1列の関係(⑪)~民党における農と商~
1899年2月7日付の東京朝日新聞は、憲政本党の多数である「農民派」が、「農民黨」として、市部の独立に反対すべきだとする一方、党費をつかさどる少数派の「商人派」が地租増徴に反対してから商工業者の歓心を失い、運動費どころか …
1899年2月7日付の東京朝日新聞は、憲政本党の多数である「農民派」が、「農民黨」として、市部の独立に反対すべきだとする一方、党費をつかさどる少数派の「商人派」が地租増徴に反対してから商工業者の歓心を失い、運動費どころか …
優位政党(この場合は政党ではなく薩長閥)内に深刻な亀裂が生じた時、そのどちらと組むのか、協力していた野党間、あるいは1つの野党内(特に野党第1党)に亀裂が走ることがある。例えば1997~98年当時は、自由民主党内が、日本 …
2大民党の野党路線を維持させようとし、それに反する動きをする自由党への反発を強めていく勢力(同盟倶楽部、同志倶楽部―本章⑫参照―、以前より自由党への対抗意識も持つ立憲改進党)、妥協的な外交に反発する勢力(国民協会に属して …
山下倶楽部~日吉倶楽部は、民党側に議員を取られ、第6回総選挙で同志を減らし、さらに伊藤新党に切り崩された。立憲政友会より前に帝国党が結成された際にも、同志倶楽部結成時からのメンバー10名のうち、2名が参加した。日吉倶楽部 …
ドイツ帝国成立前のプロイセンの下院には、保守派、自由派、民主派という議員の大まかな区分があった。その自由派の中から最初の本格的な政党が誕生した。それは商工業者を主な支持基盤とする進歩党であり、そこからドイツ帝国の、左派と …
犬養による中国改進党の結成は、互いに溝もある対外硬派を、自由党に対抗し、薩長閥政府が無視し得ないような大政党にするための手段であった(五百旗頭馨『大隈重信と政党政治 複数政党制の起源 明治十四年-大正三年』206-207 …
大隈と後藤の入閣は、民党を分断して弱めるためならば、つまり政府の戦略上有効であれば、民党系の要人の入閣が可能であることを示した(もちろん政党等からではなく、個人としての入閣という形であり、また、かつて明治政府の要人であっ …
4極構造とは、政党内閣に否定的な薩長閥(当時は≒山県-桂系)と近い、吏党系を最も右の極とし、その薩長閥と駆け引きをして政権を得ることを優先させる自由党系を中央右、同様の志向と、薩長閥と妥協せずに対決しようとする志向が同居 …
奉答文事件は、対外強硬派であった秋山定輔(交友倶楽部)が、河野に提案したもので、同志研究会の尾崎行雄、鈴置倉次郎、小川平吉、日向武輝らも相談を受けていた。尾崎は本来対外強硬派ではなかったが、第1次桂内閣への反発も背景にあ …
図⑧-Bの、青い亀裂で、立憲政友会は分裂した。 図⑧-B:第8回総選挙後の政界の亀裂 ※憲政本党内にも亀裂が入っていたが、分裂には至らなかったと言える。 この立憲政友会の分裂によって、山県-桂系(第1次桂内 …