キーワードで考える日本政党史

 

◎はじめに

日本の政党史を、関係する事実を確認し、次に以下のキーワードを通して分析する。


○ 大日本帝国憲法下、日本国憲法下共通の主なキーワード

・1党優位の傾向
1つの政党(大日本帝国憲法下は当初、政党ではない薩長閥)が他の政党よりも圧倒的に優位にある。
・野党の2択
非優位の野党の内部では、現実的な路線(薩長閥、与党への接近)か、徹底抗戦かという選択について、遠心力が働く。
・野党に対する懐柔、切崩し
優位政党(大日本帝国憲法下は当初薩長閥)が、野党を懐柔するか、切り崩そうとする。
・政界縦断
「上」の優位政党(大日本帝国憲法下では薩長閥、後に立憲政友会も)と、「下」の野党をまたがる、いわゆる縦のラインの再編が起こる。
・第3極
2大政党制を志向する政界の要人がおり、それに向かおうとする日本であるが、1党優位の傾向、第3党以下の存在によって阻まれることが多い。第3党以下にはさまざまな性質のものがあるが、優位政党に寄るか、野党共闘を組むかという選択について、遠心力が働く。
・キャスティングボート
過半数を上回る勢力が存在しない場合はもちろん、大日本帝国憲法下では、それとはあまり関係なく、影響力を持った勢力が、政界全体のキャスティングボートを握っているような状況も出現した。
・離党者の性質
議員の離党、入復党が多い日本では、特に優位政党の離党者の性質は重要である。
・群雄割拠
1つの勢力に対等な要人が多くいる。
・優位政党の分裂
優位政党には、特に政権にある時に、その力ゆえに求心力が働く。しかし権力と近いからこそ、主導権争い、権力を失った時の動揺による内部対立は、深刻なものとなり得る。
・野党再編
非優位政党は第2党を中心に度々合流し、優位政党に対抗しようとするが、それによって増やした議席を、分裂や選挙による現象で失うこともある。
・野党第1党の分裂
野党第1党は、「野党の2択」、合流前の旧党派間の溝によって分裂しやすい。
・野党の勝利
日本では珍しいことであるから、特に重要である。
・新与党の分裂
政権交代が皆無である状況下、その政権交代を果たした新たな与党が早期に分裂する。
・選挙制度の影響
選挙制度は、時の権力の思惑によって変更等がなされることがあるが、その意図の通りになることもあれば、完全に裏切られることもある。また、変更の後、それが用いられるはじめての選挙までに、政治情勢が大きく変わっていることもある。

 

○ 大日本帝国憲法下の主なキーワード

・帝政ドイツとの差異
憲法をつくるにあたって、事実上の政党内閣制である議院内閣制を避けるため、プロイセン、ドイツが参考にされたが、実際の政治のあり方などには大きな差異があった。
・(準)与党の不振
薩長閥政府は、野党の勢いに押されたこと、内部の不統一によって、自らの味方となる勢力の衆議院における要請に消極的であり、そのため、衆議院の薩長閥政府支持派は不振に苦しんだ。
・2大民党制
薩長閥に対抗するために誕生した民党が2つ並び立ち、さらに2大政党それぞれの土台となったことで、大日本帝国憲法下の2大政党の差異は当初、不明瞭であった(『補論』⑪参照)。
・1列の関係
2大民党のうち、自由党系が方針転向をし、薩長閥の一部と近くなったことで比較的優位に立ち、薩長閥-自由党系-改進党系が1列に並ぶような状態になった(詳しくは第2章1列の関係(③⑥⑨⑩参照))。自由党系や改進党系は、より優位な勢力の動きに、自らの動きが規定されがちであったが、自由党系は政界の中央に立った(序章以降参照)ことで、その宿命から解放された。
・新民党
民党の離党者、薩長閥政府支持派または中立派の離党者が新たな民党的勢力を形成することが度々あった。
・連結器
中立派は複数の勢力を結びつけようとすることがあった。新民党は、2大民党の系譜の連携(の強化)を目指すことが多かった。
・実業派の動き
帝国議会開設当初の有権者は多くが地主層であった。実業家には、政商として薩長閥政府に連なることで利益を得る者もいた。しかし、特に中小の実業家の利益は反映されにくい状況であった。そのような状況下、衆議院において会派を結成する、実業派の議員達も現れた。
※新民党、中立派、実業派、親薩摩閥という分類について、『補論』⑦参照。

