日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
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群雄割拠(⑬⑭)~桂と原の一時的な影響力の低下と薩摩閥浮上の前兆~

1910年11月29日の原敬の日記によれば、中央新聞記者の辰巳豊吉が原に次の事を述べた(『原敬日記』第4巻125~126頁。中央新聞は大岡育三が経営していた国民協会の機関紙と言えるもので、大岡が立憲政友会入りした事で、同 …

1列の関係・野党の2択(⑫)~立憲国民党の境遇と強硬姿勢~

立憲政友会が中央に位置するという構図は変化しつつあった(図⑩-A、第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~参照)。しかし政界全体が薩長閥の山県-桂系と、自由党系に2極化してきてはいても、改進党系がまだ残っており …

1列の関係(⑫⑬)~政権譲渡を巡る駆け引き~

1910年12月1日付の原敬の日記(『原敬日記』第4巻127~129頁)を見ても分かるように、桂総理は今回(第27議会後だと思われる)限りで辞職する方針であったものの、西園寺が後継となる事は確実であったわけではなく、同じ …

第3極・連結器(⑫)~同志倶楽部の同盟倶楽部への接近~

同志倶楽部には地価修正に積極的な議員もいた自由党において、特殊な立場であった東北地方選出議員、立憲改進党を含めた民党の大合流を志向していた九州派の議員が多かった。後者はもちろん、前者も、自由党に比べ地価修正よりも地租軽減 …

野党第1党の分裂・新与党の分裂(⑫)~同志俱楽部の結成~

自由党からの、同志倶楽部を結成する議員達の離党は、星の主導に対する反発、星の薩長閥政府への接近に対する反発、収賄の疑惑があった星を、自由党の執行部がかばったことへの反発が結びついて起こったのだといえる。中でも野党が与党化 …

野党第1党の分裂・1党優位の傾向(⑫)~再編後にも離党者がでる第2党~

立憲国民党からは、その結成後、1911年2月15日に田川大吉郎、3月8日に木下謙次郎、同18日に佐藤庫喜、7月10日に石郷岡文吉、市田兵七、竹内清明が離党した(田川のみ又新会出身、他は憲政本党出身)。木下と佐藤は大分県選 …

1列の関係・1党優位の傾向(⑫)~立憲政友会の横暴/残されている記名投票の結果~

第27回帝国議会期の各会派、無所属議員の立場を知る手掛かりとなる、記名投票の採決が2つある。1つは、立憲国民党の守屋此助の質問について、立憲政友会の長晴登が、質問主意書を提出しないで質問することが規則に背いているとして出 …

第10章 1列の関係・野党の2択(⑪)~鉄道広軌化と、政国合流を狙う犬養~ 註

註1:政界全体が薩長閥と自由党系の連合体と、改進党系の2つに分かれた場合、改進党系の埋没は避けられる。山県-桂系と立憲政友会を、共に旧体制の主要な構成要素として同一視することで、存在感を示すことができるからだ。しかし埋没 …

連結器(⑫他)~すでに役割を失っていた2大民党の連結器~

又新会残留派の松本恒之助は、もともと、三重県郡部から出身地である高知県の郡部に選挙区を移した大石正巳から後継指名を受けて、第8回総選挙に立候補した。当時は第1次桂内閣期であり、松本は、立憲政友会の尾崎行雄と憲政本党の大石 …

1党優位の傾向(⑫)~現在においても重要な指摘~

原敬は1910年12月14日付の日記に下のように記している(『原敬日記』第4巻153頁)。この日の日記には、桂が条約改正後に辞職し、再び総理には就かない事、後継は立憲政友会に譲るという内容の話をしながら、後継を西園寺(立 …

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