日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
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野党再編・実業派の動き・新民党(⑩)~戊申倶楽部と又新会の議員の行き先~

ここで、戊申倶楽部と又新会の議員達の分化について見ておきたい。まず、それぞれの議員がどの政党、会派へ移動したかを見る。議員の氏名(分化の時点で離脱している場合は氏名の次に「×」を付した)、選挙区、職歴(地方議員を「地」、 …

1党優位の傾向(⑩)~さらに膨らむ優位政党政友会の議席~

第10回総選挙における立憲政友会の獲得議席は187議席であった(定数は379。190議席で過半数となる)。それが第26回帝国議会開会時には200となっていた。その2日前、尾崎行雄は又新会を離れ、立憲政友会に復党していた。 …

野党の2択(⑩)~形になった野党の2分化~

旧又新会系、旧戊申倶楽部系のうち、中央倶楽部にも立憲国民党にも参加しなった議員達が、合流して会派を結成する可能性はあった。しかしその人数は30名程度(※)であり、非政友会勢力が当時、立憲国民党と中央倶楽部に整理されたとい …

野党の2択・野党再編・新民党(⑩)~立憲国民党の結成~

憲政本党、又新会、無名会は、中央倶楽部の結成を追うように、同派結成の10日後の1910年3月13日に、立憲国民党を結成した。これには憲政本党の全63名が参加したが、又新会からの参加は、全33(もともと又新会の小合同派であ …

(準)与党系の不振・実業派の動き(⑩)~中央交渉部の復活という面も~

もともと中立実業派には、会派であった当時の吏党系が政党の色を濃くしていく中で、そこから離れた勢力という面があった(第1回総選挙後にすでに、吏党系の大成会から、民党的―野党的―な議員、中立的な議員が離れるという動きがあった …

実業派の動き・野党再編(⑩)~吏党系再拡大、中央倶楽部の結成~

1910年2月25日、戊申倶楽部の代議士総会が開かれ、中安信三郎が幹事会の経過報告をした。その内容は、肥田、仙石、中村、千早、中安が出席し、肥田が憲政本党と又新会に新党結成の議論がある事を受け、戊申倶楽部が主唱して各派に …

新民党(④)~政党化の是非③新民党(同志研究会系)~ 註

櫻井良樹氏の、蔵原惟郭(猶興会→又新会→無名会→立憲国民党→無所属団→立憲同志会衆議院議員)に関する研究(『大正政治史の出発』第3章)によって、又新会の蔵原の考えを理解できる。それは同志研究会系、その他の組織が集まった政 …

(準)与党の不振・実業派の動き・野党再編(⑩)~戊申倶楽部の再編への動き~

戊申倶楽部の一部の議員達は、淡々と再編への動きを進めていた(例えば1910年2月25日付東京朝日新聞。同派の肥田景之と中村弥六が又新会の河野、島田、大竹、細野に、戊申倶楽部と大同倶楽部の合流に加わるように申し込んだ事、両 …

新民党・野党再編(⑩)~又新会の分裂、無名会の結成、小合同へ~

宮地正人氏は、1909年末から1910年初めにかけて、同派が以下のグループに分かれていったとする(宮地正人『日露戦後政治史の研究―帝国主義形成期の都市と農村―』275~276頁)。()内、「…」以下は筆者が足したもので、 …

野党の2択・野党再編(⑩他)~地方で見られた非政友会大同団結~

櫻井良樹氏は、立憲政友会の「党弊」に対する官僚派と非政友派の連合が、少なくとも一時的なものとしては、地方レベルでは当時存在していたことを、大阪の例を挙げて指摘している(櫻井良樹『大正政治史の出発』82~83頁。同著「はじ …

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