制でない時期であっても、少なくとも軍のOBである必要があった)、衆議院以外では薩長閥の協力が必要であった。それをもって政党内閣ではないとするのなら、第1次加藤高明~犬養内閣も、政党内閣とはいい難くなる。黒須はまた、小党が組んで立憲政友会に対抗するには交渉が必要となり、機敏には動けないとしている。つまり非政友会が合流する必要があるという事だ。合流という事で言えば、黒須は立憲政友会が立憲国民党を合流させた上で閣僚のポストを提供するとしたものの(つまり立憲国民党としては閣僚を得られないという事)、裏切ったとした。確かに第3次桂内閣の次の第1次山本内閣において、立憲政友会は閣僚も出す与党となり(山本総理を別として、官僚の入閣者が立憲政友会入りした)、立憲国民党が厳正中立の立場となった。しかし立憲政友会の原は立憲国民党との合流に否定的であったし、立憲国民党は自ら、中立の立場を採った。もっとも同党が内閣に協力したからといって入閣はできなかっただろうし、同党が立憲政友会の原に合流を拒まれたことは事実であると言える。それを踏まえると黒須の言う通りだとも言える。以上だが、黒須は政権から遠ざかっては政策を実現できないという点も含め、全体的に立憲国民党改革派の大石や島田と同じ立場であったと言える。

 

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