第3極(②)~政友倶楽部~
政友倶楽部は、立憲政友会を除名された議員達(8名のうち第8回総選挙に当選していない3名を除く5名)が、無所属議員のうちの8名と結成した会派である。除名された議員達は、第1次桂内閣との関係を疑われていたから、山県-桂系に切 …
政友倶楽部は、立憲政友会を除名された議員達(8名のうち第8回総選挙に当選していない3名を除く5名)が、無所属議員のうちの8名と結成した会派である。除名された議員達は、第1次桂内閣との関係を疑われていたから、山県-桂系に切 …
1903年5月11日付の読売新聞は、高野孟矩、田口卯吉、島田三郎、三輪信次郎、安藤謙介、臼井哲夫、岡田治衛武、橋本雄造らが、中立議員中、会派に加わらなかった人々のための懇親会を開き、議会対策を協議すると報じた。しかし、こ …
1903年3月19日付の萬朝報によれば、大河内輝武(第7回総選挙で初当選して以来無所属であった)、高梨哲四郎(山下倶楽部、憲政党、憲政本党、議員同志倶楽部、中立倶楽部に属したが、当時は無所属)、桑原政(元山下倶楽部、当時 …
優位政党であった立憲政友会は、野党になった場合に、動揺することがあった。優位政党が野党になることは、本来は非常にまれなことである(そもそも優位政党の地位を失うことを意味するはずだ)が、当時の日本の制度では、起こり得ること …
立憲政友会の執行部は、山県-桂系との内通を疑って、革新運動を起こしていた議員の一部を除名した。総選挙後の除名者には、立憲政友会の執行部よりも、山県-桂系の姿勢に近い面があった対露強硬派の、板倉中がいた(板倉は後にも、陸軍 …
同志倶楽部は壬寅会とは異なり、消極的な理由、つまり生き残りのために結成されたと言える。三四倶楽部という新民党と、本来同根でありながら候補者・当選者が国権派の議員達と入れ替わったことで、三四倶楽部とは性格の差異が大きくなっ …
立憲政友会の誕生によって中立派は再度裂かれ、同時に、衆議院におけるキャスティングボートをも失った。当時は、中立会派の存在意義を特に見出しにくい状況であった。しかし選挙制度の変更にも助けられ、中立の議員は増えた。そしてその …
第7回総選挙は、大政党が小選挙区で振るわず、大選挙区で健闘するという、制度の特徴とは逆の結果となった。選挙制度の改正は、市部よりも郡部に強かった2大政党(立憲政友会も自由党の性格を受け継いだ面が大きかった)に不利なもので …
憲政本党を離党した議員達による三四倶楽部からは、第7回総選挙前、目指していた同派と憲政本党の再統合が進まないことに反発し、新潟進歩党として独立するを結成す議員達、また憲政本党に復党する議員達が出た(第6章⑱参照)。その影 …
1902年2月14日付の東京朝日新聞によれば、第7回総選挙のおよそ半年前、井上角五郎らは、全国各市から70名余りの純然たる実業家を当選させて、1つの団体を結成しようとしていた(記事は立憲政友会を脱した大倉喜八郎、中沢彦吉 …