新与党の分裂(⑨⑩)~万年野党の政権獲得と増税、官僚~
井上馨は民党に政権を渡すことを提案した。伊藤は実際に民党に政権を渡した。そこには「どうせもたないから一度やらせてみよう」という、後に自由民主党が政権を明け渡す時(1993年、2009年)にも、一部に聞かれた考えもあった( …
井上馨は民党に政権を渡すことを提案した。伊藤は実際に民党に政権を渡した。そこには「どうせもたないから一度やらせてみよう」という、後に自由民主党が政権を明け渡す時(1993年、2009年)にも、一部に聞かれた考えもあった( …
自由党系と改進党系の全面的な合流は、この憲政党の結成と、翼賛体制下の会派等の結成、1955年の自由民主党の結成以外に例がない。3つの例があるということは当然、元通りになるか、それに近い形で、2回分裂しているということであ …
総選挙後しばらくは自由党、国民協会に一定の協力関係がみられた。しかし自由党が進歩党との野党(民党)共闘を進めると、国民協会と自由党の溝は広がった。補完勢力に転落した国民協会にとっては、自由党と共に薩長閥政府寄りとなること …
国民協会は、党の展望が開けず、伊藤新党に乗ろうとした。しかし、山県に近く、つまり自らの政権を目指すような新党には否定的な議員と、伊藤に近く、政府党の結成に積極的な議員とがおり、一枚岩ではなかった。そして長州閥内の、政府党 …
積極財政志向を強めていた自由党では、地価修正が実現するならば地租増徴はやむを得ないとする声が広がり始めた。日清戦争後に拡大した財政を縮小に向かわせることは、やや非現実的であった。しかし進歩党は、地租増徴に反対した。再編に …
公同会には、親薩摩閥という性質上、九州地方の一部、関東地方の一部(薩摩閥と近い議員が比較的多かった)による地域政党的に近い面が、ある程度あった(もちろん地域の利益を代表するための勢力ではなかったから、地域政党とは言い難い …
山下倶楽部の地価修正要求は、これの実現によって地租増徴を実現させようという戦略と、地価修正を求める議員を含んでいたことによる(坂野潤治『明治憲法体制の確立』158-162頁)。なお、各党派に属する実業派の議員達には外債募 …
当時、実業家が自らの代表を衆議院に送ることに積極的になっていたことは、報道で確認できる(例えば1897年12月23日付東京朝日新聞)。しかし、実業派または地価修正派が特に勢力を強めたというような現象を確認することは出来な …
第2次伊藤内閣への板垣の入閣、第2次松方内閣への大隈の入閣により、民党からの入閣は十分にあり得るものとなった。そして2大民党は共に薩長閥に対抗するのではなく、政界縦断的な動きにおいて、時に競合するようになった。従って、薩 …
財政の拡大によって、減税ではなく増税が争点となったことは、減税を策していた民党の敗北とはいえなかった。物価の上昇によって地租の実質的な負担は減少しており、民党は、貴族院の否決のために地租軽減を実現させられない状況から、衆 …