第3極・1党優位の傾向(⑱)~憲政本党と三四倶楽部~
1901年3月7日付の東京朝日新聞によれば、三四倶楽部は高野事件を上奏案として提出しようとし、憲政本党に賛成を求めた。また同派の加藤六蔵氏らが、議員涜瀆職法案を提出しようとしており、引き続きあらゆる問題を捉えて内閣を弾劾 …
1901年3月7日付の東京朝日新聞によれば、三四倶楽部は高野事件を上奏案として提出しようとし、憲政本党に賛成を求めた。また同派の加藤六蔵氏らが、議員涜瀆職法案を提出しようとしており、引き続きあらゆる問題を捉えて内閣を弾劾 …
井上らの立憲政友会除名が、直ちに他の議員の離党を招くことはなかった。立憲政友会の結成に参加した実業家の、一定数の離反をもたらした。自由党系は、元来鉄道国有化に積極的であったが、立憲政友会結成前の憲政党の時代には、土佐派は …
立憲政友会の結成前後、これに参加しようとする議員達が続々と離脱して、日吉倶楽部と議員同志倶楽部は、共に5議席前後となった。中立が存在意義を失ったことを体現する動きであったといえる。しかしそうであっても、中立派の残部の議員 …
当時、日本の政界には外交路線をめぐる亀裂があった。日英同盟の締結を目指す対露強硬派と、ロシアとの融和を重視する対露協商派である。後者は伊藤博文、井上馨、そして伊藤に準ずる立憲政友会であり、日本が朝鮮、ロシアが満州に影響力 …
第1次桂内閣期の立憲政友会は、ポジションは野党~準野党であったが、党首の伊藤が元老であったので、野党とは呼びにくい存在であった(桂と伊藤の交渉は、過半数割れしている与党第1党と、野党第1党のそれのようにも見える反面、薩長 …
北清事変は、1列の最後尾に立つ憲政本党の背中を、対外強硬派として活路を見出す方向へと進むように、押した。政界縦断派主導の現実的な自由党と、対外硬派が並び立った第3回総選挙前後の状況が、再現されたという面がある。ただし、そ …
山県は、薩長閥政府の要人という性格が残る伊藤が党首(総裁)であり、自身を裏切った(あくまでも山県から見た場合)自由党系を基盤とした立憲政友会の結成に否定的であったが、同党総裁の伊藤に政権を委ねざるを得なかった。結成された …
『河野磐州傳』によれば、河野広中は、立憲政友会に参加しなかった板垣と、新たな第3党を結成しようとした(下巻574頁)。その新党構想とは、自由党系の非主流派や河野にとっては自由党の再興であり、当時河野が属していた憲政本党等 …
立憲政友会の結成は、陸奥の政界縦断構想の再興であり、陸奥のまいた種が実を結んだものでもあった。だが伊藤の本来の志向は、各勢力を糾合することで、自由党系との連携の色を薄めることにあった。それは立憲政友会結成の際、各勢力に参 …
自由党系は、山県に利用されたと同時に、政界縦断的再編を完成させるまで、与党的な立場にいるために山県を利用したと言える。当時の権力をめぐる駆け引きの勝者はどの勢力であったのか、まずは各勢力(薩長閥の場合は要人)の志向を見て …