(準)与党の不振(④)~国民協会の結成~
西郷と品川は、薩長閥政府に吏党の組織化を一任されたわけではなく、むしろ独自に動いたのであった。中央交渉部内の議員は、国民協会への参加者と不参加者に分かれた。国民協会は、衆議院では中央交渉部90名のうち59名を集め、『議会 …
西郷と品川は、薩長閥政府に吏党の組織化を一任されたわけではなく、むしろ独自に動いたのであった。中央交渉部内の議員は、国民協会への参加者と不参加者に分かれた。国民協会は、衆議院では中央交渉部90名のうち59名を集め、『議会 …
国民協会は、薩長閥政府支持派の色を、中央交渉部よりもさらに明確にしたものだといえる。その点で同派の結成は、政府支持会派の政党化への、大きな一歩であった。そうであればもちろん、国民協会の総選挙における獲得議席は、薩長閥政府 …
自由党の実力者の一部は、野党共闘よりも薩長閥政府への接近を志向した。彼らには後藤、陸奥を通じる、長州閥とパイプがあった(改進党系にも、大隈と薩摩閥とのつながりがあったが、黒田内閣期の大隈外務大臣の不平等条約改正の挫折によ …
薩長閥、自由党に変化の兆しが見られた後、政界縦断の土台を完成させたのは、第2回総選挙の結果であった。政界縦断とは反対に動いた第2次松方内閣の選挙干渉による、民党の過半数割れ、吏党の過半数不到達という結果が、皮肉にも政界縦 …
選挙干渉は、吏党系と違って一部の利益のため、党利党略で動く民党を抑えるという見方からすれば超然主義と矛盾しないが、一部の党派(吏党系)を有利に、他の党派(民党、新民党)を不利にするという見方をすれば、超然主義に反するもの …
民党の自由、立憲改進両党、多くが両党に与していたといえる旧巴倶楽部系を合わせた民党側の当選者は、定数300のうち141名であった(自由党96、立憲改進党38、旧巴倶楽部系7)。これ以外にも、後に民党側の会派に参加する議員 …
第1回総選挙後の政界縦断の動きは、1991年度予算案が成立した後は停滞した。立憲自由党の離党者の多くが結成した自由倶楽部は、薩長閥政府支持派とはならず、自由党に改称した同党と接近し、そして合流した。民党は再び衆議院の過半 …
憲法公布直後、金子堅太郎、伊藤巳代治、井上毅が伊藤に、政府党を結成して、対抗意識のある2大野党を引き離す(政府党が一方と組むということだと考えられる)という提案をした際、伊藤は、ビスマルクに倣って超然主義を採り、政党を操 …
伊藤博文は、政党(明確に政党組織であったのは民党のみであった)が多数派として力を持つ衆議院の現状を目の当たりにして、政府党の結成に舵を切ったといえる。しかし他の薩長閥政府有力者は、現実から目をそらすか、民党を抑えられる、 …
巴倶楽部と独立倶楽部は、第2回帝国議会で衆議院が解散された翌日の、民党懇親会に参加している(自由党『黨報』第6号32頁。1891年11月23日付の読売新聞には真中忠直-当選以来無所属-が「民党一方の旗頭」となって打って出 …