 

○ 用語の確認

・与党
ここでは、閣僚、政務次官や政務官クラスのポストを得ているか、そのような政党と恒常的な協議機関を持つか、統一会派を形成している政党を与党とする。
・準与党
与党ではないが、明らかに与党寄り(政権寄り)の政党、会派
・準野党
政権・与党と、それを倒そう(下そう)とする野党のどちらかに与せず、中立を保とうとする政党、会派
・準野党
政権・与党と、それを倒そう(下そう)とする政党、会派
※政権の良いところ、自らと考えが同じところは認め、良くないところ、考えが違うところは正そうとする、そしてそのために政権交代を目指すのが野党だともいえる。その場合、野党は、ここでいう準野党だということになる(ただしイデオロギーが違う場合は一致点が少なくなるので、ここでいう野党に-近く-なる)。しかし1党優位の傾向が強い日本では、与党を下すことそのもの(実際にはそれが難しいので、とにかく時の内閣だけでも倒すこと)が野党の目標となる。だから日本における野党は、そうでない政党、会派(準野党)と区別する必要がある。もちろん例外となる状況は起こるし、完全な区別が難しいこともあるから、そのような場合は序章以降で、その都度述べる。
  • 藩閥政府については、長州閥と薩摩閥が中心であったので、薩長閥政府と呼ぶ。
  • 第2次大戦前は、政党と院内会派の区別があいまいな場合がある。自由党~立憲政友会、立憲改進党~立憲国民党・立憲同志会~立憲民政党、国民協会~帝国党以外は、(事実上)会派に留まる存在であったと考えられる。そうでない場合などについては、その都度述べる。
  • 登場人物の離党、入党は、筆者が史料で確認できた場合を除いて『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に依拠するから、基本的には衆議院議員でなかった時の動きは考慮に入れない。
  • 民党、吏党という呼称が広く用いられるようになった帝国議会開設当初から、場合によってはさかのぼって、自由、立憲改進両党の系譜を民党と、薩長閥政府を支持した議員達が結成した大成会とその本流に当たるといえる中央交渉部、さらにその本流を汲んでいるといえる国民協会~中央倶楽部を、吏党と、系譜としては吏党系と呼ぶ。そして問題がないと判断した場合に限り、自由党の本流を、立憲政友会を含めて自由党系と呼び、立憲改進党の本流を、立憲同志会の本流を含めて改進党系と呼ぶ(立憲国民党分裂後については改進党系が2つあることになるが、分かりにくくならないよう心掛ける)。
  • 中立という語については、戦前は無所属に近い意味合いで用いられることがあったが、実際には他の勢力に寄ることがあっていても、少なくとも表面上は中立の立場を採っていた勢力、議員、あるいは統一性に乏しく、全体としての性格が定まっていない勢力について、これを用いることとする。そのような会派、そのメンバーを吏党という概念に含める史料、研究があるが、本稿では吏党系は、大成会の本流を汲む勢力と、大成会と多くの議員が重複した協同倶楽部に限る。そして吏党系の中心部の性格はあまりに明確であったため、中立を掲げている場合も、中立であったとは捉えない(確かに大成会は、後の吏党系の勢力よりも中立的な性格が強かったが、分裂後は薩長閥寄りの性格が強まったため、また同会の残留派が後の吏党系の源流であるため、中立の勢力には含めないこととする)。
  • 中央交渉部の正確な名称は中央交渉会であり、中央交渉部というのはその本部の名称であった(佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』238頁)が、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に準じて中央交渉部と呼ぶこととする。他に名称が安定しない会派がある。溜池倶楽部は溜池集会所とされることがあるし、メンバーであった角利助もそう呼んでいる。帝国財政革新会は報道で財政革新党と記されていることもある。同様に、第四回総選挙後の実業団体は実業倶楽部、議員倶楽部は中立議員倶楽部、日曜会は月曜会、実業同志倶楽部は同志倶楽部と報じられていることがある。第7回総選挙後の同志倶楽部を指して、議員同志会と呼んでいると考えられる報道もある(1903年1月27日付東京朝日新聞)が、まだ名称が明確でなかったのか、同倶楽部系のうちの、旧三四倶楽部系が議員同志会という勢力を形成していたのか、分からない。会派等の名称については、今後取り組みたいが、今はとりあえず、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に準じておくこととする。
  • 「対外硬派」という言葉は、複数の対外強硬派が形成した勢力を指すものとして用い、それ以外の場合は、「対外強硬派」という語を用いることとする。
  • 実業家という語は本来農業を含み、金融業を含まないが、ここでは現在用いられるような、企業の経営者、あるいはそれに準ずる人々を指す語として用いる。
  • 用いる地主層という言葉には、富裕な自作農を含む。
  • 人物の政党、会派の変遷を記す場合、第1回帝国議会召集までに立憲自由党を結成した、第1回総選挙当時の大同倶楽部、自由党、愛国公党、九州同志会(改称前の九州連合同志会を含む)については、省略する場合がある。当初、自由党系の会派名は弥生倶楽部、立憲改進党系の会派名は議員集会所、国民協会の会派名は議員倶楽部であり、会派にのみ所属する議員もいたが、個々では政党名を用いて、会派の身に加わっていた議院も、とりあえず、基本的にはそのメンバーとして扱う。

※議席数などについて、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に準ずるが、当時の報道等、同著と多少なりとも異なる史料も多々ある。総選挙の結果だけでなく、第13回帝国議会から議員数を、第21回帝国議会からは所属議員の氏名を届け出ることとなった衆議院の会派の議席数についても特定できない場合がある。このような理由から、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、第36回帝国議会まで、総選挙結果、会派の所属議員数が「概数」とされている。

 

○優位政党の強さ

詳しくは序章以降で述べるが、優位性王(当初は薩長閥)の強さには次のような背景がったと考えられる。

  • 権力維持のためなら、政策や体質が異なる勢力との合流、連携をいとわない。
  • 権力にあれば求心力が働き、分裂が回避されやすい。
  • 優位政党の有力者が交替で政権を持つことで、その内部、有権者の不満が小さくなる。
  • 優位政党、与党であれば、再編をしなくても、権力を求める人材が個別に合流して来る。

 

○当初党派が多かった理由

日本では、特に小さなものを含めれば、政党、会派が多くなりがちである。議会開設当初、政党、会派が多かった背景には、次の事が考えられる。

  • 自由民権運動の国権派と民権派への分裂等。
  • 民党の不統一。
  • 政党の未発達(改正集会及政社法の影響も受けた全国的組織化の遅滞)。
  • 政党(≒民党)という存在に対する一部有権者の忌避感。
  • 薩長閥と民党の対立に対する一部有権者の忌避感。
  • その未発達ゆえ、当初民党がカバーできなかった地域があった。
  • 再編で減った党派が再び増える理由としては、次があった。
  • 新たに無所属候補が多数当選した。
  • 政党、会派が度々分裂した。
  • 非優位性等の再編が不完全に終わった。

 

○2大民党制の展開

→1列の関係(優位政党には議員が個別に加わることが多いため、内部対立の火種を大きくせずに拡大できるが、第2党は理念や政策の異なる勢力と、対等に近い形で合併合流したり、党内紛争による他党の離党者をまとめて吸収したりするため、内部の火種が大きくなりやすい。また合流を決めた党派内から不参加者が出て野党分立状態の完全解消には至らないことが多い)

→中立の存在意義の消失(もともと政策で間を採ることは難しく、埋没しやすい上に1党優位の状況下でキャスティングボートを喪失する)

→第3極の変化(1列の関係、自由党系の優位に否定的な勢力が浮上)

→1列の関係の終焉(民意、元老西園寺による。小選挙区制による第1党の肥大化も一因―第14、15章参照―)

→2大政党制(ただし総選挙ではなく、失政→元老西園寺の判断による政権交代であったこともあり、与野党の足の引っ張り合いが激化)

→軍部の暴走に始まる混乱、無産政党の躍進による2大政党の議席占有率の低下

→政党内閣期の終焉による大政党(特に立憲政友会)の求心力の低下による多党化